流れる者たちの公理



「目障りなんだよ、お前は!」
 その決定的な瞬間が訪れるまで、テリオンは兄弟の抱えた屈折に全く気づけなかった。
 傷つきうまく動かない体が崖に向かって突き飛ばされる。テリオンは見えない力に引かれ、みるみる谷底に吸い込まれていく。
 はるか下を流れていたはずの水面が視界いっぱいに広がった。
(ここで死ぬのか、俺は)
 高所から転落した上、あの水に叩きつけられたら無傷では済まないだろう。痛みでぼんやりした頭でもそのくらいは分かる。だからといって「もうどうでもいい」とは決して思えなかった。
 テリオンの胸にこみ上げるのは、裏切られた悲しみを焼き切るほどの強い感情だ。
 ふざけるなダリウス、俺は絶対に生き残ってやる。
 だが、その反抗心は「終わり」が近づくに従って急速に冷えていく。
 生き残って、その後はどうするのだろう。ひとりきりで盗賊を続けて、その先は——?



 遠くせせらぎの音が聞こえる。
 夢の残滓を振り払い、テリオンはがばりと起き上がった。全身が濡れている。体はだるいが、目立った外傷はない。
 洞窟と思しき場所だった。しかし床は平らで、明らかに人の手が入っている。高い天井には光苔が生えていた。意識を失う前までいた遺跡ともまた違うらしい。
「良かった、目覚めたんだね。でももう少し寝ていていいよ、テリオン君」
 穏やかな声が背中にあたった。地べたに座ったままそちらに首を向ける。
 テリオンよりも先に水に落ちたはずの学者だった。いつものローブは脱ぎ、びしゃびしゃのまま畳んで地面に置いている。つまりは彼も立派な濡れ鼠だった。
 それでも学者は元気そうだった。怪我をしたはずの肩口には清潔そうな布が巻かれている。出血したまま水の中に入るなど自殺行為に等しいが、どうやって対処したのだろう。手持ちのブドウでも食べたのか。テリオンはなんだか拍子抜けした気分になる。
「まだ夜明け前だからね。日が昇るまではここで休もう。今日は本当にお疲れさま」
 彼は近くにある階段——やはり人工的につくられた空間らしい——に腰掛け、天井から降り注ぐ光苔の薄明かりで本を読んでいた。こんな場所でも読書に励むらしい。あの水の中でよく本が無事だったものだ。
 学者はテリオンのもの言いたげな視線に気づいたのだろう、一旦本を閉じる。
「まさかキミが追いかけてくるとは思わなかったよ。心配をかけたようだね」
「……それは、別に」
 とはいえ先ほどの行動は「心配している」と取られてもおかしくないものだった。まったく、どうしてあんなことをしてしまったのか。
 怪我をした上にローブも脱がずに水に飛び込んだらどうなるか、なんて火を見るよりも明らかだろう。だから追いかけてやったのに、結果として助ける必要などなかったらしい。なんとも虚しい結末だった。
 それにしても、二人はどうやって水から上がったのだろう。というかここはどこなのだ。テリオンの頭には様々な疑問が湧き上がる。
「ここは盗公子エベルの祠だよ」
 学者の指さす方向——彼の座る場所の上には祭壇があり、短剣の象徴が飾ってあった。
 大陸の各地にはこうして十二神を祀る祠があると聞く。主にその地方に住む者や、神の守護を受けた生業を持つ者たちが参りに来るらしい。盗公子エベルがそのまま盗賊の守護神であることはかろうじて知っていた。
 テリオンはぼんやりと祭壇を眺める。そのうち、不思議な思いがこみ上げてきた。
(……俺は、この場所に来たことがある)
 抱いた確信は予想外にテリオンの胸をついた。
 それはいつのことだろう? まったく思い出せない。なのに、何故か間違いのない事実であると思えた。
 静かに混乱するテリオンをよそに、学者は話しはじめる。
「先ほどの遺跡はクオリークレストの下水道でもあっただろう。だから水路が崖下までつながっていたんだ。川に合流する直前でちょうど浅瀬になっていて助かったよ。なんとか岸に上がって近くを探索したら、この祠を見つけたんだ」
 さりげなく説明を省かれたが、つまりこの学者が意識を失ったテリオンを引き上げたのだ。ますますテリオンのとった行動は何だったのだ。無駄に学者の仕事を増やしただけではないか。
「……もしかして、気にしているのかな?」
「いや」
 遺跡でのやりとりとはすっかり逆の立場になってしまった。濡れた服を引っ張ってあおぎながら、テリオンはまるで説得力のない返事をした。
「一応言っておくと、私は魔法の氷で浮きをつくることができたから、沈まずに済んだだけだよ」
 なるほど、考えなしに水に飛び込んだのは実はテリオンの方だったらしい。
 盛大に苦い気分を味わっていると、学者は持っていた本を目の前に掲げる。
「あの時、犯人はこの本——行方不明事件に関する重要な証拠を持ったまま水に飛び込んだ。だからとっさに追いかけたんだ」
 よく見ればそれは、犯人が暗闇の魔法を使う際に使用していた本だった。ローブの中に隠し持っていたおかげか、濡れずに済んだらしい。
「証拠を消すだけなら水に投げるか燃やせばいい。そうしなかったのは何か理由があったのだろうか……今となっては分からないがね」
 学者は冷え切ったまなざしを床に投げる。テリオンがつられてそちらを見れば、ローブを着た男が倒れ伏していた。ピクリとも動かず、完全に死体になっている。結局、本人から聞き出せた情報はほとんどなかったわけだ。
「とにかく、キミが犯人を捕まえてくれたおかげでこの本を入手することができた。礼を言うよ」
 学者はひらひらと本を振った。一応テリオンが水の中で犯人を確保した意味はあったらしい。今さら何の慰めにもならないが。
「それがあんたの探していた本か」
 本の競りに商人を参加させたり、レイヴァース家の当主に頼まれたりと、常に本を探している彼のことだ。きっと今持っているものも、そのうちの一つなのだろう。学者は手にした本に目を落とす。
「いや……写本のようだ。私が求めている本の一部が現代語に翻訳されている。あの結晶の作り方が載っていたよ」
 他人の血で結晶を作る魔法や、相手を暗闇に引きずり込む魔法が記された本。完全に黒魔術のたぐいだ。そんなものを探しているなんて、相当危険に足を突っ込んでいるのではないか。
 例の取引きがあるせいで、テリオンまで巻き込まれかねない。改めて厄介なことになった——とその場で考え込んでいると、学者はこちらを見て首をかしげた。
「キミはもしかして、以前もこうして水に落ちたことがあるのかい?」
 テリオンははっとして口元をおさえた。意識を失っていた間に見た夢を思い出す。
「……何を聞いた?」まさか、寝言でも言ってしまったのか。
「いや、水に落ちた時の対処に慣れているようだったから」
 これでは自白したようなものだ。テリオンは脱力しながら答える。
「昔、崖から落ちたんだ」正確には落とされたのだが。
「ふむ。それでよく助かったね。怪我はなかったのかい?」
 答えようとしたテリオンは、そのまま唇を閉ざす。
(……何故だ。どうして思い出せない?)
 あの高さから落ちれば大怪我は免れない。それなのに、テリオンは怪我に難儀した記憶がなかった。ダリウスに落とされてから五体満足で活動しはじめるまでの間が、記憶からすっぽり抜けている。
 それに気づいたのは今が初めてだった。彼は思いもかけない事実に心を揺さぶられた。
「キミにもアーフェン君のように恩人がいるのかな」
「さあな」
 かろうじて平素と同じ声を出す。この祠に感じた既視感といい、自分の記憶というものは思っていたよりもずっと不安定だったのかもしれない。
「せっかくここに来たのだから、キミもエベル神に祈りを捧げていくといいよ」
 という空気を読まない学者の提案にあっさり乗ってしまったのは、狼狽を誤魔化すためだ。とにかく別のことで頭を紛らわせたくて、祭壇に上った。
 祈りという行為になじみはない。神官がことあるごとに行う仕草を思い出し、それらしく目を閉じる。
 当然、胸を渦巻くのは神に対する祈りではなく、己の内側に対する問いかけだった。
(……ずっと忘れていたんだ。きっと大したことじゃない)
 なんとか心を落ち着けるようにつとめる。長めに祈ったおかげか、動揺は少しおさまった。
 まぶたを開けると、短剣を模した象徴がうっすら光っているように見えた。気のせいだろうか。
 かろうじて平静を取り戻し、テリオンは階段を降りた。
「これでいいのか」
「ああ。エベル神には感謝しないとね。きっと彼が水に落ちた私たちを守ってくれたのだろう」
 盗公子も私たちも流れる者なのだから——という発言の意味はよく分からなかった。
 それにしても。テリオンは濡れそぼった学者を見つめる。
「……何故服を乾かさない?」
 焚き火がないのは不自然だった。正直寒いし、服が濡れたままでは体力が奪われる一方だ。テリオンが気を失っていたから薪を探しに行けなかった、と言われればそれまでなのだが。
「ああ……その、魔力が枯渇してしまってね」
 学者はやや気まずそうに答えた。骸骨に容赦なく炎を浴びせ、光を呼び、氷で浮きを作ったためだろう。彼は意外と魔力切れが早い。あの先輩の魔導書を使っているのだから、もっとうまく立ち回ってほしいものだ。
 テリオンはため息とともに指先に火を灯す。こちらの魔力はまだ余っていた。
「鬼火だね! 先ほどの戦闘でキミが放ったものは見事に制御されていた。近くで見るとなかなか綺麗だね」学者が身を乗り出した。そのまま魔法について語り出す気配がしたので、
「薪になるようなものがないか探してくる」と告げて背を向けた。
「分かったよ。夜行性の魔物には気をつけて」
 踏み出すたびに不快な音をたてる靴とともに祠の外に出る。学者の言った通り、すぐそばに川があった。テリオンたちはあそこを流れてきたのだろう。ここはクリフランドの谷底で、はるか上空には星が瞬いていた。
(こういう時こそ気配を隠す魔法の出番か)
 魔物に見つからずに動けるのならいくらでも使いようがある。魔力切れさえなければ代わりに学者を外に出してやったのに。
 そういえば、遺跡で犯人がいきなり魔法陣の上に現れたのも、気配を消す魔法を使っていたからだろうか。可能性はある。便利な分、敵に使われると面倒だ。
 テリオンは慎重にあたりを探索した。クリフランド地方は木が少ない。やっとの思いで見つけた枝も、夕方のにわか雨のせいで湿気っていた。試しに鬼火を近づけてみたが、煙を立てるだけで一向に火がつかなかった。
 そろそろ祠から離れすぎてしまう。ため息をついて戻ろうとした時、坂道の上に明かりが見えた。どんどんこちらに近づいてくる。テリオンはとっさにその場にしゃがみ、息を殺した。
(あれは……学者の先輩か)
 見知った人影がランタンを片手に歩いてくる。テリオンは身を隠すのをやめた。
「あ! あんた、サイラスと一緒に水に落ちたっていう仲間だろ? 良かった、無事だったんだね」
 こちらを見つけた先輩は安堵したように笑った。すでにテリオンたちの行動を知っているらしい。
「遺跡から戻ってきた二人が血相を変えてたもんだから心配したよ。川まで流されたんじゃないかと思って探しに来たんだ。あの二人は先に休んでもらってるよ」
 連絡係として残した甲斐があった。薬屋たちに闇雲に行方を捜されては二次遭難の可能性があったわけだ。
 テリオンは坂の下にある祠を指さした。
「あんたの後輩ならそこにいるぞ」
「盗公子の祠か。なるほどねえ」
 ずんずん進む先輩の後ろについて、祠に戻る。
「オデット先輩!」
 先輩が顔を見せると、学者は明るい声とともに立ち上がった。
「二人ともずぶ濡れじゃないか。プリムロゼたちがずいぶん心配してたよ」
「ああ、テリオン君にも迷惑をかけてしまった。しかし彼のおかげでこの本が手に入ったんだ」
 それはもういい、と小声で言ったが二人には聞こえていないだろう。
「オデット先輩は水の流れを追ってここに来たんだね。そうだ、遺跡から助け出した彼女は無事かい?」
「今頃自分の家でゆっくり寝てるよ。地主の屋敷であった騒動もほとんど終わってる。ま、そっちの報告は商人のお嬢ちゃんから聞いたらいいだろ」
 にやりとする先輩に、学者は楽しげに相槌を打つ。
「良かった。さすがはトレサ君だ」
 商人はうまくやったらしい。よくもまあ、あんな無茶を成功させたものだ。改めてテリオンは彼女の器の大きさを思い知った。
「ところで、そいつは誰だい?」
 先輩は床に伏せた犯人をちらりと見る。
「プリムロゼ君たちから聞いたのだろう? 遺跡で妙な実験をしていた犯人だよ」
「ふうん……」
 先輩は不自然に押し黙った。
 不意に、空気の色が変わった気がした。その中心にいるのは無論、学者だ。
「オデット先輩。あなたはこの男を知っているね」
 学者はいっそ不気味なほど落ち着き払っていた。テリオンははっとして彼女を見る。
「どうしてそう思った?」
 先輩は否定しなかった。まさか真実なのか。祠の中に、先ほどとは打って変わって張り詰めた空気が漂う。
「オデット先輩ははじめから私の調査を誘導していたね。町の地下に遺跡があるという話も、おおかたこの男から聞いたんだろう?」
 先輩は答えない。
 そういえば——昼間、テリオンは学者がもたらした廃坑の噂に対してその信憑性を尋ね、学者は「そう思ってくれて構わないよ」と答えた。やはり、あの返事には意味があったのだ。そもそも学者自身が噂を疑っていたふしがある。
 学者は無表情で彼女を見つめる。先輩も同じく感情を消しているが、二人の表情には大きな隔たりがあるように思えた。先輩は何かを隠すためにそうしていて、学者はまた別の理由により静けさを保っている。
「私は今日、町で行方不明者の聞き込みをしただろう。結果として町の住民の中には失踪者がいなかったと言ったが——すまない、あれは嘘だ。ちょうど半年ほど前、一人の学者がいなくなったことを教えてもらったよ」
 それが誘拐犯だというのか。ならば、この学者も半分ほど犯人の正体に気づいていたということになる。本当に食えない男だった。テリオンからすると、真実を黙っていた先輩よりもはるかにたちが悪い。
 先輩は覚悟を決めたようだった。
「こいつはギデオンっていうんだ」
 死体に目を落とし、ゆっくりと首を振る。
「十年前、わたしがクオリークレストに来た時点でここに住んでいた学者でね。同業者ってことで挨拶したんだが、どうもその時から話が合わなかった」
 ギデオンも精霊石、すなわち「力を持つ石」の研究をしていた。だから先輩と同じく、精霊石の産地であるクオリークレストを住まいに選んだが——
「あいつはどうも精霊石を物騒な方面に使おうとしていたみたいでね。大きさによる威力の違いとか、破壊対象による属性の使い分け方とか、そんな話ばっかりしてきたんだ。妙なやつらとつるんでるって噂もあって、みんな遠巻きにしてたよ。
 遺跡の話も確かにあいつの口から聞いた。精霊石が眠る山の中にある遺跡だから、特別な場を形成している可能性が高い。そこならきっと研究が捗るだろう、と言ってたな」
「なるほど。オデット先輩は石の魔力で魔導書を強化し、魔法を効率的に操る研究をしているから、確かにギデオンとは方向性が異なるね」
 これはテリオンに向けての説明だろう。学者は遺跡に入る前に譲り受けた魔導書を取り出す。
「もしやオデット先輩は、私がギデオンと対決することを見越して、この本を託したのかい?」
「……それもある。こいつが犯人かもしれないと思ってから、完成間近だった魔導書を急いで最後までつくりあげたんだ」
 先輩は苦しそうに言った。おそらく最初は自ら戦うつもりだったのだろう。だが、学者に託した。それは何故か。
 彼女はぽつりぽつりと告白する。
「あんたの言う通り、最初に行方不明になったのはこいつだった」
 とはいえギデオンの家はきちんと片付けられた上で売却されていた。もともと近所付き合いが悪かったため、連絡せずにいなくなっただけとみなされた。先輩も、ギデオンはどこかへ引っ越したのだと思っていた。
 そんな折、行方不明事件が発生した。先輩はとっさにギデオンを疑った。廃坑へ出入りしている人物がいるという噂は実は本物であり、目撃されたのは黒いローブをまとった男だったのだ。
「学者なら例の気配を隠す魔法が使えるだろ。ギデオンはあれが得意だった。もし行方不明になった人たちが誘拐されてるんだとしたら、あの魔法を使ったんじゃないかと思ったんだ」
 気配を隠す魔法。やはりそれが肝らしい。学者は再びテリオンに解説する。
「通常私たちが使っているのは魔物向けの魔法なんだ。人間の視界から逃れるにはまた別の術式が必要で、悪用されやすい技術だから慎重に扱われている。しかし、あれほどの精度で気配を隠せるとは……もしやこの本を使ったからだろうか」
 学者はギデオンが持っていた本を掲げる。少し考えるように唇を閉ざし、やがて顔を上げた。
「しかしオデット先輩、気配を隠す魔法だけでは、犯人がギデオンであるとは特定できないだろう。他にも何か思い当たることがあったのではないかな」
 嫌なところを突かれた、というように先輩は顔を歪める。
「ああそうさ。はっきり言って、あいつは自分以外の他人に興味がなかった。研究のためなら何をしでかすか分からない部分があった。そして——力に魅せられていた」
 先輩は沈痛な面持ちで死体を見下ろす。一方学者は彼女の心中などどこ吹く風、といったように本を開く。
「この本には紙が挟まっていた。おそらくギデオンの書いたメモだろう。『一つはすでに完成、納品済み』と書かれていたよ。つまり、あの結晶は誰かに依頼されて作っていた可能性がある」
「そうさ、ギデオンは多分誰かにそそのかされたんだ。そして道を踏み外した」
 行方不明事件の奥には、さらに黒幕とでも呼ぶべき存在がいるらしい。テリオンは背が寒くなるような感覚を抱いた。
 まあ、真相の解明はきっと学者たちが勝手にやるだろう。こちらの知ったことではない。
 先輩はがくりと肩を落とした。
「ギデオンが怪しいってことも、あの遺跡に行方不明者がいるかもしれないことも分かってた。でもわたし一人だったら遺跡の入り口は見つからなかったし、魔導書があってもあいつには勝てなかっただろう。今回は本当に助かったよ。巻き込んで悪かったね」
「いや、オデット先輩の助けがあったから事件が解決したんだ。とにかく一人でも行方不明者を助けられて良かったよ」
 先輩にとってもその事実は救いだったのだろう。彼女は全身から力を抜いた。
 それにしても——と学者はメモを片手に首をひねる。
「一昨日ギデオンがあの女性を狙った理由だけが分からないな。それまではターゲットを鉱山労働者に絞っていた。しかし急に矛先を変え、そのせいで事件が発覚した。何故自ら危険を冒したのだろう」
「……焦ってたんじゃないか、納期があるから」
 ずっと黙っていたテリオンがぼそっと言う。二人の学者が弾かれたようにこちらを見た。
「なるほど、その可能性はあるね。確かに最近になるほど誘拐のペースも早まっていたな」
「あんた、なかなかいいところに気づくじゃないか」
 褒められてもまるで嬉しくない。この発言を皮切りにますます二人の議論は活発になり、テリオンは口を挟んだことを後悔した。
「とにかく、あの遺跡の部屋や、ギデオンが持っていた本についてはじっくり調べる必要がありそうだね」
 学者はまたもや調査と称して遺跡を探索するつもりのようだ。あとはもう勝手にやってほしい。
 先輩は胸の奥に押し込めていたものをすべて吐き出し、やっと一息つけたらしい。安堵のにじんだ顔でうなずく。
「そっちはわたしにも手伝わせてくれよ。——ところで二人とも」
 彼女は急に声色を変えて、学者とテリオンを見比べた。
「ずいぶん顔が赤いけど、大丈夫かい?」
 くしゅん、と冗談のような声が学者の喉から発せられる。テリオンの肩がぶるりと震えた。
 そういえば結局薪は見つからず、二人は濡れそぼったまま長話に興じていた。
「どうやら風邪を引いたようだ」
 学者が大真面目に言った。

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