流れる者たちの公理



 クオリークレストの乾いた風に吹かれながら、プリムロゼは歩んできた道のりの遠さを思いやった。
 今回は仲間の商人トレサのたっての願いにより、この町を訪れた。「名無しの旅人の手記」とやらに町の名が記されていたそうで、彼女はここを訪れる日をずっと楽しみにしていた。
 それはプリムロゼのものとはまるで違う、明るくて前向きな旅の目的だ。仲間になった当初はあまりの落差に頭がくらくらしたが、近頃はそれに付き合うのも悪くないと思えてきた。少し前よりプリムロゼの心持ちはずっと穏やかになっていた。
 彼女は宿近くのベンチに座り、衣の裾をはだけるように足を組む。白い肌を大胆に衆目にさらしながら、ある人を待っていた。
「もしかして、そのようなところでは?」
「う、ううむ……これは難題だ」
 プリムロゼの視線の先では、仲間のオフィーリアとサイラスが会話している。まとう衣装は白と黒、まるで対の存在のようだ。
 神官は苦笑しながらこちらへやってきた。
「どうしたのオフィーリア」
 取り残された学者は、一人で何かつぶやきながら思索している。オフィーリアは彼を見やり、小声になった。
「サイラスさんが、先輩の方からいただいたというお手紙を読まれていたのですが——」
 学者の先輩。オデットだ、とすぐに分かった。
 そもそも、サイラスはこの町にいるオデットを訪ねるためにアトラスダムを出たらしい。これほど長い間一緒に旅をしていたのに、町に来る直前までそんな話は聞いたことがなかった。しかも、プリムロゼはあの女性が現在ここに住んでいることすら知らなかった。
 宿についたサイラスはプリムロゼの部屋を訪問するなり「オデット先輩の家に行くから時間があればキミも一緒に来ないか」と誘った。プリムロゼは目を白黒させ、一も二もなくうなずいた。
 オデットとは古い知り合いである。幼い頃、ほんの数年ほど一緒に暮らしていた。ノーブルコートの領主だったプリムロゼの父親が、身寄りのなかったオデットを屋敷で世話していたらしい。やがて彼女は独り立ちして家を出ていき、アトラスダムの王立学院に入った。その後、いろいろあって学院もやめてしまい、以降の行き先についてプリムロゼは何も聞いていなかった。
「手紙って、どんな内容だったの?」
 オデットとサイラスのやりとりだなんて、気になるではないか。彼女はオフィーリアの肩越しに学者の麗しい横顔を盗み見た。
「女性との関係について誤解されやすいから気をつけて、というお話だったようです」
「関係って、あれのこと?」
「ええ。少しお言葉を飾りすぎることについて……ですね」
 二人はそろってため息をついた。
 仲間としては深刻な話題である。いい年をした男について何故こんなに悩まなければいけないのか、はなはだ疑問ではあるが。
 サイラスの扱う美辞麗句はもはや罪の領域だ。耳触りの良い言葉を女性にぽんぽん投げかけ、無自覚に恋の谷底へと落としまくる。オフィーリアは言葉を尽くして指摘しようとしたが、まるで通じなかったらしい。
「あれはもう治らないでしょ」
「そうでしょうか……」
 三十年間築き上げてきたものが、今さら他人の意見で変わるはずがない。サイラスは面と向かってそのままずばり言われても、ただ首をかしげるだけなのだ。あの瞬間はいつも、同じ言語を使っているのかと疑いたくなる。
 学者は眩しい日差しの中で顔をうつむけていた。何をしているのかと思えば、手紙を読み直してオデットの住所を確認しているらしい。今すべきことなのか、それが。
 あちらはまだ時間がかかりそうだ。神官が隣に腰を下ろす。
「オフィーリアはサイラスと二人旅をしていた時期があるのよね。その、大丈夫だったの?」
 大聖堂で箱入り娘として育ってきた神官に、あの学者は刺激が強すぎたのではないか。そう思って尋ねると、オフィーリアはそっと胸に手をあてる。
「ええ、最初はびっくりしてしまいました。でももう慣れましたから」
「慣れた」と言い切られ、プリムロゼは軽く目を見張った。オフィーリアは思ったよりもずっと自律心が強いのかもしれない。
「ですが、初めて会われる方は驚いてしまいますよね。その先輩さんはどうなのでしょう」
「あの人は絶対大丈夫よ」
 プリムロゼは即答した。それだけは保証できる。
「そういえば、先輩さんはプリムロゼさんともお知り合いなんですよね」
「ええ。オデットさんって言うの。久しぶりに会うから楽しみだわ」
 オフィーリアはすでにプリムロゼの過去や旅の目的を知っている。こうしてさらりと話題を共有できるのはありがたい。
「楽しんできてくださいね」彼女は神官らしいほほえみを浮かべた。
 ちょうど調べものが終わったのか、サイラスが二人の前に戻ってくる。
「では、私たちはオデット先輩の家に行ってくるよ」
「お気をつけて」
 オフィーリアと別れ、彼の案内で町を歩いた。
 踊子と学者というちぐはぐな組み合わせは、すれ違う人々の目を引いた。踊子業をそこそこ長く続けてきたプリムロゼは、こういう注目には慣れているはずだった。が、学者が隣にいるといつもと違う緊張感がある。嫉妬混じりの視線は今まであまり感じたことがなかった。
 とはいえ学者はまるで気にしていないので、プリムロゼもそれに従う。
「あなたもオデットさんに会うのは久しぶりなのよね」
 学者は少し眉を上げる。
「ああ、十年ぶりくらいかな」
「彼女が学院を出てからずっと会ってなかったの?」
「ううむ……忙しくてね。先輩も研究があるからわざわざ来るなと言うし」
 実にオデットらしい反応だ。ますます会うのが楽しみになってきた。
 アップダウンの多い道を歩き、崖の懐にある階段を上る。見晴らしのいい高台に一軒の家が建っていた。
 サイラスは「ここか」とうなずき、ドアをノックをした。
「はいはーい、ちょっと待ちなー」
 戸板越しに懐かしい声が聞こえた。ちょうど在宅していたらしい。
 扉が開いた。くせの強い金髪を頭の後ろで縛った女性が出てくる。肩にかけたローブが学者としての身分を物語っていた。
 意志の強そうな瞳が数回瞬き、二人を視界に映す。最後に顔を合わせた時から十年ほど経ったはずなのに、以前とほとんど変わらない顔立ちだった。
「久しぶりだね、オデット先輩」
 サイラスが朗らかに笑う。オデットは目の前の男をまじましと見つめ——突然身を翻して家に戻った。ばたんと音を立てて扉が閉まる。
 放置された二人は顔を見合わせた。
「もしかして、近々家を訪ねるってこと、オデットさんに知らせてなかったのかしら」
「ああ、確かに手紙は出し忘れていたな……」
 サイラスは困ったようにあごをなでた。普段は周到なほど準備するのに珍しいことだ。きっと相手がオデットだからだろう。気を許している証拠だ。
 戸惑う二人が見守る中、しばらくして再びドアが開いた。オデットは驚愕を浮かべていた。
「あんた、もしかしてプリムロゼかい!?」
「ええ、お久しぶりです」
 プリムロゼはほおをほころばせ、軽く会釈する。踊子の格好をしているから気づかれないだろうと思っていたので、素直に嬉しかった。
「よく来てくれたねえ、さあ入って入って」
 と、オデットは完全に約一名を無視してプリムロゼの肩を抱く。
「オデット先輩……」
 サイラスはなんとも言えない表情で立ち尽くしていた。置いて行かれた子どものような、ちょっと見たことのない顔だった。プリムロゼは愉快な気分になる。
 オデットはそんな彼を横目でにらんだ。
「……消えないね。どうやら徹夜明けの幻じゃなさそうだ」
 なんだか不思議なテンションだと思えば、徹夜していたのか。もう四十になるはずだがよくやるものだ。
 やっと視界に入れてもらったサイラスは肩をすくめる。
「正真正銘、本物だよ。相変わらず元気そうで何よりだ」
「そっちもね。用があって来たんだろ、入りな」
「ああ、失礼するよ」
 オデットの家はこぢんまりとしていた。通された居間の調度品は簡素で品が良い。普段は居心地のいい空間なのだろうが、現在部屋は散らかり、あちこちに雑然と本が積まれていた。書斎を兼ねているのかと思いきや、そちらは別にあるらしい。
 そういえばプリムロゼはオデットの研究内容を知らなかった。積まれた本の表紙には「精霊」「魔力」などの単語が書かれているようだ。
 オデットは二人を椅子に座らせ、紅茶を配った。感嘆したように息を吐く。
「しかしまあ、あんたたちがそろってうちに来るなんてね」
「ふふ、驚いたかい?」
「そりゃあそうだろ」
 確かにオデットからすると意外な組み合わせに違いない。プリムロゼはいたずらが成功した気持ちになり、
「他にも六人、仲間がいるのよ」
 と告げた。オデットは目を丸くした。
「へええ、サイラスに仲間がね……。一体何があったのか聞いても?」
「もちろん」
 紅茶で喉を潤し、サイラスはなめらかに語り出した。プリムロゼもテリオンたちと出会ってからの話をする。
 ——そして。この時初めて、プリムロゼはこの学者がアトラスダムの王立学院を追い出された顛末を知ったのだった。
「あははははは!」
 オデットはお腹を抱えて笑い転げた。プリムロゼも肩を震わせ、必死に衝動をこらえる。
「やはり笑われたか……」サイラスはどこか気まずそうに、だが反省の色なく腕組みした。
「いやー、いつか女関係で失敗するとは思ったが、まさか王女とそうなって追放とは! わたしの予想の斜め上を行くねえ、やっぱりあんたは面白いよ」
 プリムロゼも似たような感想を抱いたが、サイラス相手にここまではっきり言えるのは、大陸広しといえど彼女だけだろう。
 渦中の学者は眉を微妙な角度に歪めていた。
「殿下の名誉のために言うけど、あくまでも事実無根だよ」
「あーはいはい。そうだったね」オデットは目元の涙を拭う。「王女もテレーズって子も、ただの生徒——そう言いたいんだろう?」
 サイラスはこくりとうなずく。プリムロゼは内心ため息をついた。
 テレーズという子がかわいそうで仕方ない。「恋は先に惚れた方の負け」とはよく言うけれど、それにしても相手が悪すぎる。彼女はこの男の鈍感さに気づけなかったのだろうか? 「先生」というフィルターを通したせいで目が曇っていたのかもしれない。
 オデットはプリムロゼに目くばせした。彼女も同じことを考えているのだろう。
「まったく、話を聞いただけのわたしが分かることに、なんであんたは気づかないんだか」
「うん……?」
 察しの悪い学者を見限り、オデットは話題を切り替えた。
「で、あんたはわたしを笑わせに来たのかい? だとしたら殊勝だって褒めてやるよ」
「褒められるのは別の時にするよ」
 やっと本題に入るらしい。プリムロゼは姿勢を正す。サイラスがちらとこちらを見た。
「今日は聞きたいことがあって来たんだ——けれど、オデット先輩。あなたがどうして昨晩徹夜したのか、聞いてもいいかな」
 そこに突っ込むのか。確かに気になってはいたが。
 オデットは面白がるように腕を組んだ。
「ふうん? わたしを気遣うなんてどういう風の吹き回しだい。でも、教えてやる義理はないね」
「なら勝手に推理させてもらうよ」
 解くべき謎を見つけた彼は若干早口になった。
「オデット先輩の研究が大詰めだという話は手紙で知っていたから、そちらの可能性も考えたが……あなたの徹夜の理由は、この部屋が物語っているね」
 プリムロゼは首をかしげた。本の山があちこちに積まれ、いかにも学者らしい部屋に見える。
「それでどういう推理ができるの、先生」
「プリムロゼ君はこの部屋に違和感を覚えないかい?」
 改めて居間をざっと見回す。オデットは高みの見物とばかりに椅子の背にもたれていた。
「ううん……そうね、本が多いことしか分からないわ」
 そういえば、ノーブルコートで一緒に住んでいた頃、オデットの部屋はどんな様子だっただろう。少なくともここまで荒れてはいなかった気がする。そう答えると、
「その通り。綺麗好きの先輩が、客人の訪れる部屋をこの状態で放置することはあり得ないだろう」
「そうだね、あんたと違って整理整頓は得意だから」
 オデットは意地悪な声で応じた。ということはサイラスの部屋は散らかっているのか。なんとなく想像がつく。
「つまり、先輩はここに積まれた資料で調べ物をしていたんだ。本を出したままなのは、すぐに終わると考えていたから。そんな時、私たちが訪ねてきた。そうだろう?」
 サイラスが得意げに言い切ると、オデットは「あーあ」と言いながら伸びをした。
「だいたいあたりだよ。でも資料を出しっぱなしにしていた理由は、とにかく急ぐ用事だからだ。今、ちょっと厄介事を抱えていてね」
 するとサイラスは身を乗り出した。
「それは興味深い! あなたはなんでも余裕でこなしてみせる人だと思ったが——」
「それで褒めているつもりかい?」オデットは苦々しく笑う。
「もちろんだとも。さて、その厄介事についてくわしく聞きたいな」
「仕方ないねえ」
 後輩の詮索から逃れることを諦めたオデットは、別の部屋から分厚い紙束を持ってきた。どさりとテーブルに載せる。
「オデット先輩、これは?」
「ここの鉱山の労働者の名簿だよ」
 登録番号、名前と年齢、出身地などが表になっているようだ。
「これが厄介事と関係あるのね」
 プリムロゼはぺらりと名簿をめくってみた。どの紙にもびっしり黒い文字が詰まっており、読むだけでめまいがしそうだ。
「そうさ。実は今、この町で行方不明事件が多発していてね」オデットはふうと息を吐く。目元に疲れがにじんでいた。「それが発覚したのが、つい昨日のことなんだよ」
 いきなり物騒な単語が出てきた。プリムロゼは眉をひそめた。
「人がいなくなった……?」「それなのに、昨日になってはじめて事件だと分かったのかい?」
 サイラスが不思議そうに尋ねる。オデットは首肯した。
「ああ。ちょうど昨日の昼間だ。わたしがこの町に来てから世話になっていた人のお孫さんが、突然いなくなってね。その件を調べていたら、ちらほら別の人も行方不明になってたことが判明したんだ」
「ふむ、もしかして鉱山労働者が失踪しているのかな。それで発見が遅れたとか」
「そうさ。鉱山には出稼ぎでたくさん人が来るけど、反対に夢破れて出ていくやつも多い。どうも人数の管理が甘かったみたいで、本当に行方不明になったのか、単に夜逃げしたのかはっきりしないんだ。
 そこでお孫さんの捜索は一旦別の人に任せて、わたしは他にいなくなった人を特定してやろうと、名簿の洗い出しをやっていたんだが……おかげですっかり徹夜だよ」
 オデットは語尾を大きなあくびに変えた。
 人が忽然といなくなる。しかも複数人だなんて、ただごとではない。学者二人が平然としているのが、プリムロゼからするとどこか浮世離れした感がある。
 サイラスは名簿を一枚手にとった。
「オデット先輩、これは誰に頼まれた仕事なのかな」
「鉱山労働者の元締めというか、監督者だね。トップに立って地主側とやりとりしてる人さ。その人と、孫を探してるおばあさんにはこの町に来てからずいぶん助けてもらった。だから、どうにかして見つけてやりたいんだ」
 オデットは疲労の中に決意をにじませ、テーブルに肘をついた。
 プリムロゼは手で名簿の厚さを測ってみた。少なくとも中指一本分はある。
「ねえオデットさん、この名簿ってどのくらいあるの」
「……千人」
「えっ」
「正確には千二百七十四人分。で、新しく鉱山で働きたいって希望してるやつらが、半年の順番待ちでわんさか町に来てる。そっちからも行方不明者が出ている可能性があるね」
 途方もない数字を聞き、プリムロゼはつかの間放心してしまう。サイラスはやれやれと首を振った。
「名簿の洗い出しなら私も手伝うよ。二人で手分けして調べた方がいいだろう」
「ありがとよ。あんたも用事があったのに悪いね。この埋め合わせは必ずするよ」
「いや、こちらを優先すべきだ。人命がかかっているのだから」
 サイラスは名簿を持ち上げ、とんとんとテーブルの上で端を揃えた。
「オデット先輩はどのようにして行方不明者を割り出そうとしていたのかな」
 するとオデットは別の紙束を持ち出す。
「この二つの名簿を見比べる作業をしてた。あんたの持ってるそれは、今まで雇った全部の労働者が書かれた名簿だ。で、労働者たちは日雇いだから、毎日一定の金銭が支払われる。こっちはその給料の方の明細だね。二つを照らし合わせたら、ある程度は行方不明者を絞り込めるだろう。
 だがさっきも言ったとおり、給料をもらってないやつが本当に行方不明になっているかは分からない。とにかく人の動きが激しすぎて、誰も把握できてないんだよ」
 オデットは困りきったように天井を仰いだ。サイラスは「なるほど、ならば行方不明になった可能性がある人を割り出してから、追加で聞き込み調査をしなければならないわけだね。そちらはアーフェン君に頼むべきだろうか……」とつぶやきながら、猛スピードで名簿をめくりはじめた。
「あの、オデットさん。私はどうしたらいいかしら」
 サイラスは完全に書類の中の世界に行ってしまった。椅子の上でもぞもぞするプリムロゼに、オデットは疲れた顔で笑いかけた。
「あんたは——そうだね、わたしの気晴らしに付き合ってくれるかい」
 二人はサイラスをその場に置いて外に出た。学者はもはや何も聞こえていないらしく、ひたすら手元に集中していた。
 実際に気分転換したかったのだろう、オデットは昼の光を浴びて深呼吸した。
「学者も大変なのね」
 これでは自分の研究どころではない。明晰な頭脳を持ち、町人に頼られる存在というのも考えものだ。
「ま、これは町への恩返しみたいなもんだからね。研究費だってもらってるわけだから、協力しないわけにはいかないよ」
「あら、研究費を?」
「言ってなかったかい、わたしは精霊石と魔導書について研究してるんだ。だから石の産地のクオリークレストまで来たわけさ」
 オデットは、二人の間に横たわる十年の空白を埋めるように語りだした。
 この町に引っ越して精霊石を調べていた彼女は、ある日突然労働者の監督に呼び出された。石や地質にくわしいとみなされ、金鉱石の調査を依頼されたのだ。十年前、ちょうど町はゴールドラッシュがはじまった頃だった。断る理由もなかったのであちこち調べ回って金鉱石のありそうな山を特定してやると、大いに喜ばれた。
 その後もオデットはたびたび労働者に知識を貸し、代わりに研究費をもらっているらしい。なかなか充実した十年間を送っていたようだ。
 彼女は不意に口をつぐむと、山の端に視線を投げた。
「——悪かったね、今まで何も構ってやれないで」
 それはプリムロゼに向けられた言葉だった。「構ってやれなかった」というのは、クオリークレストに来てからの話ではないだろう。プリムロゼは彼女の言わんとしていることをきちんと理解した。
「ううん、いいの。私も正直それどころじゃなかったから」
 父親の死によりプリムロゼが奈落に落ちていたさなか、オデットは王立学院を出たのだった。レブロー男爵は「オデットが一向に墓参りに来ない」としきりに愚痴っていたが、プリムロゼはなんとなく理由を察していた。それに、こちらだって父親の墓など一度も参っていないのだから、同じことだ。
 軽くかぶりを振って、オデットは表情を切り替える。
「そういやあんた珍しい格好してるね。まさか踊子にでもなったのかい?」
 プリムロゼはその場でくるりとターンを決めた。
「そうよ。結構いい線いってるの」
 昔は父親以外の誰にもこの趣味を教えていなかった。でも今なら胸を張って言える。
「へえ、今度是非見せてもらいたいねえ」
「今の調べものが終わったらゆっくりお話しましょ」
 オデットの言葉がプリムロゼの胸に心地よく染み入る。「何があった」とは決して尋ねないのが彼女のいいところだ。
「で、今はサイラスと旅してるんだったか。あいつ、どんな感じだい?」
「話したとおり、いつもああいう調子よ。困ったものよね」
 出会いが出会いだったので、以前のプリムロゼは確かにサイラスを「年上の男性」として認識していたはずだった。しかし長く旅を続けるうちに子どものような面を何度も見せられ、正直困惑していた。未だに新鮮に振り回されているのはよろしくない傾向だ。
 オデットはうっすら目を細めた。
「あれは治らない病気みたいなものだからねえ。ま、あんたや仲間がいるなら安心かな」
「あら、私たちが面倒を見なきゃいけないの?」
「面倒というか、そうだねえ、目を離すべきじゃ——」
 オデットは不自然に言葉を切り、続きを喉奥に飲み込んだ。「どうかしたの」とプリムロゼが質問しようとした時、再び口を開く。
「あいつの作業は夜までかかるだろうから、夕飯はうちで食わせるよ。今後あんたたちに頼みたいことも一緒に決めておく。だから今日のところは、町の見学でもしていったらどうだい」
「そうしようかしら」
 プリムロゼもある程度教養を積んでいるとはいえ、学者二人と肩を並べて調べものなどできる気がしなかった。ありがたく提案に従うことにする。
 プリムロゼは手を振り、家の前の階段を降りていく。別れ際、オデットの小さな独白が風に乗って届いた。
「仲間……仲間ねえ」

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