果敢なき実りを胸に



 廊下の先に数人の盗賊がたむろしていた。廃教会に潜入してからはじめての遭遇である。
(さあ、お手並み拝見よ)
 プリムロゼは仲間とともに崩れた柱の陰に隠れ、フードをかぶり直すテリオンの背を見送った。彼は躊躇せず盗賊団に近寄っていく。
「おい、テリオンを見かけたか? ここに侵入してきたって噂だぞ」
 こんな台詞を本人が堂々と吐くのだから恐ろしい。
「いえ、見ていませんが……」
 盗賊たちは青くなって首を振る。テリオンの芝居にころりと騙され、彼を幹部と思い込んだようだ。
 これほど簡単にことが運ぶなんて、盗賊団は人相書きを見ていないのだろうか? いや、顔を知っていても別人と思えるほど雰囲気が違うのかもしれない。思えばプリムロゼは芝居を打つ時のテリオンを真正面から見たことがなかった。いつかきちんと確認したいものだ。あの演技力ならさぞ舞台でも映えるだろう。
 テリオンは来た道を指差し、声を張り上げる。
「草の根分けてでも探し出せ。お前らはあっちだ!」
「はっ!」
 盗賊たちはプリムロゼたちが隠れている柱のそばを通り抜け、入口へと駆けていく。残念ながら、地上に出た途端にオルベリクたちに捕捉されてしまうのだが。
 敵がいなくなったことを確認してから、プリムロゼは隠れ場所を出てテリオンに歩み寄る。
「いつもながらの名演だったわね、盗賊さん」
 テリオンはうさんくさそうに片眉を上げ、フードを払う。完全にいつもの調子に戻っていた。
「役者になれるわよ。私が保証するわ」
「そんなものに興味はない。仕事に必要だから演技しているだけだ」
 むすっとして答える彼に、プリムロゼはわざと明るく声をかける。
「あらそう、残念ね。役者で売れたら、盗む必要なんてないくらいの大金が手に入るわよ」
「テリオンなら余裕で稼げるだろうな」
 ハンイットまで便乗してきた。プリムロゼはにやりとして言葉を結ぶ。
「ま、本人にその気がないなら仕方ないわね……」
 歩みを再開しながら横目でこっそり見守ると、かすかにテリオンの唇が動く。「考えておく」とつぶやいたようだった。プリムロゼは笑いを噛み殺した。
 目指すべき礼拝堂はまだ先である。四人と一匹は不測の事態に備え、改めて慎重に足を運んだ。
 ……それにしても。
「これほど簡単に騙せるとは。彼ら、組織としての統制がまったく取れていないね」
 サイラスがぼそりとつぶやく。全員の思いを代弁した台詞だった。
「仕事が楽で助かる」
 興味なさげなテリオンの返答に、学者がうなずいた。
「キミにとってはそうだろうね。この組織を束ねる者も、必要最小限の統制しか求めていない」
「所詮は盗賊団だ。たかが知れてる」
「私はそれだけとは思わない。ダリウスにとって組織の連中はただの道具――仲間とは思っていないのだろう」
 その台詞に何故かテリオンは表情をかたくした。
「なるほど。他人を信じていないということか」
 ハンイットが納得したように首肯する。
 盗賊団の連携がぼろぼろなのは、リーダーの思想を反映しているからだ。それでも聖火騎士が出てくるまでは数の有利で主導権を握っていたようだが、今やその強みは完全に崩れ去った。ガーレスが死に、聖火騎士やテリオンの芝居によって切り離された彼らは組織として弱い。盗賊団が解体されるのはもはや時間の問題だろう。
 前に出るリンデに合わせ、サイラスは少しペースを上げる。反対に足を鈍らせたテリオンとすれ違う刹那、学者が声をかけた。
「この調子で頼むよ、テリオン。目的の場所はもうすぐだ」
「ああ、信頼には応える」
 答えてから、テリオンははっとしたように自分の口をおさえた。幸いサイラス本人の視界には入らなかったが、プリムロゼはしっかりと目撃した。
(ほらね。やっぱり気づいているんじゃないの)
 彼だって、仲間から向けられる気持ちの正体には察しがついているのだ。
 リンデとサイラスが前をゆき、ハンイットが続く。プリムロゼは彼らの背中を見ながら隣の男をひじで小突いた。
「うふふ、その調子でどんどん言葉にしていけばいいのよ」
「……何の話だ」テリオンは胡散臭そうにこちらをにらむ。
「大事なことはちゃんと口に出して言わないと、もったいないでしょ?」
 以前、プリムロゼはある町の酒場でテリオンとサイラスを相手に女心について語らった――否、一方的に説教をしたことがある。その時も似たような話題が出た。
「何も言わなくても伝わる、なんて甘えちゃだめよ。ストーンガードでハンイットにも言われてたじゃない」
「いい加減にしてくれ。まったく……あんた、まだ故郷に帰らないのか?」
 思わぬ角度から反撃され、プリムロゼは一瞬言葉に詰まった。
 彼女は長年の目標であった復讐をすでに果たしていた。しかし、未だに父親の墓に報告できていない。だからテリオンは不審に思っているのだろう。プリムロゼはこわばった顔に無理やり笑みを張り付かせる。
「そんなに私に帰ってほしいの? でもね、それは無理よ」
 プリムロゼは前方で揺れる黒いローブを恨めしい気分で見つめた。
「あの人に止められたの」
「……どういうことだ?」
 テリオンが眉をひそめる。プリムロゼはまぶたを閉じて、エバーホルドの町で自身の目的を果たした日のことを回想した。



 月が満ちるたび、空の星が瞬くたび、君の安らかな眠りを祈る。願わくば、夢で逢えますように――
 悲劇を言祝ぐ声が耳の奥にこだまする。かつて慕った男を短剣で貫いた感触は、まだ手のひらに残っていた。
 エバーホルドの町は周辺を岩山に囲まれた高所にある。そのため、町の周りには安全のためにぐるりと手すりが配置されていた。プリムロゼはその冷たい金属に寄りかかり、宵闇に沈む劇場を眺める。自分はほんの数刻前、あそこでシメオンを討ったのだ。
 ゆっくりと首を持ち上げる。こんな日に限って夜空は雲に覆われ、月も星も見えなかった。
 胸にぽっかり大きな穴が空いたようだった。そこを風が通り抜ける度、プリムロゼの心はどんどん吸い出されていく。目を閉じると夢か現実かも分からないあの舞台が思い浮かんだ。シメオンを刺してから――もしかするとその前からずっと、彼女は上の空だった。どうやって劇場から戻ってきたかもよく覚えていない。
(……こんなものかしらね)
 復讐を果たした暁には、全身の血が沸くような達成感を得られるのではないかと期待していた。だが予想は外れ、今の彼女はひたすらに空虚だった。
 この十年間、復讐こそがプリムロゼにとってただひとつの人生の指針だった。それがなくなった今、自分はどうしていいのか分からなくなったのだろう。仇討ちを志してノーブルコートを飛び出た時の方が、まだ希望に満ちていたくらいだ。少なくとも目的だけは明確だったから。
 おまけに、彼女は復讐に代わるべき目標を今までろくに探してこなかった。これは自らの行動が招いた事態だ。
 手すりに身を預けて夜風に吹かれていると、背後で足音がした。
「プリムロゼ」
 静かな声はハンイットのものだ。プリムロゼは虚空に向かって笑みをつくってから、ゆっくりと振り返る。
「あら、わざわざお迎え?」
「そんな格好では体が冷えるぞ。宿に戻ろう」
「……ええ」
 手すりに乗せた腕はすっかり冷たくなっていた。素直にハンイットに従うことにする。
 彼女が迎えに来た理由など聞かずとも分かる。プリムロゼのことを心配しているのだろう。こうなるなら、マルサリムの遺跡で弱音など吐かなければよかった。そこまでしなくても、と言いたくなるくらい近頃の彼女は世話を焼いてくる。
 事件を解決した後は全員で酒場に繰り出して打ち上げを開くのが常だったが、さすがに今回はプリムロゼの方から遠慮した。仲間たちはもう宿で各々休んでいるはずだ。
 結局、宿につくまでハンイットとはろくな会話がなかった。静かに玄関をくぐり、プリムロゼはとある部屋の前で立ち止まる。
「それじゃ、私はこれで」
「ああ、おやすみ」
 ハンイットは軽く手を振り、自室に戻っていく。プリムロゼは一人になってからコンコンと扉を叩いた。そこはサイラスの部屋だった。くぐもった声に了承を告げられ、中に入る。
「私、一度ノーブルコートに帰りたいわ。近いうちに寄ってくれるかしら」
 扉を閉めるなりプリムロゼはそう切り出した。旅程の調整はサイラスが引き受けているため、こうして希望を出したわけである。
 熱心に書き物をしていた学者はぎくりと肩を震わせ、何故か気まずそうな顔でこちらを振り返る。
「それは……無理かな」
「え?」
 プリムロゼはぽかんとして問い返す。今、彼は何と答えたのだろう。サイラスは眉を下げたまま続けた。
「すまない、旅程が詰まっていてね。ノーブルコートに寄る機会はしばらくないんだ」
 これは嘘だ、と直感した。男が嘘をつく時はだいたい分かる。しかし、どうして彼がプリムロゼの邪魔をするのだろう?
 その瞬間、閃くものがあった。彼女は乾いた唇をそっと動かす。
「それは……私がお父様に会いに行った後、空っぽになるって分かってるから?」
 サイラスは息を呑んだ。それは肯定とほとんど同義だった。
 カッと頭に血が上る。プリムロゼは自分でもよく分からない衝動に駆られて一歩踏み出した。だが、昼間の疲労が残っていたのかバランスを崩す。サイラスが椅子から立ち上がり、よろけた体を支えるべく手を広げた。図らずもプリムロゼは彼の胸元にすがりつくような格好になった。
「プリムロゼ君……」
 沈鬱なささやきが鼓膜に落ちる。彼女はうつむいたままサイラスの両肩を強く握りしめた。自嘲の笑みが唇に浮かぶ。
(本当に、どうしてこういう時ばっかり鋭いのかしら)
 復讐を果たしても彼女の心は埋まらなかった。最後に父親の墓前に報告したら、きっと自分は抜け殻になるのだろう。サイラスはこうなることを予想していたから、余計に「シメオンを討ってくれ」と頼むのが心苦しかったのだ。今になって、プリムロゼは彼が罪悪感を抱いた本当の理由に思い当たった。
 だが、彼女がこの状況に陥ったのは決してサイラスのせいではない。あの時プリムロゼが怒ってみせたのはただの八つ当たりだ。彼はプリムロゼに好きな道を歩ませ、踊子になるきっかけを与えてくれた人だった。それなのに、彼女はこういう結末を迎えることしかできなかったのだ。
 プリムロゼは化粧が崩れるのも構わず、学者のベストに顔を押し付ける。こみ上げるものをこらえるように。
「もしキミが今後黒曜会の人間に狙われるようなことがあれば、全力で助けるよ。だから……もう少しだけ、私たちの旅に付き合ってくれないか」
 憂いを帯びたサイラスの声がすっと胸に染み込む。
 プリムロゼはようやく体を離し、完璧に表情を取り繕ってからおもてを上げる。凪いだ湖面のようなサイラスの瞳としっかり視線を合わせた。
「分かったわ。……あなたがそう言うなら」
 プリムロゼは「強い自分」を手放したくなかった。泣けば楽になると分かっていても、仲間の前では気丈な踊子のままでいたい。強がりでもなんでもいい。復讐の道を歩んだ十年間で定まった生き方は、そう簡単には曲げられないのだ。
 サイラスは彼女に逃げ道を――心の整理に必要な時間を用意してくれた。望んだ自分でいるために、この猶予をうまく活用しようと心に決める。
 プリムロゼは無理にほほえんだ。
「その代わり、あなたが辺獄の書を見つけるまでとことん付き合ってあげるわ」
 十年かかって復讐を成し遂げるくらい、しつこさには自信があるのだ。サイラスは困ったように笑った。
「すまないね。あの本を見つけるまではまだしばらくかかりそうだ」
「あらそう。別に私は構わないわよ?」
 自然に小さな笑いがこぼれる。胸を張ってノーブルコートに帰れるようになるまで、この旅が長引いてくれた方がありがたい。
 プリムロゼは一人で父の墓参りをすることばかり考えていた。だが、頼めば少なくともハンイットはついてきてくれるだろう。彼女とサイラスはそれぞれプリムロゼにとって異なる役割を果たしてくれた。
 他の仲間も同様だ。彼らこそ、プリムロゼがぎりぎりで踏みとどまるための最後の砦だった。それを失わないために持てる力のすべてを尽くしたい。
 決意を新たにしたプリムロゼは部屋を退出しかけて、
「そうそう、言い忘れてたわ」
 再びサイラスに歩み寄る。
「私は誰かさんと違って素直だから、ちゃんとお礼を言っておくわ。引き止めてくれてありがとう、サイラス」
 プリムロゼはほほえみを浮かべ、驚く彼の鼻先をちょんとつついた。



「……まあ、いろいろあって、ノーブルコートにはまだ戻れないのよ」
 プリムロゼは学者との会話を回想の中に封じ込める。テリオンはため息をついて「そうか」とだけ言った。
 じっと彼の表情を観察する。素直になれない「誰かさん」は怪訝そうに見返した。
「うわっ」
 ――と、前方から学者の情けない声が聞こえてきた。角を曲がった先だ。プリムロゼはテリオンと顔を見合わせ、その場に急行する。
「サイラス、大丈夫か」
 ハンイットは床に座り込んだ学者に声をかけていた。
「何があったの?」
「そこの床に穴が空いていたんだ」
 狩人の指さした先で、石の床が崩れていた。薄暗くて気づかなかったのだろう、サイラスが足を踏み外して落ちかけたところを、ハンイットが間一髪で引き上げたようだ。サイラスは肩で息をしながら心臓のあたりをおさえていた。
「かなり崩落が進んでいるらしいね。気をつけて歩こう」
「あんたが一番気をつけるべきじゃないか?」
 テリオンの容赦のない発言に、うんうんと女性陣がうなずく。サイラスは苦笑いした。運動神経という点では、間違いなく彼が最も注意する必要がある。
 歩みを再開しながら、プリムロゼは暗い穴をそうっと覗き込んだ。地下はもう一階層あるらしい。見取り図にあった倉庫につながる通路だろう。この施設は天井が高いから、落ちれば大怪我するかもしれない。イヴォンの生家でサイラスとテリオンが落とされた穴よりはまだまし、といった程度だ。
「盗賊たちもよくこんなところに住めるわねえ」プリムロゼが感嘆すると、
「こんな場所にしか住めないんだろ」
 テリオンが投げ捨てるように言った。プリムロゼはどきりとする。こういう時、テリオンとの育ちの違いを強く意識する。精神性においては彼と似たものを感じることがあるが、二人の基礎は大きく異なっていた。
 とはいえ、今のテリオンは同じような環境で育ったはずのダリウスと対立し、一方でプリムロゼたちと行動をともにしている。理解や相性の是非は育ちだけでは決まらない。
 それに、テリオンにはここに巣食う盗賊たちとは根本的に違う何かがある、とプリムロゼは思っていた。だから彼はアーフェンのようなお人好しともなんだかんだで対等に付き合えるのだ。
 不意にリンデが足を止めた。四肢を曲げて姿勢を低くする。
「待て」
 察したハンイットがこちらを振り返り、唇の前に人差し指を立てた。
 複数の足音が近づいてくる。テリオンは即座にフードをかぶり、プリムロゼたちは慌てて物陰に隠れた。もちろん学者の魔法をかけ直して気配を遮断する。
 直後、前方から三人の盗賊が現れた。そのうち一人はテリオンと同じ赤いフードをかぶっている。本物の幹部だろう。
 開口一番、幹部はこう言った。
「お前がテリオンだな。ダリウス様のもとには行かせない」
 隠れて様子をうかがうプリムロゼたちに緊張が走る。どういうわけか、すでに正体がばれているらしい。テリオンは芝居をやめてフードを脱いだ。
「よく俺だと分かったな」
「ガーレスが連絡してきたんだよ」
「ほう」
 堂々と答えるテリオンの背に、わずかな動揺が見て取れる。ガーレスは町中で倒れたというのに、どうやってこんな地下深くまで情報を流したのだろう。サイラスがじっと息を詰め、耳を澄ませているのが分かった。
 幹部は懇切丁寧に説明した。
「あいつが石の上に残していった鬼火が急に消えたんだよ。魔力で燃えてた火がなくなったってことは、ガーレスがやられたんだろ? そしたらすぐにテリオンが乗り込んできた。お頭が言った通りだったな」
 魔法にそんな使い方が、とプリムロゼは瞠目する。あの時ガーレスが自死を選んだのは、頭領に危機を知らせるためだったらしい。
 サイラスがはっとしたように身じろぐ。彼の危惧はプリムロゼにも伝わった。ダリウスはこの先でテリオンを待ち構えているのだ。奇襲をかけて機先を制する作戦はもう成り立たない。
 正面衝突が避けられないなら、できるだけテリオンの消耗を抑えるべきだ。今すぐ彼を礼拝堂に向かわせなければ。
「こちらこそ、足止めを食うわけにはいかないな」
 ハンイットが胸を張って隠れ場所から出ていく。リンデとプリムロゼ、サイラスも同様だ。テリオンはちらりとこちらを見てから、盗賊に向き直った。
 幹部はプリムロゼを確認して眉を跳ね上げる。
「こいつ、テリオンの女だぜ」「本当だ」
「……はあ?」
 きれいにテリオンと声が重なった。聞き捨てならない単語が耳に入ったのだが。
「ああ、二人はウェルスプリングで一緒に戦ったのだったな。それで勘違いしたのか」
 ハンイットがのんきに納得している。どうやらこの幹部は闇市から逃げ出した数少ない者の一人のようだ。
 思わずテリオンをにらめば、「俺のせいじゃないぞ」と渋い顔で弁解された。さすがの彼も辟易しているらしい。プリムロゼはため息とともに短剣を抜く。
「ますます許せないわね。テリオン、先に行きなさい。ここは私たちが引き受けるわ」
「いいのか?」
「もちろんだ」
 ハンイットもうなずく。それでもテリオンはわずかに逡巡し、視線を泳がせる。
「行ってくれ、テリオン。そういう取引だっただろう?」
 サイラスの青い瞳に射抜かれ、テリオンは軽く息を呑んだ。取引とは一体何の話だろう。プリムロゼの知らない間に秘密のやりとりがあったらしい。
「ああ、そうだな……そういう約束だった」
 テリオンはぽつりと答え、振り返らぬまま盗賊たちに向かって駆けていく。その途中で足元に薬瓶を落とした。アーフェンにもらった煙幕だ。瓶が割れてもうもうと煙が立ち、テリオンの姿が見えなくなる。
「くそ、どこ行った!?」「うわっ」
 煙の中、ハンイットにけしかけられたリンデが盗賊に噛み付く。テリオンの控えめな足音はあっという間に遠ざかっていった。うまく離脱できたらしい。
 さあ、ここからが正念場だ。プリムロゼは踊りの準備のため、とんとんとつま先で軽く地面をつつく。その横で、サイラスは煙の満ちた廊下をぼんやりと見つめていた。
「サイラス、どうした?」剣を正眼に構えたハンイットが咎めるように声をかける。
「いや……なんでもないよ」
 学者は慌てた素振りで魔導書を広げ、詠唱に入った。煙が晴れ、むせる盗賊たちと戦線を支えるリンデの姿があらわになる。ハンイットが結った髪を揺らして走っていく。
 サイラスの涼やかな声とともに爆炎が巻き起こり、盗賊たちの背後に燃え盛る壁をつくった。これでテリオンを追うことはできまい。
 暖色の明かりに照らされた学者は、小さくつぶやいた。
「約束か……」
 その声は知らない色と温度を伴ってプリムロゼの耳に届いた。思いもよらない切実な響きに、一瞬胸をつかれる。
 テリオンは初めてレイヴァース家でサイラスと出会った時、ろくな会話もないまま武器を交えたという。第一印象がそれだったせいもあり、とにかく彼は学者に対する先入観が強かったのではないか。だから、どうしてサイラスがいつも手を貸してくれるのか分からず、つっけんどんな態度ばかりとっていた。
 サイラスは教師という経歴通りよく喋る男だ。しかし、彼の感情はなめらかな言葉よりも、むしろ表情にこそあらわれるのではないか、とプリムロゼは考える。
 煙に包まれる前、テリオンは一瞬でも振り返るべきだった。そうすればここに――彼の背を見送るサイラスの顔に、求める答えがはっきりと書いてあったのに。

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