Let Me Know the Truth



 人里を訪れる度、テリオンはめぼしい屋敷や道行く人々をチェックする。もはや職業病と呼べるだろう。自身の財布の重さとは関係なく、ついつい目に入った豪邸への侵入方法を考え、すれ違う相手の懐具合を観察してしまう。
 ストーンガードは豊かな森の資源を活用するため、岩山を切り開いてつくられた町だ。おかげで様々な産業が根付いている。テリオンは製紙にも製本にも興味はないが、その恩恵を受けた人々の懐事情には大いに関心があった。
 この町は悪くない「狩り場」だった。住民も訪問者も裕福な者が多い。特に町の上層には屋敷街があり、獲物が集中していた。町を治める貴族だけでなく、屋敷を構える者たちは軒並みいい暮らしをしているようだ。
 以前この町を訪れた時は狩人ハンイットの用事に付き合わされて、ゆっくり見て回る暇がなかった。テリオンは盗んだリンゴをかじりながら屋敷街を流し歩く。
(……あれは)
 灰色に落ち着いた景色の中に、ひときわ暗い影を背負った屋敷があった。
 通り沿いに立った塀は一部が崩れている。その向こうの外壁には蔦が這い、庭の植栽は伸び放題だ。表門は閉ざされていて、しばらく開けられた形跡がない。
 管理者不在のまま放置されている、と考えるのが自然だろう。しかしテリオンは違和感を覚えた。外見のみすぼらしさに反して、窓から覗く室内が妙に小綺麗なのだ。
(わざと無人をよそおっているのか?)
 通行人がこちらに注意を払っていないことを確認してから、塀に沿って屋敷の裏に回った。表門の半分程度の幅の通用口がある。案の定、その下の石畳には靴の形に乾いた土がついていた。
 改めて屋敷を見上げる。これといった特徴のない、古びた石造りだ。無人に見せかけて出入りする必要などあるのだろうか? もしや秘密のお宝が眠って——
(そんなはずないか)
 テリオンは肩をすくめた。かじり終えたリンゴの芯を放り捨てる。荷物にはまだ一つ残っているが、あとで食べよう。
 たとえ興が乗ったとしても、盗みの準備をする暇はない。次の目的地はサンランド地方にあるオアシスの町、ウェルスプリングだ。テリオンはようやくヒースコートから竜石の情報を得て、かの町を目指していた。どうやら剣士オルベリクの探し求める男もそこにいるらしい。なおさら、余計なことを考えている場合ではない。
 大通りに戻ってきた。陰気くさい屋敷を調べたせいか、上街の瀟洒な雰囲気に辟易してきた。階段を降りて別の区画に移動しようときびすを返す。
「あ、あの、少しお時間よろしいですか」
 見知らぬ少女が立ちふさがり、声をかけてきた。
 丁寧にくしけずられた銀髪といい、仕立ての良い服といい、どう見ても上流階級に属する者だった。盗みのターゲットなら大歓迎だが、会話相手になるとは到底思えない。
 無視して通ろうとした瞬間、驚くべき台詞が耳に入る。
「サイラス・オルブライトという学者をご存知ありませんか?」
 テリオンは反射的に立ち止まった。少女がぱっと顔を明るくする。
「もしかして知っているんですか!」
「……いや」
 明らかに失態だった。彼女はテリオンの小さな否定などそもそも聞いていないらしく、
「わたしはテレーズと申します。アトラスダムで、先生から歴史を教わっていました」
(あいつの生徒……?)
 学者が商人や薬屋を生徒扱いする場面は幾度も見てきたが、本物の生徒と会うのは初めてだった。奇妙な心地になる。あの男はどうやら本当に教師をやっていたらしい。
「先生がこの町に来ていると聞いて、追いかけてきたんです。先生はどこにおられますか?」
 教え子は前のめりになって話を進める。答えない限り解放してもらえそうにない。仕方なしにテリオンが口を開きかけた時、
「あっテリオンさんだ」
 聞き慣れた声とともに背の低い少女が隣に並ぶ。商人トレサだった。
「そっちの人は誰?」
 彼女は不思議そうに学者の教え子を見やる。テリオンはため息をついた。
「学者先生の教え子らしい」
「え、嘘っ!?」
 トレサが驚愕のまなざしを向けると、教え子はスカートの裾をつまみ、優雅にお辞儀した。
「アトラスダムから来たテレーズです」
「は、はじめまして、トレサです」商人はぎくしゃくと姿勢を正す。
 教え子は少し落ち着きを取り戻した様子で、テリオンたちを見返した。
「もしかしてお二人はサイラス先生の……」
「そう! あたしもテリオンさんも、先生の仲間なんです」
 仲間として一括りにされるのは不満だったが、話がややこしくなるのでテリオンは口を挟まなかった。教え子は水色の目を大きく見開く。
「まあ、そうなんですね!」
「あたしたちだけじゃなくて、他にも五人いるわよ」
「五人も!?」
 いちいちリアクションが大きい。まあ、見るからに学者と関係なさそうな二人が仲間と名乗るのだから、そういう反応にもなるか。
「で、あんたはどうして学者先生を探しているんだ」
 テリオンがじろりと睨みつける。教え子はそっと胸元に手をやった。
「先生に緊急の用件を伝えなければいけないんです。手紙よりも確実なので、わたしが使いに来ました」
 学者は王侯貴族を相手に授業していたはずだ。ならば生徒と名乗るこの少女もそれなりの血筋のはずである。一人きりで町をうろついているのはおかしいだろう。まさか「緊急の用件」とやらのために家出でもしたのか?
 トレサはちらりとテリオンを見上げ、何かを確認するようにうなずいた。
「えっとね、サイラス先生はちょっと前まで、あたしと他の仲間たちと一緒に狩りをしてたの」
「狩り、ですか?」
 テリオンも初耳だった。狩りという単語が結びつかなかったらしく、教え子は首をかしげている。
「うん。ハンイットさん——仲間の狩人さんが依頼を受けたの。それで幻影の森に行って、子山羊を狩ったわ」
 迫力あったわよー、みんなで山羊を罠に追い込んで、ハンイットさんが網を投げて……とトレサは興奮しながら語る。
「狩りが終わったら解散して、先生は最初に約束してた通り、あたしと一緒に製本工房に行ったの。いくつかお店を回ったら満足してたわ。それからは別行動ね」
「では、先生は今どこに……?」
 教え子は不安げに眉をひそめる。
「うーん、分かんない。先生、自分の持ってる本をつくった工房を探してたみたい。あちこちで職人さんに何か質問してたもの」
 そこでトレサはぱしんと手を叩く。
「そうそう、製本工房に行った後、サイラス先生がいきなりあたし相手に授業をはじめたの! 小一時間かけて、紙の材料になる木の育て方から製本方法までみっちり教えてくれて……もう大変だったわ」
 相変わらず他人の状況などお構いなしに講義を開いたらしい。テリオンは「その場にいなくて良かった」と心底思う。
「ふふ、変わりませんね先生」教え子がくすくす笑った。
「へー、やっぱり先生って前からあんな感じだったのね!」
 二人は学者の話題でひとしきり盛り上がった。緊急の用事があるのではなかったのか。テリオンは舌打ちしたい気持ちをこらえる。
 そもそも、あの学者は誰と一緒にいても大して変わらないだろう。というより、変わるつもりがない。やわらかいのは物腰だけで、どんな時でも自分の考えを強引に通してくる。しかもそれがたいてい合理的な意見なので、余計にたちが悪かった。
「あ、ごめんごめん。引き止めちゃったわね」
 トレサがやっと会話を中断した。
「テレーズさん、急いでるんでしょ。あたしもこのあたりを探してみるわ。テリオンさんたちは下街の方を見てみたら?」
 テリオンは瞬きした。いつの間にか、自分が教え子と一緒に学者を探すことになっている。
「よろしくお願いします、テリオンさん」
 教え子は深々と頭を下げた。育ちが良さがうかがえる丁寧な仕草だ。
 冗談じゃない、誰がそんなことするか——という言葉は喉奥に飲み込まれた。テリオンはこういうタイプの強引さに弱い。トレサが愉快そうな目を向けてきた。
「ちゃんと先生のところに連れて行ってあげてね、テリオンさん!」
 こちらの心理を完全に把握されている。テリオンはそっと嘆息してから、生意気な旅の連れに向かって手を伸ばす。
「いたっ」
 トレサの前髪に隠れた額を、中指で軽く弾いてやった。



「サイラス先生の仲間の方とお話できるなんて、不思議な気分です」
 下街に向かって階段を降りながら、教え子は感慨深げにつぶやく。
 どうやら彼女は、テリオンから何らかの——主に学者の話題を引き出そうとしているらしい。その相手として、彼が最も不適当であることを知らぬまま。
「どうやってみなさんが先生と出会われたのか、是非教えていただきたいのですが……まずは先生を探さないといけませんよね」
 学者との出会いはテリオンにとって一番思い出したくない出来事である。聞かなくて正解だ。
 教え子の横顔にははっきりと焦りがあった。そのくせ緊急の用件が何なのか、話す気はないらしい。こちらも癪なのであえて聞く気はなかった。
 下街の目抜き通りにはいくつもの商店が立ち並んでいる。扱う品目は紙、鉄製品、武器や防具など。買い物にはうってつけの場所だ。閑静な上街と違い、大勢の客や職人が行き来していてにぎやかだった。
 こうして教え子に協力する羽目になったとはいえ、テリオンは積極的に学者を探す気はない。教え子が手当たり次第に聞き込みをする方が、まだ成果を上げられるだろう。人の多い場所まで連れてきたのだから、あとは勝手にやってくれないかと思う。
 二人は立派な構えの薬種屋の前を通った。これが本物の薬屋か、とテリオンは看板を見上げる。
 ちょうど店の扉が開いた。草色の上着を羽織った、無駄に背の高い男が出てくる。
(薬屋から薬屋が出てきた……)
 間の抜けたことを考えていると、向こうもこちらに気づいた。
「テリオン! 珍しいな、あんたが女の子連れてるなんてよ」
 薬屋がにやりとする。下世話なことを考えたに違いない。すかさず教え子が名乗った。
「テレーズと申します。アトラスダムでサイラス先生の授業を受けていました。あなたも先生のお仲間なんですね」
「お、教え子!? 本当に……?」
 薬屋はテリオンたちを何度も見比べた。どうやって知り合ったのか、聞きたくて仕方ないのだろう。この先誰かに会う度に同じ話をするのは面倒だと思っていたら、先に教え子が説明した。
「わたし、テリオンさんにお手伝いしてもらって、先生を探しているんです。何かご存知ありませんか?」
「そ、そっか。俺はアーフェンってんだ、よろしくな」
 薬屋はごしごしとほおをこする。教え子の麗しい容姿に照れたらしい。分かりやすいものだ。
「先生ならちょっと前に会ったぜ。この店の中でな」
 彼は背中越しに薬種屋を指さす。
「ストーンガードで代々薬師をやってるんだと。俺が中で話を聞いてたら、いきなり先生が来てさ」
「どうして先生がここに……?」
 教え子が疑問符を浮かべる。製本工房といい、ストーンガード中の店を見学しているのだろうか。
 薬屋はうーんとうなった。
「薬じゃなくて、ここのお客さんに興味があったみたいだぜ。ドミニクっていう翻訳者が町にいるらしいんだけど、その人が十五年くらい前にこの店で薬を買ってた、っていう話を聞き出してたな」
 十五年も昔の話をよく探り出せたものだ。というより、そんな情報を得てどうするつもりなのだろう。教え子もピンとこないらしく、しきりに首をひねっている。
「それで、学者先生はどこに行ったんだ」
 テリオンが結論を急ぐと、薬屋は肩をすくめた。
「次は教会に行くって言ってたぜ」
 またもや脈絡のない目的地だ。製本工房、薬種屋ときて今度は教会である。とにかく、次に向かうべき場所が決まった。
 別れ際、薬屋がテリオンの肩にぽんと手を置く。
「じゃあなテリオン。俺も先生を見かけたら、生徒さんが来たって話しておくよ。しっかりテレーズさんをエスコートしろよな!」
 下街中に響くような大声に、「うるさい」という抗議はほとんどかき消されてしまう。教え子も苦笑いしていた。テリオンたちは不可抗力で他人の注目を浴びつつ、その場を離れる。
(教会か……)
 気が乗らなかった。もともとああいう厳粛な雰囲気は苦手だが、今回はそれ以上に嫌な予感がしていた。



「テリオンさん! ここで会えるとは思いませんでした。あら、そちらの方は……?」
 案の定、一番会いたくない相手が教会にいた。白い服に身を包んだ神官は、杖を片手にテリオンたちを迎えた。
 下街の崖の端にある小さな教会だ。中には数人の参拝者がいた。礼拝の時間ではないが、会話のボリュームは落とすべきだろう。
 教え子はすっかり慣れた様子で説明した。
「アトラスダムから来ました、テレーズと申します。サイラス先生の教え子で、今テリオンさんと一緒に先生を探しているんです」
 神官は「まあ」と言ってほおを緩めた。
「わたしはオフィーリアです。サイラスさんなら、少し前までここの神官様からお話を聞いていましたよ」
 またすれ違ったらしい。「ドミニクとかいう男のことか?」とテリオンが先回りすると、神官は少し驚いたようだ。
「ええ。ドミニクさんは、この教会から写本のお仕事を受けているそうです。お話を聞くと、サイラスさんは何かひらめいたご様子で、もう一度ドミニクさんの家に行くとおっしゃっていました」
 もはや学者が何を目的に動いているかなど、考える気にもなれなかった。なんでもいいから一箇所にとどまっていてほしい。
「その方の家はどこに……?」教え子はテリオン以上に気が急いていた。
「ええと、神官様に聞いてきますね」
 彼女は白い衣を翻して祭壇に向かい、そこにいた神官と会話してすぐに戻ってくる。
「ここから町の入口方面につながる階段を上って、三軒目の家だそうです」
「ありがとうございますっ」
 頭を下げる教え子に、神官はふわりとほほえみかける。
「いえいえ。先生と早くお会いできるといいですね」
 これで用は済んだだろう。さっさと退散しようとするテリオンに、いきなり神官が近づいてきた。
「テレーズさんのために、サイラスさんを探してあげているのですね」
 どこか楽しげな声色だった。反対にこちらの機嫌は下降する。
「やりたくてやってるわけじゃない」
「ふふ、そうですね。でもいいことだと思います。早くテレーズさんを会わせてあげてくださいね。サイラスさんもきっと喜ぶと思います」
 なんだか引っかかる言い回しだ。この神官は近頃、やたらとテリオンと学者の仲を気にかけていた。いい迷惑である。
「……もう行く」
「はい、いってらっしゃい」
 神官のにこやかな顔を振り切るように、テリオンは背を向けた。教え子を促し教会を出ようとする。が、彼女は何故か途中で立ち止まり、神官を振り返った。
「ところでその方はどなたですか?」
 男は神官の横で長椅子に腰掛けていた。当然テリオンも存在には気づいていた。彼は黒いフードを深くかぶり、顔を見られないようにしている。今も自分が話題になっていると知りながら、うつむいていた。神官と妙に距離が近いので、テリオンたちが来る前に会話していたのではないかと思われた。
「うふふ、秘密です」
 神官は意味ありげに笑った。手に持った杖がしゃらりと音を立てる。神官特有の仕草だ。どうやら男は彼女が導いた相手らしい。
「これから酒場にでも行って、少しお話をうかがおうと思いまして」
 教え子は腑に落ちないという顔をしていた。
 教会を出たテリオンは、頭の隅で「あいつの服装、学者のローブと似ていたな」と思った。



 そろそろ太陽が中天に昇る時刻だ。ハイランドの空気はからりとして湿度が低く、過ごしやすい。澄み渡った視界に遠くの山々がよく見えた。
「こんなにたくさんお仲間がいらっしゃるなんて……きっと先生の旅は楽しいものなんでしょうね」
 翻訳者の家に向かいながら、教え子は晴れ空に向かって独白を投げた。どこかさみしげに眉が下がる。なるほど、あの学者は生徒に相当慕われていたらしい。
「まあ、いつも機嫌は良さそうだな」
 少なくとも、旅が辛くて仕方ないということはないだろう。あの学者は、初めて見るものになんでも興味を示し、楽しげに調べまくる。それでいて、テリオンと初めて出会った時や、クオリークレストでギデオンと対峙した時など、決めるべき場面では恐ろしく冷たい一面も見せる。またそれとは正反対に、間の抜けた言動で場の空気をぶち壊すこともある。とにかく読めない相手だった。
「先生、旅に出られて良かったんですね……」
 教え子はしみじみと言った。胸元に提げた護符らしきものを大事そうに握りながら。
 町の入口方面に向かって石畳の道を歩く。やがてその家が見えてきた。
「あそこに先生がいるかもしれないんですね」教え子が小走りで先に向かい、戸を叩いた。
 家の中までテリオンが付き合う必要はあるのだろうか。面倒だと思いながら遠巻きに眺めていたら、道の反対側から知り合いがやってきた。
「テリオンか。こんなところでどうした?」
 亡国の青衣をまとった剣士オルベリクである。「もしかして、お前もサイラスを探しているのか」
「……どういうことだ?」
 うまく交渉できたのか、教え子はすんなり翻訳者の家に入っていく。テリオンは視界の端でそれをとらえながら、正面の相手に問いただした。オルベリクは渋面をつくり、声をひそめる。
「実はな……また、あの尾行者の気配を感じた」
 それまでの弛緩した雰囲気が吹き飛んだ。
「クオリークレストのあいつか?」
 テリオンの顔色が変わったことに気づいたのか、オルベリクは眉を上げてうなずく。
 以前、はるか西にあるクリフランドの町から出発した直後、二人は学者を狙う謎の影を察知したことがあった。まだ記憶に新しい出来事だ。今回は、オルベリクの警戒網のみに引っかかったらしい。
「だが妙に気配が希薄で、相手の位置が分からなくなってしまった。ならばいっそのことサイラスを探した方が早いと思ってな」
 テリオンたちとは別々に学者を追っていたらしい。それでもまだ見つからないなんて、いくら大きな町とはいえ、雲隠れが上手すぎるだろう。本当に他人に迷惑をかけるのが得意な男だと思いながら、テリオンは翻訳者の家を示す。
「学者先生はそこの家に立ち寄ったらしい」
「もうそこまで調べていたんだな」
「別に。俺はただ、あいつの教え子に付き合ってただけだ」
「教え子……? テリオンはその人を案内していたのか」
「そうだが」
 するとオルベリクは少し笑った。まったく何がおかしいのだろう。
 剣士が家に足を向けたタイミングで、教え子がドアから出てきた。テリオンを見つけて駆け寄る。
「ドミニクさんからお話をうかがいました。先生はもう家を出ていったそうです。どこに向かったのかは分からないって……」
 彼女は肩を落としていた。結局、振り出しに戻ったわけだ。
(これ以上付き合っていられないな)
 幸いにも、自分よりよほど義理堅い男がここにいる。教え子は彼に押し付けてしまおう。テリオンは外套を翻した。
「そっちは任せた」
「おい、テリオン!」「テリオンさん……?」
 オルベリクの異議も教え子の困惑も無視して、その場を去った。
 学者をつけ狙う者の存在が気にならないわけではない。しかし、一向に本人が見つからないのでは心配する気も失せるというものだ。
 勢いのまま階段を駆け上がり、再び上街にやってくる。
 中央広場を通りがかった。テリオンは噴水を囲むように置かれたベンチにどっかりと腰かける。
(無駄な時間だったな……)
 残りのリンゴでも食べようかと荷物を探った時、ふと疑問が浮かんだ。そもそも、学者は翻訳者の家で何をしていたのだろう?
 ヒントはいくつかあった。トレサの「先生は自分の持つ本をつくった工房を探していた」という発言を思い出す。
(あいつ、クオリークレストでギデオンから写本を手に入れていたな)
 もしや学者は、あの写本をつくった製本工房を探していたのではないか。トレサとともに工房を回りながら聞き込みをして、写本の翻訳者ドミニクの名前を知った。今度は薬種屋や教会に探りを入れてから、翻訳者本人の家に赴き、おそらくは写本についての情報を仕入れた。
 学者はアトラスダムの図書館から盗まれた本を探している。例の写本のオリジナルがそのうちの一冊であることは疑いようがない。つまり、彼は一人で本探しの続きをしていたようだ。テリオンは例の取引きがあるから、学者の一声でそれを手伝う羽目になるのだが、今回は何も頼まれていなかった。
 風に吹かれてしぶきが飛んでくる。思考に沈むテリオンの耳から水音が遠ざかった。
(何か引っかかる……)
 先ほどまで適当に流していた事象が、理由のない焦りとなって、胸にひたひたとこみ上げてくる。
 教え子が学者に伝えようとしている緊急の用件とは、一体なんだ。気配に敏いオルベリクが、今回に限って尾行者をとらえきれなかったのは何故なのだ。
 テリオンは立ち上がった。静かな場所で考えを深めるため、人の波から逃れるように屋敷街の路地に入る。両足は自然と例の屋敷に導かれていた。
 その足がはたと止まった。
(こんなところにいたのか)
 散々探し回った相手——涼しい顔をした学者がそこにいた。
 いい加減諦めた頃合いになって見つかるとは、皮肉なめぐり合わせである。学者は裏口方面からあの無人の屋敷を見上げていた。
 声をかけようとして、テリオンは気づく。学者は見知らぬ女と一緒にいた。
 とっさに物陰に身を隠す。何故かそうしなければいけない気がした。幸い相手にはまだ見つかっていない。
 女は黒いローブを着ていた。髪も墨色で、隣の男とどこか雰囲気が似ている。ただし大きく違う点がひとつある。まるで気配が感じられないのだ。確かにそこにいるのに、少しでも目を離すと印象が曖昧になる。存在を認識すること自体が、何かによって阻まれているようだった。
「ここがイヴォン学長の生家です」
 女は記憶に残らない声を出した。テリオンは二人に悟られぬ距離を保って、成り行きを見守る。
 二人は躊躇なく裏口を開けて塀の中に入っていく。鍵はかかっていなかった。
 テリオンの脳裏に閃くものがあった。
(まさか)
 クオリークレストの地下遺跡で、ギデオンという男が使っていた魔法だ。それは術者の気配を巧妙に隠し、いきなり目の前に現れたかのように見せるものだった。かなり強力な魔法で、よく注意していたテリオンでもまったく気づけなかったほどである。
 もしも、女が例の魔法によって気配を消しているとしたら——あいつはギデオンの仲間か!?
 テリオンは駆け出した。十分に勢いをつけてジャンプし、一息に塀を飛び越える。
 荒れた庭に降り立って、すぐに玄関に回り込んだ。いた、学者だ。彼は開かれた屋敷の入口にゆっくりと近づいていく。女がその後ろに回った。
「サ——」
 呼びかけた名を飲み込んだ。突如として女の姿がかき消えたのだ。
「テリオン君!?」
 驚いた学者が振り返る。「後ろだ!」というテリオンの叫びにより、彼も女の不在を理解した。
 テリオンは先ほどまで女がいた場所に陣取り、短剣を抜いた。ごくりとつばを飲む。女がどこにいるのかまったく分からない。今度こそ本当に消えたのか?
「そうか、転移の魔法……!」
 学者は合点がいったらしい。「テリオン君気をつけてくれ、彼女は——」
「気づくのが少し遅かったですね」
 空中から冷たい声がした。出し抜けに女が眼前に現れる。
 これが転移の魔法か! テリオンが反応する数瞬前、女の唇が微笑の形に歪み、何かをつぶやく。その刹那、立っていられないほどの風が前方から吹き付けた。
「くそっ」「うっ」
 テリオンは吹き飛ばされた。そのまま背後の学者にぶつかり、開かれたままの扉をくぐり抜けて、屋敷の中に吸い込まれる。
 その先には床がなかった。テリオンは奈落の底に落ちていく——学者を下に敷いたまま。

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