砂に刻む帰途



 記憶に色濃く焼きついた人物が、現実の影とともにテリオンの目の前に現れた。
 赤朽葉色の髪を後ろに流し、枯れた緑の外套をまとった男——ダリウスは、己の名を呼んだテリオンを見て眉を上げた。やがてにやにや笑いを浮かべる。
「どこのこそ泥かと思えば……テリオンか! こいつは驚いた」
 テリオンは全身の血がふつふつと煮えたぎる感覚を味わった。
「ダリウス様、これを」
 ガーレスと呼ばれた男が割り込み、緑竜石を渡す。「よくやった」とダリウスが答えた。
 その光景も相手の会話もほとんど意識に入らない。彼はひたすらダリウスだけを凝視していた。
 こんなところで再会するなんて思いもしなかった。捨てたかった過去がいきなり呼び覚まされ、胸に嵐が吹き荒れる。端の暗くなった視界に、昔よりも背筋の伸びたダリウスだけがぽっかりと浮かび上がった。
 ——かつてテリオンとダリウスは手を組んで盗みを働いていた。彼らは難しい仕事を幾度も成功させ、息の合った二人組としてそれなりに名が通っていた。だが六年前、ダリウスはテリオンを裏切った。
 当時、彼らはシアノ一家という盗賊団と覇を競っていた。シアノ一家は大規模なグループだったが、テリオンたちは技術と知恵によって何度も彼らを出し抜いた。それを目障りに思ったのだろう、シアノ一家は他でもないダリウスに対し、「テリオンを殺せば幹部の地位を約束する」と取引を持ちかけた。その条件を飲んだ彼は、テリオンをクリフランドの崖から真っ逆さまに突き落とした。
「兄弟」と呼び合った仲だった。それなのに崖上で対峙した時、ダリウスは「お前のことは道具としか見ていない」「俺に意見するようになって腹が立った」と断言した。前は同じ口で「俺たちは最高のコンビだ」と言っていたにもかかわらず。
 不意打ちのような言葉を浴びせられ、衝撃で目の前が暗くなったことも、崖から落ちながら「ふざけるな」と憤ったことも、テリオンは何もかも鮮明に思い出せる。沸き立つ怒りに翻弄されて口を閉ざせば、ダリウスは無遠慮に距離を詰めてきた。
「竜石を探している盗賊がいるっていう噂は聞いていたが、お前だったのか。まさか生きていたとはな!」
 テリオンだって、あの高さから落ちて生き残るなんて思いもしなかった。
「今はこんな連中とつるんでいるのか」
 後ろに控えたガーレスたちへ視線を突き刺し、吐き捨てる。
「ああそうとも。今じゃ俺も、部下を従えるお頭よ」
(そんなに誰かの上に立ちたかったのか……)
 テリオンには理解できない望みだった。思えば最後に会話を交わした時も、ダリウスは妙に上下関係にこだわっていた。テリオンは対等な立場だと思っていたのに。
「どうした? 『元』兄弟。お前は今何をやってるんだ」
 ダリウスの目線が何気なく下がる。はっとした時にはもう遅く、右手の枷はしっかり目撃されてしまった。
「ん? その腕輪……なるほどなあ。竜石を探しているのはそのせいか」
 よりにもよって彼にばれてしまうなんて。テリオンは震える手で腕輪に触れる。砂漠の夜のような冷たさが指に伝わり、沸騰した頭をわずかにさました。
 ダリウスはくつくつと笑う。
「堕ちたなあ、テリオン。昔は腕だけは良かった。だからこそとことん利用してやったんだがな」
 かっと目の前が白くなる。
「……黙れ、ダリウス」
 渾身の力を込めてにらみつけた。相手が誰であろうと「それ」だけは許してはいけない。テリオンの挟持を貶める発言だけは、決して。
(くそ、完全に向こうの流れだ)
 テリオンは必死に思考を働かせる。どうにかしてダリウスの余裕を崩したい。このまま済ましてなるものか、と口を動かす。
「お前こそ、なぜ緑竜石を狙うんだ」
「盗賊にそれを聞くのか。欲しいと思ったから手に入れる……理由なんて大した意味はねえ」
 その答えは真実ではない。ノーブルコートでオルリックが研究していたくらいだから、竜石にはきっと特別な価値がある。ダリウスは手下を大勢動かしてでも入手すべきと判断したはずだ。
 沈思黙考するテリオンに、ダリウスは再び嫌な笑みを向けた。
「しかしまあ、情けない目をするようになったな」
「なんだと」
 反射的に顔を上げる。色の違う二対の視線がぶつかった。ダリウスが真正面から覗き込んでくる。
「決して誰にも心を開かない……いいや、違うな。誰も信じたくない、そんな目だ」
 これ以上取り乱すまい、と決めたつもりだったのに、テリオンの心は盛大に揺れた。
 誰も信じたくない——俺はそういう目をしていたのか。
「まさか、俺に裏切られたから……なんて泣き言吐かないだろうな」
 唇を噛んだ。こみ上げた感情をなんとか飲み込む。何も答えられなかった。
「図星か。盗みの腕は一流のくせに、心の弱いヤツだなお前は」
 ダリウスに裏切られた直後のテリオンは、確かに言われたとおりの状態だった。他人など信じて何になる、一人で盗んだ方がずっと楽だと思っていた。
 しかし今の彼は旅の連れと協力して仕事にあたっている。その理由を、未だにはっきりと言語化できていなかった。
「その口を閉じろ、ダリウス」
 だから今はそれしか言えない。短剣を突きつけると、ダリウスは鼻で笑った。
「はん、つまらないヤツになったな。思い出話はそろそろ仕舞いにしようか。おい! 始末は任せるぞ」
「はっ!」
 控えていた手下が前に出てくる。ダリウスは竜石をもったいぶって懐にしまい、さっと身を翻した。
 目的を果たせば即座に撤退を選ぶ。やはり判断が的確だ。狼狽するテリオンに比べて、ダリウスはずっと冷静だった。
「そこをどけ」
 波立つ心をなだめている暇はない。テリオンは怒りのままに三人の手下を睥睨した。ガーレスが叫ぶ。
「そうはいくか。お前はダリウス様のかつての兄弟分らしいが、今の右腕はこの俺だ!」
 そんなろくでもない地位を誇るなんてどうかしている。こいつとは一生相容れないな、と思った。
 一触即発の空気があたりを支配した時——
「ねえテリオン、私のこと忘れてるでしょ」
 とんと軽く足音を立てて、踊子が隣に並ぶ。猫のように細められた瞳がこちらを見た。その時テリオンはやっと現状を正確に把握した。
(全部聞かれた……!)
 頭から冷水を浴びたようだった。知られたくなかった過去が見る間に流れ出していく。もう誰にもそれを止めることは不可能なのだと悟った。
 踊子は何ごともなかったかのように微笑する。薄暗い洞窟にはふさわしくない、舞台用の艶っぽい表情だ。
「仕方ないから手伝ってあげるわ」
 テリオンは改めて彼女を確認し、ぎょっとした。貴族のように着飾っていた姿は見る影もない。服は土埃で汚れ、自分で裂いたのかスカートには大きなスリットが入っている。戦場を駆け抜けてきた、という表現がぴったりの状態だ。
 けれども、その壮絶さはかえって彼女らしかった。
「さっさとこいつらを片付けて、あのいけ好かない男を追うんでしょ? やるわよ」
「……ああ」
 テリオンは余計な思考を消し、目の前の敵に集中する。
「そうは行くか!」
 ガーレスは片手で地面に何かをまくようにした。テリオンたちの足元に炎が立つ。鬼火よりもずっと範囲が広く、火炎魔法のごとく燃え上がった。外套をかざしてなんとか防ぐ。
「氷よ、切り裂け!」
 すかさず踊子が応戦した。地面に手をつき、氷の壁を呼び出して炎を遮る。ついでに氷で手下二人の足を地面に縫い止めることに成功する。
 学者の魔法だ。いつの間に習得したのだろう、などと考えている場合ではない。
「取り巻きは私に任せて!」
 うなずきを返し、テリオンが飛び出そうとした時、氷の壁が割れた。ガーレスが短剣で切り込んできたのだ。
 狙いは踊子だった。彼女は体を起こし、短剣を抜く。まだ魔法を使い慣れないせいか、肉弾戦への切り替えに意識が追いついていない。
「遅い!」
 ガーレスの声に踊子の横顔が歪むのが見えた。その瞬間テリオンは身を翻し、二人の間に割って入った。
「テリオン……!?」
 背後から踊子のくぐもった声が聞こえる。無理な体勢で長剣を抜いたせいで、ガーレスの攻撃を受けきれなかった。刃の上を相手の短剣がすべり、シャツと一緒にテリオンの腹部を切り裂いた。
 体がかっと熱くなった。傷が深い。体力が急激に奪われていくのを感じた。相手の技は何らかの魔力を伴っていたと今更気づく。これはただの怪我ではない。
 膝が崩れた。視界がみるみる暗くなる。
(まずい。踊子だけじゃ絶対に勝てない……!)
 何かを叫ぶ踊子の声を聞きながら、彼は意識を手放した。



 クリフランドの谷底を、テリオンは体を引きずりながら歩いていく。
 全身が重い。崖の上から突き落とされたのだから当然だ。どうして手足がつながっているのかも分からない。落ちている最中に気を失い、次に目覚めるとずぶ濡れになって谷川の岸に倒れていた。とにかく命だけは助かったが、痛みはもはや飽和状態だった。
 自分はどこに向かっているのだろう? 唯一無二の兄弟を失ったテリオンに、ゆくべき場所などあるのだろうか。
 それでも彼はどこかを目指して歩いていた。ダリウスに出会う前と同じように——そしてひとりになってからも、決して命を投げ出そうとは思わなかった。一歩も動けなくなる瞬間まで生き抜いてやると心に決めていた。
(もう誰も信じない。俺はひとりでも生きていける……!)
 そうやって自分自身に誓いを立てて、ひたすら前に進んだ。
 やがて岩壁に切れ目を見つけた。中に洞窟があるらしい。無我夢中で駆け込み、力尽きて入口で倒れ込んだ。ほおに小石が当たる。
 もう指一本たりとも動かせない。冷たい地面に体温が奪われ、意識が薄れていく。このままでは確実に死ぬ。それだけはだめだと頭が叫んでいる。
 ぼやけた視界の隅に階段が見えた。どうやら自然にできた洞窟ではないようだが、それを確かめる気力すらなかった。
「たどり着きし旅人よ、そなたに——」
 不意にどこかから声が降ってきた。
 体がふっとあたたかくなり、眠気に誘われるようにテリオンは目を閉じた。



「テリオンさん、起きてください!」
 まぶたを照らしたのは治癒の光だ。
 ゆっくりと目を開ける。地面に横たえられたテリオンの顔を、神官が心配そうに覗き込んでいた。彼女が治療を施したらしい、とじわじわ理解する。
「ああ、良かった……」
 神官は表情を緩める。テリオンはその瞬間、自分の置かれた状況を思い出した。
「踊子はどうした」
「オルベリクさんと一緒に戦っています」
 のろのろと体を起こし、神官の示す先を見た。剣士と踊子がガーレスと対峙していた。テリオンが倒れた後、間一髪で剣士たちが間に合ったらしい。
 ガーレス以外の手下はすでに地に伏せている。その一方で、剣士の片腕は肩からだらりと垂れ下がっていた。神官がテリオンの治療を優先したため回復が間に合っていないのだ。そもそもホールであの数の盗賊たちとやりあったのだから相当疲労しているはずである。それに、剣士は潜入のために普段より数段劣る防具しか身につけていなかった。大切なものだという腕当てだけが妙にぴかぴか光って見える。
 二人を同時に相手取るガーレスは、まだ十分に体力が残っているようだ。早く自分も出なければ、とテリオンは立ち上がりかけて、腹をおさえた。
 こんな時に邪魔な痛みだ。そう考えた拍子に、ストーンガードで見た学者の姿を思い出してしまう。
(あいつが耐えられるなら——いや、あんな危ない術、俺は絶対に使わない)
 神官だって了承しないだろう。代わりに「悪いが先に治してくれ」と言う。彼女はうなずき、再度魔法を唱えた。
「オルベリクさんはずっとわたしを守ってくれました。そのせいで怪我をされて……それに、疲れは魔法ではどうしようもありません」
 回復魔法の効果が及ぶのは治癒の光が届く範囲だ。テリオンはじれったい気持ちで傷が塞がるのを待った。
 前線では長さの異なる剣の打ち合いが続いていた。鋭さを失った剛剣を受けて、ガーレスがせせら笑う。
「その状態で足手まといを守るつもりか?」
 踊子はほとんど体力が残っておらず、かろうじて立っているような状態だった。彼女はそれでも何か言い返そうとしたが、その前にオルベリクが剣を振り下ろす。ガーレスが飛び退いた。
「ああ、そうだ」
 彼は力強く叫んだ。
「守り抜くために、俺は負けられない!」
 テリオンは、不意にハイランドの冷えた空気を思い出した。
 オルベリクは初めてコブルストンで出会った時から変わらず、「人がいるから守るのは当たり前」と言い放ち、それを実行する男だ。守りたい対象は誰よりも多いのだろう。
 だが今、彼が「守る」と言い切ったのは、ここにいるテリオンたちのことだった。
 治癒の光が消える。テリオンは立ち上がった。いつまでも他人に任せてばかりはいられない。
 短剣を両手で握り、まぶたを閉じた。心の中の暗闇に向かって呼びかける。そうすれば必ず「力」は応える、という確信があった。
「オルベリクさん、プリムロゼさん、下がってください!」
 神官の呼びかけを受けて踊子が後退する。しかしオルベリクはそれに従わず、刃を交えて相手と力比べをはじめ、ガーレスをその場に釘付けにした。
「盗公子エベルよ——!」
 イヴォンの生家の時とは違い、テリオンは意識的にその力を呼び出した。
 奥義が届く寸前にオルベリクが押し切り、相手を突き放した。ガーレスがその予兆に気づいた瞬間、絶対に避けられないタイミングで不可視の鉤爪が命中した。ぐらりと体が傾ぐ。
「ダリウス様……」
 倒れたガーレスの手から二振りの短剣が同時に落ちた。そのまま気を失ったらしい。
 あたりに沈黙が降りた。四人の吐いたため息の音が重なり合う。
「あーあ、せっかくのドレスが台無しよ」
 踊子がわざとらしく言ってスカートをつまんだ。神官は苦笑し、前線の二人に駆け寄って治療を施す。
 短剣を鞘におさめたテリオンは暗い通路の先を見つめた。ダリウスが消えた方角だ。もう人の気配はない。
「テリオン、無事だったか」
 オルベリクは治療を受けながらこちらを気遣った。テリオンはかぶりを振って、ダリウスのことを脳裏から追い出す。
「ああ。俺も……助かった」
 すると剣士は目を見開き、踊子と神官がきょとんとして顔を見合わせた。
(俺が礼を言うのがそんなに珍しいか?)
 途端に居心地が悪くなる。幸い、オルベリクはすぐに表情を繕った。
「竜石はどうする?」
 ガーレスたちは時間稼ぎの役割を十分に果たした。さすがに今から追いかけても無駄だろう。
「……これから考える」
 ダリウスとのやりとりを聞いたのは踊子だけだ。テリオンが盗賊団の頭領と知り合いだったことを、皆にどう説明すべきだろう。それも含めてじっくり考慮する必要があった。
 だが、今は何も考えられない。頭の芯が鈍く痺れて思考を拒む。捨てたはずの過去との望まぬ邂逅は、テリオンの胸に深い爪痕を残していた。
「そうだ、リアの封書!」
 踊子がいきなりぽんと手を叩いた。今の今まで忘れていたらしい。テリオンは彼女につかつかと歩み寄り、ふところに持っていたものを押し付けた。
 小さな木箱だ。中身も確認済みである。
「見つけていたのね……いつの間に」
 目を丸くする踊子に「当然だ」と答える。ホールで彼女に盗賊団の件を警告してから、スタッフの権限で荷物置き場を漁って発見した。封書そのものが店に並ぶはずはないから、あるとすればどこかに放置されているのでは、と考えて正解だった。そちらに時間を使ったせいで、ホールから逃げ出した踊子のもとに駆けつけるのが遅れたのは、完全に本末転倒だったが。
 木箱の蓋を開けた踊子は大きくうなずいた。彼女はそのまま剣士に視線を向ける。
「それにしても、オルベリクたちはよくあのホールを抜けられたわね。あんなに大勢のお客や盗賊がいたのに」
「ああ、それはだな」
 剣士はどこか気まずげに神官と目を合わせた。
「実は、俺があの数をすべて倒したわけではなくて——」
 彼が説明しかけた時、出し抜けに「ガウ」と獣が吠えた。
 四人の肩が同時に揺れる。疲労のせいで気づくのが遅れたが、姿を見ずとも正体は分かる。雪豹リンデがホールの方角から走ってきた。
「みんな、無事か!」
 続いてハンイットが到着する。さらに金髪の男が後に従った。
「エアハルト」
 オルベリクは落ち着いて呼びかけた。まるで登場のタイミングを知っていたかのようだ。一方、テリオンと踊子は立て続けに思わぬ人物と再会し、目を白黒させた。
 エアハルトは数名の衛兵を引き連れており、倒れたガーレスと二人の手下を拘束するよう指示を出した。
「すまないオルベリク、何人か取り逃してしまった。竜石とやらを持った者も見つからなかった」
「いや、謝ることはない。とにかく助かった」
 双璧の騎士の会話に、踊子が首を突っ込む。
「どういうこと? ハンイットたちはリザードマンの調査をしていたはずよね」
「それはあとで説明する。ひとまず守備隊に後始末を任せて撤退しよう。みんな、ひどい有様だぞ」
 ハンイットに指摘され、四人は力なく首肯した。傷自体はふさがっているが、血や砂で服は汚れ放題だった。何か事情を知っていそうな剣士と神官を問い詰めるのも、一旦後回しだ。
 テリオンたちは来た道を戻り、闇市の開かれていたホールにたどり着く。すでにほとんどの店は片付けられていた。あれだけ大規模な戦闘があったにもかかわらず、妙に綺麗である。
 ホールにいた衛兵がエアハルトに気づいて駆け寄った。
「負傷者は盗賊団と顧客を含めて二十人程度です。死者はいません。全員すでに町に運びました」
 エアハルトはうなずいた。死者が出なかったことにテリオンは驚く。神官がテリオンたちの加勢に来る前に治療を施し、衛兵が手当てを引き継いだのか。それにしても手際が良かった。
 テリオンは強い違和感を覚えた。オルベリクたちがホールから脱出できたのは、衛兵が助けに来たからだろう。しかし、そもそも今回の潜入に守備隊は絡んでいないし、闇市の場所だって知らせていない。
 誰かに盤面をコントロールされている。広い視野で状況を把握して、選別した情報を受け渡し、多くの者を動かした者がこの裏にいる。
(まさか……)
 その「誰か」に当てはまる人物を、テリオンは一人しか知らなかった。
「どうも嫌な予感がするのよね」
 踊子も似たようなことを考えたらしく、隣の剣士に半眼を向ける。彼は肩をすくめただけで答えなかった。
 焦りとも安堵ともつかない感情が襲ってきた。こめかみを流れ落ちるのは冷や汗か。
 ——その場にいなくても、俺の助けになれ。あんたならそのくらいできるだろ。
 テリオンは確かにストーンガードでそう言った。だが……本当に?
 入口に向かう細い通路をのろのろ歩く。体温を奪う風が容赦なく前方から吹き込んできた。
 じわじわと指先が冷え、逆に胸元が熱を持つ。テリオンがよく知る兆候だった。「彼」と向き合う時はいつもこの感覚に翻弄される。
 ぽっかり空いた洞窟の入口に漆黒の帳が覗く。砂漠の夜に紛れるように、その男は音もなく佇んでいた。闇色の髪とローブが風に揺れる。
「お疲れさま、テリオン。到着が遅れてすまなかったね」
 アトラスダムに帰ったはずの学者が、真っ昼間のような笑みを浮かべてそこに立っていた。

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