流れる者たちの公理



 雨上がりの夜空は空気まで冴え渡り、丸い月をいっそう輝かせる。そんな時刻、クオリークレストの宿の裏手に四人と一人が集まっていた。
 テリオンは目をすがめて遺跡の入り口を見つめた。偶然それを発見した商人は今、地主の屋敷に忍び込むため町の上層を目指しているはずだ。対するこちら——学者、踊子、薬屋とテリオンは行方不明者の捜索のため、地下にある遺跡に入ろうとしていた。
「サイラスあんた、まだあの本を使ってるんだってね」
 見送りに来た先輩は学者に近寄ると、無造作に一冊の本を渡す。
「これは……もしかして、オデット先輩のつくった魔導書かい?」
 学者は目の高さに本を持ち上げ、声を弾ませた。
「そうさ、わたしの研究成果だよ」
「捜査に関係のない本まで居間にあったのはこれが理由か。ありがとう! 以前の本もとても役に立ったよ。使いすぎて少々傷んでしまったが……」
 会話からすると、学者が魔法を使う時に開いている本はこの先輩が渡したものだったらしい。
「なあ先生、いつも使ってるけど魔導書ってなんなんだ?」
 薬屋が余計な口を挟んだ。これは話が長くなるパターンだ。これから未知の場所に挑むという時にやめてほしい。が、テリオンの願いは通じず、学者は喜んで話しはじめた。
「そうか、まだアーフェン君には教えていなかったね。魔導書は中に刻まれたまじないによって、魔法の威力を拡張したり、収束したりできるものだよ」
「碩学王の奥義ってもんが使えれば、もっと自由に魔法を操れるらしいけどね」
 先輩が危険な発言をした。そんなものをこの学者が手に入れたらどうなってしまうのか、想像するだに恐ろしい。昼間、廃坑の奥で神官がさらりと「サイラスさんの魔法があれば壁を破壊できるかも」などと言っていたが、あれは現時点でも決して冗談ではないのだ。
 薬屋は学者から古い方の魔導書を渡され、ぺらぺらとめくった。
「へえー。でも先生、この本ところどころ文字が消えかけてるぜ」
「あんた、まさか書き足さなかったのかい?」
「こんな頻度で使うことになるとは思わなくてね……」
 それに、オデット先輩の持ち物だったから余計なことはしたくなくて。学者はにこにこしながら付け加える。
 先輩は盛大にため息をついた。
「……とにかく、これからはそっちの新しい方を使うように」
「分かったよ」
 学者の例の賛辞も見事に流し、先輩は生暖かい目になる。テリオンはますます彼女に対する評価を上げた。
 先輩は二手に分かれた彼らの連絡係として家に居残ることになった。ここ数日ずっと根を詰めていたせいか顔色が優れず、学者がそう判断したのだ。
 彼女はこわばった顔で「気をつけてな」と手を振る。
「ああ。それではオデット先輩、行ってくるよ」
 学者の穏やかな声とともに、四人は遺跡に突入した。
 石材で組まれた壁や床は古びているが状態は良い。細い通路の脇には水路があり、結構な勢いで水が流れている。にわか雨のせいで増水しているようだ。興味深そうにあちこち観察する学者がもし足を滑らせたら、相当面倒なことになるだろう。
 テリオンは足音を忍ばせて床を踏む——が、他の三人は何の配慮もなく靴音を立てていた。とりわけ学者がひどい。かかとのある靴を履いているのだから当然といえば当然だが、そもそも何故そんな履物で旅をしているのか。それを言うなら踊子も大概だが。
 そんなことを考えていたら、踊子が話しかけてきた。
「ねえ、テリオンが前を歩いてよ」
「……理由は?」
「テリオンが一番こういうとこに慣れてるもんなー」
 いつの間にか横にいた薬屋がうんうんうなずき、踊子がくすりと笑った。
 仕方なしに前をゆく。最後尾を歩く方が性に合っているが、剣士や狩人がいない現状ではテリオンが先陣を切るのが最善だろう。
 現在ともに行動するメンバーは圧倒的に前衛が少なかった。学者は遺跡に入る前に「人捕る亀が人に捕られる——なんてことはごめんだね」などと言っていたが、未知の危険に備えるにあたって、この振り分けで本当に良かったのだろうか。
「そうそう、この地方には盗公子エベルの伝説というものがあってね」
 出し抜けに学者の声が朗々と響く。テリオンはぎょっとしてあたりを確認した。特にこういう場所につきもののコウモリを警戒したが、魔物の姿はどこにも見えない。
(まさか、例の気配を消す魔法か?)
 それを使っているおかげで、のほほんと歩けるのか。だとすると想像以上に便利な魔法だが、一言くらい告げてから使ってほしいものだ。
「知ってるぜそれ。リバーランドから氷を盗んだって話だろ」薬屋までいつもの大声で応じる。
「ああ、そうして今のように水が豊富なクリフランドができた。この遺跡も、山に降った雨をろ過して地下に伝えているのだろうね」
「へええ」
「相当古い遺跡だから、こういう時でなければじっくり探索してみたかったな。思わぬ宝物が眠っているかもしれないよ」
「あら、盗賊さんの好きそうな話ね」踊子が肘で脇腹をつついてくる。
「別に好きじゃない」
「またまた、そんなこと言っちゃって」
 だんだん訂正するのが面倒になってきた。ため息をつきたい気分になる。
 延々と続く雑談を聞き流しながら先頭を歩くうちに、テリオンは乾いた足跡を見つけた。
「……人が出入りしている痕跡がある」
 注意を促すため一応報告してやった。学者は「やはりそうか」とうなずく。行方不明者のものか、はたまた誘拐犯のものか。
「泥の足跡がついている。その泥も乾ききっていない。見るからに新しい——」
 説明しながら、テリオンははっとした。泥といえば夕方のにわか雨だ。誰かがほんの少し前、ここを歩いたということか。
「なるほどな。キミの意見は大変参考になる。しかし感心したよ、細やかなところに目端が利くんだね」
 相変わらず学者は相手を問わず称賛する。こちらとしては別に褒められたいわけではないのだが。
「何事も経験と慣れだ。まあ、こんなところであんたの役に立つとは思わなかったが」
 学者は興味深そうにあごに手をあてた。
「キミの体験も学習の成果というわけだ。体験はやがて技術になる——おっと、それどころじゃなかったな。そのことについてはあとで論じよう」
「いや、結構だ。あんたの話は長くてかなわん」
 ずばり言ってやると、学者は珍しく口をつぐんだ。
「気にしていたのか?」
「……少し、ね」
 気にするくらいなら直せばいいのに、彼は一向にそうする気配がないのだった。
 学者の魔法のおかげか、遺跡探索は順調そのものだった。途中でいくつか分岐点はあったが、泥の足跡のおかげで迷わず歩ける。おまけに通路も部屋もとにかく広いため、廃坑よりもはるかに見通しが効いた。そう時間を置かずに最奥にたどり着けるだろう。
「トレサたちは今頃どうしているかしら」
 緊張がゆるんできたのか、踊子がほうっと色づいた息を吐く。
「モーロックってやつの屋敷に押しかけるんだろ? 正面で騒いでる間に裏から忍び込むって話を聞いたぜ」
「あら、それってスティルスノウの時と同じやり方ね、先生」
 テリオンは愕然として学者を振り返った。蒼穹を思わせる双眸がにこやかに視線を返す。
「今回の作戦はテリオン君が思いついたんだよ」
 この男、分かっていて何も言わなかったのだ。テリオンは苦虫をかみつぶす。
「ふうん……」
 踊子の意味ありげな視線がほおをなでた。テリオンがこの学者と同じような思考に至ったことはどうやら事実らしい。薬屋は感心したように相槌を打っていた。
 なんとか気を鎮めようと、ひたすら泥の足跡を追う。やがて水路から道がそれた。角を曲がった先には部屋があるようだ。それまでもいくつか空っぽの小部屋を見つけていたが、今度の部屋からは光が漏れ出ていた。
 いかにも怪しい。テリオンは後ろの三人を手で制した。
「俺が見てくる。あたりを警戒していろ」
 どう考えても自分が適任であったため、テリオンは真っ先に部屋に入った。
 一枚壁を隔てただけで水の気配が遠ざかる。代わりに生臭い匂いが漂ってきた。とっさに口元のマフラーを引き上げる。
 光っていたのは照明ではなく、床に描かれた魔法陣だった。血のような赤色と感じたのは、実際に血の匂いが漂っていたからだ。
(なんだここは……)
 暗くて部屋の全貌が分からないのに鳥肌が立つ。壁や床に染み付いた匂いからして、近くに死体があるらしい。
 もし行方不明者がここにいるとしたら——
「テリオン君、中の様子はどうだい」
 学者が小さく尋ねた。テリオンは部屋をざっと見渡し、動くものがないことを確認した。
「ひとまず危険はないようだ……が、覚悟した方がいい」
 忠告を聞いた学者は白いほおを引き締め、ランタンを持って部屋に入る。
「これは……!?」
 すぐに立ち止まった。続いて踊子と薬屋も突入する。テリオンは部屋の入り口に立ち、背後を見張ることにした。
 学者はかがんで魔法陣に手をあてる。
「驚いたな、地下にこれほどの施設があるとは」
「そんなこと言ってる場合じゃないかもしれないわよ、先生」
 ランタンが部屋を照らし上げる。薬屋がひゅっと息を呑んだ。
「み、みんな、これ見ろよ……」
 彼は壁際に駆け寄った。そこに、両手を縛られ磔にされた男がいた。男のそばには赤い液体で満たされた大きな瓶が置かれている。テリオンは近づかずともその中身を察した。
 薬屋はすぐに男の脈をとり、力なく首を振る。彼は動かぬ男をそっと床に横たえた。
「もう死んでいる、か」
 学者がいやに冷たい声を発した。死体を目の当たりにしても取り乱さないどころかこの反応だ。いっそ冷淡と言っていい。
「くそ、何なんだよこの場所——あっ」
 今にもわめこうとしていた薬屋は、ふと気づいたように死体のふところを漁った。小さな紙を取り出す。
「先生見てくれよ、鉱山で働いてる人の名札だ。管理番号も合ってる。やっぱり行方不明になってた人だぜ」
「そうか……」
「まったく、気味が悪いわね」
 踊子は蒼白になっていた。人並み外れた度胸を持つ彼女にも、さすがに刺激が強すぎたらしい。
 行方不明者は猟奇殺人の犠牲になっていたということか。一体何のためにこんなことを? 床の魔法陣と何か関係があるのだろうか。
 学者は部屋を調べ回りはじめた。血の溜まった瓶に管がつながっているのを見つけ、
「どうやらこの器具で血を抜いていたようだ」
 と何の感情も乗らない声で言う。次に魔法陣の中央に行き、そこにあった赤い石を拾い上げた。
「魔法によって血を結晶化させているのか。だというのなら、この結晶はすべて——」
「先生!」
 悲鳴のような薬屋の声が空気を裂く。また無駄に叫んでいるなと思ったが、この状況では無理もないだろう。取り乱す薬屋の代わりに、テリオンは一層周囲への警戒を強めた。
「こっちに檻みたいなのがあるんだ」
 三人が部屋の奥に走っていく。テリオンのいる入り口からは遠くて見えづらいが、鉄格子があるらしい。
「ねえ、あの女の人……もしかして、一昨日行方不明になった人じゃないかしら」
「ああ……彼女はまだ生きている!」
 テリオンは自分の出番を予感し、名前を呼ばれる前に急行した。学者が気づいて檻の前から退く。
「テリオン君、鍵開けをお願いできるだろうか」
「今やる」
 常に持ち歩いている商売道具を取り出し、すぐに取り掛かった。
 見たところ大した錠前ではない。血を抜いて弱らせた者を入れる場所だから、頑丈な鍵は必要ないのだろう。これならすぐに開けられそうだ。
 檻の中にはかろうじて息をしている女性——意識を失っているが胸は上下していた——と、いくつかの死体が見えた。テリオンは唇を強く噛む。あまり長居したい場所ではない。
 テリオンの手元を見守る薬屋が、弱りきった声を出した。
「なあ先生、どういうことなんだよ。行方不明になった人たちはここに閉じ込められて、血を抜かれてたってことか?」
「おそらくは。あの魔法陣の上にある結晶は、複数人の血によってつくられたもののようだ」
「とんだ猟奇殺人者ね。何が目的なのかしら」
「うむ、魔法陣を読み解くことができれば早いのだが。見たところ、あれはホルンブルグの古代文字のようだね」
 ぼそぼそと会話する三人を尻目に、テリオンはとにかく手元に集中する。やがて指先に確かな感覚があり、かちゃりと錠前が外れた。
「薬屋」「おう!」
 場所を入れ替わり、薬屋が檻に入った。女性を助け起こして手当てをはじめる。こちらはもう放っておいていいだろう。
 テリオンが「仕事は果たした」と学者たちにうなずきかけた時。
「……貴様ら、何者だ」
 その男は魔法陣の中心にいきなり現れた。
 学者と似たようなローブを着て、黒いフードを目深にかぶった男だ。片手に短い曲刀を握っている。
(こいつ、いつの間に?)
 声を聞くまで足音も気配もまったく感知できなかった。男はまるで最初からそこにいたかのように忽然と立っていた。
 各人が驚き、武器を構える。薬屋も騒ぎに気づいているはずだが、手当てに集中していた。
 学者が前に出た。
「通りすがりの学者とでもさせてもらおう」
 いつもどおりの声色に氷が混じっている。みるみる周囲の気温が下がっていくようだ。あの冷気を正面から浴びたことのあるテリオンは、うっかり「今の彼が味方で良かった」と思ってしまった。
 学者は魔法陣の上にあった結晶をつまみ上げる。
「魔法による血の結晶化——これはキミの仕業だね?」
 彼が注意を引きつけている間に、テリオンはさりげなく踊子と位置を入れ替わる。彼女は自分の旅の目的を隠さなくなってから、無闇に前線に出たがらなくなった。ありがたい傾向である。
「ほう」男は片方の眉をくいと上げた。
「この魔法陣に使用されているのはホルンブルグの古代文字——王家が断絶し、失われたはずの文字だ。一介の学者が知り得るものではない。優れた学者であるはずのキミが、何故こんな真似をした?」
 彼はローブの男を同業者とみなしていた。学者とはこんなに血なまぐさい事件を引き起こす存在なのか。テリオンの学者観は歪む一方だ。
 犯人は余裕の態度で曲刀をもてあそんでいる。
「どうやら貴様もただ者ではないな」
 この学者がただ者であってたまるものか。
 相手は質問に答えるつもりなどさらさらないらしい。学者はごく自然な動作で新しい魔導書を開き、臨戦態勢に入る。
「これは決して放置できない。学者としても私個人としても、知識を悪用する者を許すわけにはいかない。さあ、出るべき場所に出て罪を償いたまえ」
 冷え切った空気の中心で、学者は瞳に苛烈な青い炎を燃やす。
 正論だが、こんな事件を起こす相手が素直に聞き入れるとはとても思えない。予想通り、相手は声を低める。
「……何を言い出すかと思えば、はいそうですかと答えるとでも? それより、ここを見られたからには生きて帰すわけにはいかないな。貴様らの血も抜いて結晶の材料にしてやろう!」
 犯人は曲刀を振りかぶった。それを合図に三人は動き出す。
 女性の救護にあたる薬屋は戦力外としても、数の上ではこちらが圧倒的に有利だ。それなのに犯人は逃げるという選択肢を取らなかった。この自信の源はなんだろう。
 訝りつつ、テリオンはとにかく前に出た。現時点で他に前線を張れる味方がいないからだ。
「来い、マリオネットボーンズよ!」
 男が曲刀を横に振ると、目の前に煙が立つ。そこから二体の骸骨が現れた。魔法によって操る魔物のようだ。血の抜かれた死体がある部屋で骸骨を呼び出すとは、なんとも趣味が悪い。
 まずは骸骨の相手か——と武器を握り直せば、背後にエレメントが集中する気配があった。テリオンは脇に飛びすさった。
「火炎よ、焼き尽くせ!」
 即座に魔物の弱点を見抜いたのだろう、学者は高度に制御された炎を放ち、見事に骸骨だけを焼き払う。
 続いて踊子がステップを踏む小気味よい音が床に響く。テリオンは全身に力が湧き上がるのを感じた。のたうつ骸骨を越えて犯人に飛びかかる。
 男は避けるそぶりを見せず、何故か床に曲刀を突き立てた。さらに片手で広げたのは魔導書か。「あの本は——!」と学者がつぶやく。犯人から黒い魔力が発せられ、地面に吸い込まれた。
「テリオン、下よ!」
 踊子が叫ぶ。半瞬ののち、床から闇色の手が出現した。魔法でつくられたそれはテリオンに向かって勢いよく伸びる。
 これが相手の秘策か! とっさに攻撃を取りやめ、そのまま前転して床に飛び込んだ。が、魔手の先が足をかすった。
(しまった)
 途端に目の前に幕が降ろされる。あの魔法は相手の視界を暗闇に閉ざす効果を持っていたようだ。
「テリオン君!」「きゃあっ」
 背後ではまた骸骨が現れたらしい。最初の二体もまだ倒しきっていなかったはずだ。あの二人だけで対処できるのか。闇を操る相手に踊子の魔法は効き目が薄いだろう。学者が詠唱する時間を稼げるかどうかが勝負だが、今のテリオンにはそちらを気遣う余裕がなかった。おそらく犯人はろくに身動きのとれないこちらを狙っている。
 暗闇の中では手持ちのハーブを探り当てることすら困難だった。テリオンは床に膝をつき、雷速で思考を走らせる。
 以前フラットランドで訪れた赤い果実の実る村で、学者は視界を塞がれたまま雷を放っていた。あれは魔法の効果範囲が広いからこそできた芸当だろう。さらに彼は魔導書で魔力を拡散することもできる。テリオンには真似できそうにない。
(さて、どうするか……)
 乱暴な足音が近づいてきた。例の男だろう。きっと暗闇状態のテリオンを前に油断しているはずだ。
 相手の位置さえ特定できればチャンスはある。テリオンはうずくまったまま集中して音を聞き分けた。男が曲刀を振りかぶった瞬間を見極めるしかない。
 荒い息が聞こえる。足音が止まった。テリオンは炎を手のひらに作り出し、正面に投げつける。
「——炎を味わえ」
 ぎゃっと声が上がった。鬼火が命中したのだ。
 地面を踏みしめ、真っ暗な視界のまま立ち上がる。一旦男から距離をとろうとして——
「テリオン、これを使って!」
 踊子の声とともに胸元にぱさりと何かが当たった。落ちる前に掴み上げ、そのまま口に入れる。
 ハーブの苦味が口いっぱいに広がった。瞬きすると、すぐに視界が回復した。
「おらあっ!」
 いつの間にか手当てを終えた薬屋が斧を振るっていた。横薙ぎの一撃で最後の骸骨がばらばらになる。彼の加勢のおかげで踊子の手が空いたらしく、こちらに気を配る余裕が出たのだ。
 焦げたローブを身にまとった男は忌々しげにテリオンをにらみつけ、再び地面に曲刀を突き立てた。
「また来るわよ!」
 あの手につかまったら面倒だ。先ほどはテリオン一人が対象だったが、魔法なら複数人を巻き込むくらい簡単にできるだろう。
 詠唱を中断させようと走り出せば、目の前に再び骸骨が現れる。どれだけ呼び出したら気が済むのだ。強さは大したことないが、足止めの役割は十分に果たしていた。テリオンは舌打ちしながら骸骨に切り込む。
(学者先生は何をやってるんだ)
 彼の魔法でまとめて吹き飛ばせばいいではないか——と魔物を片付けながら部屋の反対側に目をやって、テリオンは驚愕した。
 学者は目を伏せ、魔導書を閉じて静かに立っていた。
「先生!?」
 薬屋が叫ぶ。仲間たちの視線の先で、学者はなめらかに両手を動かし、胸の前に突き出した。
 ——それは神官が光を呼ぶ時の動きだった。
「光よ、ここに!」
 涼やかな声が遺跡に響き、詠唱する犯人の足元にまばゆい光が宿る。白い奔流は柱となってそのまま男を突き上げた。
「ぐあっ」
 男は強烈な一撃を受けて崩れ落ちる。
 その魔法は廃坑の奥で神官が使ったものとそっくりだった。今まで学者が使用したことなどなかったはずだが。
「まさか聖火神の祠で……?」踊子が呆気にとられながら尋ねる。
「いや、どちらかというとオフィーリア君のおかげだよ」
 こんな時でも学者は柔らかい声で応じた。
 テリオンと薬屋は会話を聞く暇もなく骸骨を蹴散らし、じりじりと男を追い詰めた。傷ついた男は膝を折り、曲刀を握りしめる。
「くそっ、このまま終わってなるものか!」
 叫びとともに曲刀を振りかぶって投げた。自棄になったのかと身構えれば、ちょうどテリオンと薬屋の間を縫うように刃が飛んでいく。
(狙いは俺たちじゃない——!)
 回転しながら宙を走った曲刀は、その先にいた無防備な学者の肩に突き刺さる。
 学者は「うっ」と短くうめいて膝を折った。
「サイラスっ!」踊子の悲鳴が聞こえた。
 はっとしたテリオンたちが視線を戻した時、犯人の姿はすでになかった。
「なっ——」
 部屋の入り口に消えていく黒いローブの背が見えた。
(逃げる気か!?)
 一瞬薬屋と視線を交わす。「悪ぃ、そっちは任せた!」と言い残して彼は学者の容態を見に行った。
 テリオンはすぐに男の後を追った。
 男が向かった先はなんと遺跡を流れる水路だった。テリオンがたたらを踏む前で、相手は迷わずそこに飛び込む。大きな音とともに水柱が立った。
(どういうことだ)
 いくら追跡を逃れるためとはいえ、弱った状態であそこに落ちれば命はないだろう。ならば何故——
「先生っ!」「ちょっとサイラス!?」
 部屋の中から二人の焦った声がした。反射的にそちらに首を向ける。
 テリオンの前を黒いつむじ風が通り抜けた。
 学者だった。普段はどこに隠していたのかと思うような敏捷さで、犯人のたどった軌跡をそのまま追いかける。
 二つ目の水しぶきが上がった。学者が水に落ちたのだ。しかも怪我をしたまま。
(あいつ——!)
 テリオンは即座に外套を脱ぎ捨て、地を蹴った。
「おい、テリオンまで!?」
 テリオンは自分でも理解できない衝動に突き動かされ、水に向かってジャンプした。
 流れは速く、冷たかった。下流に泳いで学者を探すが、ただでさえ黒い影はこの暗さでは判別できない。
 それでも探し回ると、何かが手の先に当たった。これか、と掴んだのは犯人の方だった。相手はすでに意識をなくしてぐったりしていた。とにかく逃してなるものかと引き寄せる。
 この荷物を抱えたまま岸に上がるのは無理だろう。なすすべもなく流されていると、やがて水路はトンネルにでも入ったらしく、いっそう勾配がついて流れが急になる。体は冷え切り、じわじわと意識が侵食されてきた。
(こんなことが前にもあったな……)
 うるさい水音がだんだん遠のいていく。完全に気を失う直前、「テリオン君」という声がどこかから聞こえた気がした。

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