果敢なき実りを胸に



 テリオンは一人で廃教会の地下を歩いていた。
 そう、一人で。いつだって彼は一人だった。だが今、後方では仲間たちが彼のために盗賊を足止めしている。それに今回は聖火騎士の協力まで取りつけていた。
 彼がノースリーチに来たのは、元はと言えば竜石を取り返して罪人の腕輪を外すため――すなわち個人的な目的である。それが、いつしかこれほど多くの人を巻き込んでいた。
 その腕輪も、実はすでに外れているのだ。となるとテリオンは一体何のために旅をしているのだろう。その答えは自分一人では見つけられなかったが、仲間たちが背中を押し、コーデリアやヒースコートが導いた先にあった。
 テリオンは脳内に教会の見取り図を描きながら道をたどる。入り組んだ地下を抜けて階段を一段ずつ上り、最奥の礼拝堂にたどりついた。
 朽ちた天井からちらちらと雪が舞い込む。薄い日差しに照らされる祭壇の手前には緑と黄、二つの竜石が安置してあった。やはりダリウスは黄竜石を手に入れていたのだ。
 周囲に誰もいないことを確認し、テリオンはゆっくりと祭壇に近づく。遠目でも本物の石だと分かった。
(それにしても、どうしてダリウスは竜石を狙うんだ……?)
 テリオンにはただの宝石としか思えなかった。だが、レイヴァース家がここまで手間をかけて取り返そうとするからには、何か理由があるはずだ。そういえば以前、オフィーリアは「竜石から力を感じる」と言っていた。もしや、ダリウスはそのおかげで組織を拡大できたのだろうか?
 テリオンは竜石の前で立ち止まった。祭壇の奥から気配がする。
「そいつはな、俺が大きな力を得るために必要なものだ」
 崩れた柱の陰から男が出てくる。
「……ダリウス」
 砂漠以来の再会だった。赤朽葉色の髪にうっすら載った雪を払い、相手は白々しく笑った。
「よお、テリオン。まだまだ元気そうじゃねえか」
 声を聞いても闇市で会った時ほど心がざわめかない。テリオンは口を閉じたまま彼を見返す。
「まさか本当に乗り込んでくるとはな。そんなにその腕輪を外したいのか?」
 人相書きまで配って警戒していたくせに、ダリウスはとぼけてみせた。それに、言葉の後半については明確に否定できる。テリオンは外套の下から腕輪を出した。
「腕輪を外すため――最初はそうだった。だが、今は違う」
 軽く息を吸った彼は、ついにその言葉を口にした。
「……信じられたから、だ」
 そうだ、それが一番しっくり来る。「信じる」などという、誰よりもテリオンが最も忌避していた言葉こそ、今の気分にふさわしい。
 その途端、ダリウスがぶるぶると震え出した。噛みしめた歯の間からマグマのような怒りがあふれる。
「気に入らねぇな、昔みたいな目に戻りやがって。ウェルスプリングの時の目はどうした!?」
 誰も信じないという目――それは、きっとダリウスがテリオンの瞳に映る己自身を見ていたのだ。今となってはそう思える。
「他人を信じたって無駄だ、また裏切られるだけだ!」
 テリオンは髪を振り乱して叫ぶ男をただ見つめた。
「……かもしれないな」
「そうだ、他人なんて金や権力をちらつかせて利用すればいいんだよ。俺はそうやって生きてきた――お前を利用したようにな!」
 なるほど、テリオンの首に賞金をかけたのも、他人を利用する方策の一つだろう。ダリウスにとっては手下すら駒でしかない――学者の台詞を思い出せば、テリオンの胸中はますます凪いでいく。
「他人を信用しない……か。だがなダリウス、それは寂しい生き方なんだとよ」
 いつかボルダーフォールでコーデリアが言っていた。テリオンは寂しそうな顔をしている、と。目の前に鏡写しのような男が現れたおかげで、あの言葉の意味が分かった。
 刹那、ダリウスは激昂して武器を抜き放った。
「そんなものは戯れ言だ!」
「……ああ、その通りだ」
 テリオンも静かに長剣を構えた。もともと会話で決着がつくとは思っていない。双方が竜石を求めている以上、武力による争いは避けられなかった。剣先に気合を集中させる。
「だが、俺はそんな戯れ言を……本気で信じてみたくなったのさ!」
 叫びとともに全力で打ち掛かった。ダリウスは一瞬遅れて剣で受け止め、よろめく。
 彼とは何度も喧嘩をしたが、真剣を交えるのはこれが初めてだ。おまけにテリオンは一度も勝ったことがなかった。単純な戦闘能力ではあちらがずっと上だった。
 テリオンが勝つには、ダリウスと別れてから積み上げてきたすべてをぶつけるしかない。そのために長剣を使う。もともとはリーチを確保するために選んだ武器で、短剣ほど自在に操れなかった。それでも構わないと長年思っていたが、今はオルベリクの指導で鍛えた技術がある。
 バランスを失ったダリウスに続けて斬撃をお見舞いする。が、彼はすぐに立て直して武器を振り上げた。そのままつばぜり合いになる。
 至近距離でダリウスが叫んだ。
「人を信じても裏切られる――お前も知っているはずだ! 這いずり回って生きてきた俺たちが、誰かを信じてどうする!?」
 それが嘘偽りない気持ちなのだろう。十数年越しに本音を聞かされ、テリオンはぐっと奥歯を噛んだ。
「確かにそうだろう。しょせん俺たちは盗賊だ」
 盗賊なんて他人のものを奪って食いつなぐろくでなしである、とテリオンは思っている。それを自覚することと、自分の生業や技術に矜持を抱くことは、何ら矛盾しないことも知っている。
「だがな、ダリウス。そんな俺たちでも、人を信じたり信じてもらうことはできる!」
 テリオンは兄弟に手を伸ばすつもりでそう言った。自分にできたことがダリウスにできないはずはない。
 烈剣の騎士と剣を交えるオルベリクや、姉妹を説得するオフィーリアの姿を思い出す。たとえ相手に届かなくとも、テリオンは声をかけ続けるつもりだった。
「うるさい」とダリウスは首を振る。聞きたくないのだろう。テリオンだって、少し前までは耳を塞いできた言葉だ。
 ダリウスは大きく飛びすさった。着地と同時にかざされた手から、圧倒的な熱量を持った炎が放たれる。炎は生き物のようにうねりながら襲いかかってきた。火竜――ダリウスの得意とする技だ。テリオンはとっさに剣を握っていない方のこぶしを突き出す。
「凍えるがいい」
 床から氷柱が防壁のようにせり上がった。そこに炎がぶつかる。薄い氷の層はすぐに溶けてしまうが、それで十分だった。勢いの弱まった火の中を、テリオンは息を止めて駆け抜けた。焦げたフードを捨て、再びダリウスに肉薄する。相手のこめかみに浮かんだ汗まではっきりと見えた。
 すばやく十字に斬撃を走らせる。十文字斬りと名付けられたホルンブルグの騎士の技だ。初撃は弾かれたが、鉛直に振り下ろした二太刀目は手応えがあった。外套ごとダリウスの左肩を切り裂く。一気に攻め込もうと前に出れば、腹のあたりが熱くなった。こぶしで殴られたのだ。衝撃で空気のかたまりを吐き出し、テリオンは痛みをこらえて距離をとった。
 ダリウスは構えを崩さず、肩で息をしながらこちらをにらむ。
「お前はいつだって自分の腕に絶対の自信を持っていやがった。だがな、お前がどれだけ腕を誇ろうが、ろくでもない連中のほうが大きく稼ぐのさ」
「……だからそちら側に回るのか?」
 呼吸を整えたテリオンが問い返すと、ダリウスは嫌悪の表情で吐き捨てた。
「お前だって分かっているはずだ。俺にはお前ほどの才能はない。それでも盗賊として生きていくと決めた。そのためならなんだってやるってな!」
 テリオンは絶句した。二人の盗みの腕に差があった? 考えたこともなかった。小柄で盗みに有利なテリオンと、腕っぷしの強いダリウス――それぞれの長所を活かせるいいコンビだと思っていた。テリオンこそダリウスに敵わない部分は山ほどあったが、それを引け目に感じたことはなかった。
 二人はほぼ同時に踏み込む。剣がぶつかり、礼拝堂に火花が散った。ダリウスは顔を歪めた。
「……俺は、お前のような甘いヤツには負けねえ」
「甘いのはお前の方だろ」
「なんだと」
 愕然としたように目を見開くダリウスに対し、テリオンはひときわ声を張った。
「お前はただ、裏切られたくないから裏切る側に回っただけだ。信じることに怯えていたのはお前の方じゃないのか、兄弟!」
 兄弟と呼ぶのは久々だった。もう二度とそんな機会は訪れないと思っていた。ダリウスは怒りにわななく。
「黙れ! 俺はお前とは違う……お前よりずっと狡猾に生きてきた。お前と違って非情にもなれる!」
 誰にも負けるものか、という叫びが廃墟に長くこだました。
 負けたくないという気持ちはテリオンも同じだ。しかしその先に求めるものが違う。だから二人は剣を交えるしかなかった。
 長剣を薙いで相手を退かせる。互いに疲労がたまりダメージを受けているが、未だに決定打はなかった。
 テリオンが己の勝ち筋に思いを巡らせた時、耳の奥に声が蘇った。
 ――オルベリクの旦那は、自分よりも大きい相手と戦うことがあるのか?
 以前、試合の合間にそう尋ねたことがある。剛剣の騎士は背が高いのでめったに他人を見下ろすことはないだろう、という考えあっての質問だ。オルベリクは汗を拭って答えた。
 ――魔物はともかく、人間相手ではめったにないな。
 ――それじゃヒントにならないだろ。どうやったら俺はあんたに勝てるんだ。
 テリオンが不貞腐れると、オルベリクは苦笑していた。
 何度模擬戦を繰り返しても、未だに彼から一本も取れていない状況だった。「守ること」を信条とするだけあって、剣士の防御は恐ろしくかたい。守りに入られてしまうと隙が見つからなかった。もちろんそう簡単に剛剣の騎士に勝てるとは思っていないが、一発くらいは当ててみたい。
 ――そこは自分で考えてもらわないとな。テリオンにはテリオンの戦い方がある。お前のすばやさや回避能力は、どんな相手にとっても厄介なものだぞ。
 剣士の声が遠のく。テリオンはそのヒントを元に試行錯誤を続け、すでに自分なりの答えを出していた。
 すなわち己の長所――ダリウスが知り尽くしているはずの盗賊の技を使うのだ。
(今だ!)
 テリオンは迷いなく長剣を振りかぶり、ダリウスへと投げつけた。相手がのけぞってかわした隙に、反対の手で抜いた短剣を顔の前にかざし、祈りを込める。こちらの意図を悟ったダリウスも即座に集中に入った。
 土壇場で、盗賊たちが祈る神は同じだった。
「盗公子エベルよ!」
 二つの声が重なった。奥義の発動は――テリオンの方が早い! 遅れてダリウスも不可視の鉤爪を呼び出し、ぎりぎりで相殺した。ぶつかり合う力が廃教会の塵や埃を吹き飛ばす。
 ダリウスが次の行動に移ろうとした時、テリオンはもう間近に迫っていた。間髪入れず突き出した短剣がダリウスの肩に深々と刺さる。相手は武器は取り落とした。
「ぐっ……」
 テリオンは床に転がった長剣を遠くへ蹴り飛ばし、肩を押さえるダリウスに短剣の切っ先を突きつける。相手は憎々しげににらみかえしてきた。
 勝利の高揚など微塵もない。テリオンの胸にはじわりと諦念がにじむ。
(やはり、俺には無理なのか……)
 何度剣を交えてもどれだけ言葉をかけても、二人の心は一向に重ならなかった。剣士や神官のようにうまくいかない。自分とダリウスは積み上げてきたものが圧倒的に足りなかったのだ、と思い知らされた。テリオンは強く唇を噛む。
 その時、礼拝堂の入口から硬い足音が響いた。
「テリオン、竜石を確保するんだ!」
 焦ったような学者の声が突然耳に入り、心臓が跳ねた。
「油断したな、テリオン!」
 直後、ダリウスは地面に手をつき、テリオンの足元へ火竜を放った。舌打ちしながらバックステップで避けたが、炎によってもろい床石が崩れ、ダリウスとの間に大きな亀裂ができる。
 その隙に相手は奥へ向かい、祭壇に飛びついた。かと思うと、身を翻して出口へ逃げていく。
「待て、ダリウス!」
 見れば片方の台座が空になっていた。黄竜石が奪われた! テリオンは穴を避けるため大回りして祭壇に行き、残った緑竜石を懐に入れてすぐに後を追いかける。
 ダリウスの向かう先には学者が待ち構えていた。
「雷鳴よ、轟き響け!」
 すかさず大雷撃魔法が炸裂した。振動と雷鳴が礼拝堂を大きく揺らす。稲光によってテリオンの視界は白く塗りつぶされ、思わず足を止めた。
 近頃、学者の魔法はとみに強くなった。おかげで準備なしに放たれると、こうして味方にまで被害が出る始末だ。
(まさか、ダリウスに直撃させてないだろうな)
 そんなことをすれば塵も残らないのではないか。テリオンは何度も瞬きして視野を復活させた。
 次の瞬間飛び込んできた光景に、頭が真っ白になった。
「……ちょうどいいところに来たじゃねえか」
 ダリウスは学者の首に腕を巻き付け、その喉元に剣をあてていた。
 枯れた色の外套を焦げつかせながらも、ダリウスはぴんぴんしていた。テリオンの与えた肩の傷は服を赤黒く濡らしているが、魔法は当たらなかったようだ。武器はテリオンが投げたものを拾ったらしい。
「なあ、こいつもお前の仲間なんだろ?」
 学者は口を開きかけたが、より強く締め上げられて苦悶の声を漏らす。押し当てられた切っ先に喉の皮がうっすら切れて、血が流れていた。あれではろくに詠唱もできまい。
(なんで、こんなことになってるんだ)
 テリオンは動揺しながらもなんとか頭を回転させる。おそらく、学者はぎりぎりで魔法の狙いを外したのだ。己の火力はよく理解しているはずだし、とっさに出力を絞れるほど器用でもない。雷を選んだのは音と光による撹乱が目的か。
 しかしその配慮が命取りだった。ダリウスは躊躇せず突進し、その結果雷は彼の背後に落ちた。学者は杖で応戦することも敵わず、この状況に陥ったのだ。
 そこまでは察しがついたが、まだ疑問は尽きなかった。そもそも何故学者がここにいるのだろう。狩人と踊子はどこに行ったのだ。あの幹部たちとまだ戦っているのか?
 盛大に混乱するテリオンへ、ダリウスは勝ち誇ったように笑声を浴びせた。
「こいつの命が惜しくなかったら緑竜石を渡せ。それで俺はもう一度やり直すんだ!」
 そうか、学者は人質にとられているのだ。テリオンはやっと現状を正確に把握した。
 反射的に懐に手を入れ、竜石の位置を確認する。顔を上げれば、学者と目が合った。彼は何も言わない。ただ表情で何かを訴えている。呼吸を妨げられて顔は苦しげに歪んでいるが、その瞳はいつもと同じ色だった。テリオンは少しだけ冷静になる。
(何か考えがあるのか……?)
 学者は「竜石を確保しろ」と言いながら乱入してきた。もしや、追い詰められたダリウスが逃げ出すことを予想していたのか。だから退路を断つべく礼拝堂にやってきたのだ。
(焦りを隠せ、よく考えろ)
 テリオンは内心冷や汗をかきながら自分に言い聞かせた。なんとか学者の思考を読み、意図を把握するのだ。そのためには時間が必要だった。
 テリオンは竜石をしまい直し、おもむろに話し出す。
「ダリウス、もう降参しろ。逃げても無駄だ。ここの入口には聖火騎士が待機している」
 少しでも猶予を稼ぐため、切り札とも言える情報を教えた。ダリウスは顔色を変える。
「あの話は本当だったのかよ。お前、いつからそんなもんに頼るようになったんだ!?」
 テリオンの変化が信じられないのだろう。その気持ちは分かる。例えばレイヴァース家を訪ねる前の自分が、「お前はこれから他人と協力して仕事をする」と言われても、納得するはずがない。
「……俺が頼んだわけじゃない。そいつらが勝手にやるんだから仕方ないだろ」
 テリオンは腕輪のはまった右手で学者を示す。青い目がぱちりと瞬いた。
 別にこちらが何かしたわけでもないのに、仲間たちは積極的にテリオンの旅路に手を貸した。相手に貸しを作るばかりでは気色悪いので、テリオンも彼らに助力した。そんなやりとりが積もりに積もって今の関係をつくったのだ。
 ダリウスが目をすがめ、腹から声を出す。
「お前は、こいつのことも信じてるのか」
 刃を押し当てられた学者が目を大きく開いた。彼が聞いていることを意識しながら、テリオンは答えを紡ぐ。
「信じると言って伝わらないなら、こう言い換えてもいい。……俺はただ、知っているんだ」
 何度も肩を並べて戦った結果、「学者はそういうやつだ」とテリオンは知ってしまった。だから理屈を越えて、感覚で分かる。
 そう、この学者が無為無策でやってくるはずがない。何か作戦があるのだ。具体的な内容は分からずとも、それだけは断言できる。
 ダリウスはかぶりを振った。
「だから信じるのかよ。なめたこといいやがって……部下でもなんでも使い捨てればいいだけだろ! 御託はもういい、竜石を渡せ」
 刃がいっそう学者の喉に近づく。それでも学者は血の気の失せた顔で、テリオンに向かって「やめるんだ」と唇を動かした。
 永遠のような静寂があった。テリオンは息をととのえ、懐に入れかけた手を下ろす。
「……断る」
 ダリウスがくつくつと笑う。
「ほらな、やっぱりお前だって仲間より宝を選ぶんじゃねえか」
「そうじゃない。俺の時間稼ぎは終わったというだけだ」
 テリオンが傲然と言い放った直後。
「狙い撃つ!」
 入口の向こう側、ダリウスの背後から放たれた一条の矢が、凍りついた空気を打ち破った。矢は狙い過たずダリウスの肩に突き刺さる。彼は衝撃で前のめりになった。
 その拍子に腕の力が緩み、学者が拘束を逃れた。テリオンはそれと同時にダリウスに向かって駆け出した。今こそ竜石を確保する時だ。
 解放された学者は退避するかと思いきや、そのまま体を反転させてダリウスの懐に飛び込んだ。
「やめろ!」
 ダリウスが学者を突き飛ばす。バランスを失った学者が倒れ込む先には――床がなかった。
「あっ……」
 その小さなつぶやきは誰が発したものだっただろう。ばさりと広がったローブごと、火竜によって崩落した暗い穴に吸い込まれていく。テリオンにはその動きがひどく緩慢に見えた。ローブに縫い付けられた金糸のきらめきが、焦りと憤怒が混じったダリウスの顔が、そして学者の惚けたような表情が同時に視界に入る。
 無限に引き伸ばされた一瞬の中、いつか自分が突き落とされた崖っぷちが、目の前の光景と二重写しになった。
 テリオンは即座に方向転換した。
 立ちはだかるダリウスに、とっさに懐から掴んだものを投げつける。それはオフィーリアにもらったリンゴだった。胸元に痛烈な一撃を受け、ダリウスがふらつく。
 テリオンはそれ以上ダリウスの方を確認しなかった。落ちていく学者だけを視界に入れ、穴の縁に駆けつけると、すぐにしゃがんで腕を伸ばす。夢中で学者の手首を握った直後、体ががくんと揺れた。
「テリオン……!?」
 宙吊りになった学者が愕然としてこちらを見上げていた。
(ま、間に合ったのか……)
 テリオンは穴の中に上半身を投げ出すようにして、両腕で学者の右手を掴んでいた。無理な体勢で踏ん張りが効かず、二人はずるずると下に引っ張られていく。このままではストーンガードの時と同じように、穴の底で学者を押しつぶす羽目になるだろう。そんなの冗談じゃないぞ、と必死に腕に力を込めた。
 背後から複数の足音が迫る。
「テリオン、よくやったな」「すぐ引き上げるわ!」
 ハンイットとプリムロゼだった。彼女たちがテリオンの胴を支えて引っ張り、二人は無事に穴から脱出した。
 床にへたり込んだ学者ははあはあと息を切らしている。テリオンも同様に浅く呼吸を繰り返しながら、半ば呆然としていた。
 今さら心臓がうるさく鳴っている。学者を支えていたのはほんの短い間だったが、脳裏には次々と穴や崖にまつわるろくでもない記憶が蘇り、正直生きた心地がしなかった。
 学者はテリオンと目を合わせると、「これを」と言って何かを渡してきた。
 手のひらの上に無造作に載せられたのは黄竜石だった。どさくさに紛れてダリウスから奪い取っていたのだ。「こいつ実は盗賊だったのか」と言いたくなるような抜け目のなさである。テリオンは放心状態で宝玉に目を落とした。
 学者が汚れた顔でほほえむ。
「穴に落とさなくてよかったよ」
「あなたねえ……」
 プリムロゼが眉をひそめて何か言いかけた時、背後からうめき声が聞こえた。テリオンは弾かれたように振り返る。
 少し離れた場所で、ダリウスはうずくまって肩口をおさえていた。無理やり矢を抜いたらしく、手の隙間から血があふれ出す。彼が逃げ出さなかったのは、リンデが威嚇していたからだ。
 もうダリウスがこちらに剣を向けることはないだろう。テリオンは腰を上げ、警戒を続けるリンデを手振りで下がらせた。
 テリオンの接近に気づいたダリウスは、黄竜石がその手におさまっているのを見て、苦々しい表情をつくる。
「……俺の、負けか」
 テリオンは彼から少し離れた位置で立ち止まった。親しく会話するには遠すぎて、もう永久に埋まらないであろう距離だった。
「ダリウス……兄弟。お前は何が欲しかったんだ? 俺を裏切って手に入れられたのか?」
 きっとダリウスはテリオンを切り捨ててでも獲得したいものがあったはずだ。その正体が分かれば、裏切りを許すことはできなくても、納得くらいはできるかもしれなかった。
 ダリウスは皮肉げに口元を歪め、よろよろと立ち上がる。
「何を言うかと思えば、くだらない。俺は成り上がる……何を利用したって、誰にも見下されないようになるんだ。誰も信じられなくてもいい……!」
 血を吐くようなダリウスの言葉を、テリオンと学者たちは黙って聞いた。
「ただただ成り上がって、俺を見下した連中を見返して……」
 テリオンは彼に背を向けた。もういい、と告げるように。
 しばらくして、引きずるような足音が遠ざかっていく。
 ダリウスを見下した連中には、もしやテリオンも含まれていたのだろうか。そんなつもりは微塵もなかったのに。
「……さよならだ、兄弟」
 テリオンはこの瞬間、己の過去に本当の意味で決別した。もう今後の人生にダリウスが登場することはないだろう。そうやって距離を取ることこそ、今のテリオンがダリウスのためにできる唯一の行動だ。
「行かせて良かったのね?」
 プリムロゼは手首を振り、念のため準備していたらしい短剣をひらひら泳がせた。
「ああ。あいつが聖火騎士に捕まろうが、俺の知ったことじゃない。竜石は手に入った」
 ハンイットは大きくうなずいて、未だ座り込んでいる男を見る。
「サイラス、立てるか?」
「ああ。問題ないよ」
 学者は土埃のついたズボンを手で払い、よろよろと立った。切れた喉はプリムロゼの回復魔法で簡単に治る。のんきに肩を回す彼を見て、テリオンはどっと疲れがわいた。
 テリオンの虚ろな視線から何か感じ取ったのか、学者は冷静に語りはじめる。
「あの幹部たちはキミを先に行かせた後に倒したよ。プリムロゼ君たちに彼らを縛ってもらい、私はその間に礼拝堂を目指したんだ。キミに警告を伝える必要があると思ってね」
 やはり彼はダリウスの逃亡を予期していたのだ。
「それにしても、まさかあなたが人質にとられるとはな。びっくりしたぞ」
 ハンイットは顔をしかめる。「なんとか間に合ってよかったわね」とプリムロゼも胸をなでおろした。
「雷撃魔法の音が聞こえれば、きっとキミたちが礼拝堂に駆けつけると思ったんだ」
 学者は平然として言った。あの大雑把な魔法にも一応意味があったらしい。
 すると、ハンイットが何かに気づいたようにひたいを押さえた。
「すまない……急いでこちらにやってきたから、幹部たちをきちんと縛れなかった。多分もう逃げているだろう」
「そうか。まあ、入口で捕捉できるから問題ないよ」
 学者がうなずきを返す。その横でプリムロゼがこちらに笑みを向けた。
「そうそう、時間稼ぎありがとう、テリオン」
「うまく会話で相手の気をそらしていたな。わたしたちの存在を悟られたら終わりだったから、助かったぞ」
 学者の考えを読むためにひたすら話を引き伸ばしたのは正解だったらしい。ダリウスの意識が完全にこちらに向いた瞬間、ちょうど弓を構えたハンイットの姿が入口の奥に見えたのだ。
「テリオンの機転にはいつも助けられているよ」
 にこにこする学者を見据え、テリオンは小さく息を吸い込む。
 助けられたのはこちらの方だ。あのタイミングで学者が来なければ、みすみす竜石ごとダリウスを取り逃していたかもしれない。
 彼に何か言わなければ――そう考えるだけで、異様な緊張が全身を支配する。テリオンはうつむき、なんとか頭を整理した。
 そして唇を開く半瞬前、ハンイットがぽんとサイラスの肩を叩く。
「テリオンがいなければまた穴に落ちていたところだったな」
「うむ、二度目がなくてよかったよ」
 テリオンはさり気なく目をそらし、学者を視界の外に追い出した。プリムロゼのもの言いたげな視線が横顔に刺さったが、つとめて無視する。
「……戻るか」
 握った黄竜石は、ほのかにダリウスの体温を残していた。

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