我らはひとつ船の中



 コーデリアは護衛の数を減らしてから――ウィンダム家に無闇に圧力をかけてもまずいと思ったのだろう――一行を案内した。
 この町はゴールドショアと違って平坦な土地に存在する。サイラスたちは当初の目的地だった道具屋の前を素通りして住宅街を抜け、海に張り出した区画にたどり着く。そこは貴族や富豪たちが集う別荘地だった。広い通りには枝葉の整った樹木が一定間隔で並び、ぽつりぽつりと石造りの屋敷が建っている。それぞれの別荘は海に面した小さな船着き場や、専用の砂浜まで持っているようだ。
 プリムロゼが感心したようにつぶやいた。
「ああいう場所でのんびり海を眺めてバカンス、っていうのも悪くないわね」
「いかにもお金持ちの娯楽よね。あたしには縁がなさそうだわ……」
 トレサは風で帽子が飛ばされないよう押さえながら言った。プリムロゼがぱちりとウインクする。
「あら、トレサだって資産なら十分持ってるじゃない」
「あれはそういうことに使うお金じゃないの!」
 閑静な別荘地にはいささかそぐわない、にぎやかな行進だった。コーデリアは気分がほぐれたのかくすくす笑っている。サイラスは景色を楽しみながら、ハンイットと並んでゆっくりと最後尾を歩いた。リンデも物珍しそうにしっぽを立てて石畳を踏んでいる。
 案内された先は、別荘地の中でもひときわ立派な屋敷だった。より多くの日差しを取り込めるよう、壁面には大きな開口部がいくつも設けられている。なめらかな石の外壁を見上げたハンイットが息をついた。
「これが別荘なのか。わたしの家の三倍はありそうだな」
「コーデリアさんのおうちともまた違う感じよね」
 トレサの言う通り、重厚さを感じさせるレイヴァース家の威容と異なり、ウィンダム家の別荘は繊細かつ瀟洒な雰囲気だった。それは実用性よりも装飾性が重視されているからだろう。あくまでここは一時の滞在場所なのだ。
 広い前庭を通り、コーデリアが先に立って屋敷の呼び鈴を鳴らした。すぐに人が出てくる。隙なく服装を整えた白髪の老紳士だ。彼は一行の中心に立つコーデリアに目を留めた。
「おや、あなた様は……」
「突然のご訪問失礼します、コーデリア・レイヴァースです。ノーア様はいらっしゃいますか」
 令嬢が名乗れば、紳士は低姿勢で腰を折る。
「このような場所によくお越しくださいました、コーデリア様。お手紙は届いております」
 確かジルという名の執事だ。コーデリアが肩の力を抜く。
「そうでしたか。それであの、ノーアは……」
「お嬢様はあいにくお出かけ中です。お話は中でうかがいましょう」
「は、はい」
 返事を聞いた彼女は目に見えてほっとしていた。どうやら単に手紙が届かなかっただけで、ノーア自身に異変はないようだ。
 コーデリアの後ろからひょこりとトレサが顔を出す。
「あのー……あたしたちもいいですか?」
「もちろんですトレサ様。旦那様はおりませんが、それでもよろしければ」
「あっありがとうございます!」
 トレサはほおを上気させた。ウィンダム家にとって、やはり彼女は賓客なのだ。
 護衛を下がらせ、リンデとも一旦別れて五人で別荘に上がり込む。通された二階の客間にはバルコニーに出るための大きなガラス戸があり、そこから青い海が一望できた。滞在者を楽しませるための仕掛けだ。
 トレサはきょろきょろ室内を見回し、ハンイットは壁に飾られた獣の剥製に注目して、プリムロゼは飾り棚の上の絵画に感嘆していた。さりげなく置かれた美術品はサイラスがざっと見ても価値のあるものばかりだ。ここにテリオンがいたら目の色を変えていただろう。
 訪問者はそれぞれ籐で編まれた椅子に座った。ジルが淹れた冷茶を前に、コーデリアが両膝を揃える。
「わたしがノーアと文通していることはご存知ですよね。この間も手紙を出したのですが、いつまで経っても返事が届かなくて……ノーアに何かあったのではないかと不安になってしまい、こうして訪問したのです。後から出した手紙にもその旨は書きました」
 それを聞いたジルは驚いたように目を見開いた。
「なんと、そうでしたか。お嬢様は確かにコーデリア様へのお返事を書かれていましたよ。もちろんその後でご訪問のお手紙も受け取って、わたくしたちに知らせてくださったのですが……返事がコーデリア様に届かなかったとは、一言もおっしゃいませんでした」
「それは……どうしてでしょう?」
 困惑するコーデリアに対し、執事は安心させるように柔らかい笑みをつくった。
「きっと深刻な理由ではありませんよ」そう前置きしてから、ジルは目を細める。「と言いますのも、お嬢様は最近本当にお体の調子がよろしくて……あの手記を手に入れてからでしょうか、それまでわたくしに任せていたような雑用も自分でやりたいとおっしゃるので、格段に外出の機会が増えました」
「そうなんだ……!」
 トレサが嬉しそうにはにかむ。顧客の一人ひとりに宝物を届けたい、という彼女の願いが見事に実を結んだのだ。
 執事は白い眉を寄せる。
「ですので、コーデリア様へのお返事に関しても、ウィンダム家の郵便ではなく町民が使う運び屋にご自分で頼まれたようです。そのためボルダーフォールに届かなかった可能性がございますね……」
「運び屋に、というのはどういうことだ?」
 ハンイットが首をかしげたので、サイラスは軽く解説した。
「ウィンダム家は大富豪だから独自の郵便網を持っているのだろう。そちらを使えばより安全に手紙が届けられるが、ノーアさんはあえて民間のルートを使った。そこで郵便事故にでも遭ったんじゃないかな」
「使い慣れない業者に頼むからには、そのくらいは考慮しなくちゃいけないわよね」
 プリムロゼが豊かな胸の前で腕組みし、ハンイットはなるほどと相槌を打った。そこでサイラスは執事に質問する。
「ですが、郵便事故が発生したなら、差出人に連絡があるはずでは?」
 ジルがあごを引いた。
「そうですね……お嬢様は事故の件を知っていて、わたくしたちに隠していたのかもしれません。理由は分かりませんが」
 サイラスは指であごをなぞった。気になる「謎」を見つけて、頭が自然と問題を組み立てはじめる。
 ふと、ほおのあたりに視線が集まるのを感じた。何故か仲間たちがじっとサイラスを見ている。一体どうしたのだろう。
 コーデリアが椅子の上で居住まいを正した。
「手紙の件についてはノーアに直接聞いてみたいと思います。ところで、ノーアはどこに?」
「今日は一人で露店街を見に行くとおっしゃっていました」
「護衛はつけていないのですか……?」
 訝る彼女に、ジルは破顔した。
「当初はもちろん同行させていたのですが、『いらない』と言われてしまいまして。町を歩くうちに知り合いも増えたので心配しなくて大丈夫、とのことです。なので今は旦那様のご命令で、遠くから警護させています」
 娘の意思を尊重しつつ、保護者として配慮した結果だ。ノーアは足を悪くしているが、ゆっくりであれば杖がなくても歩ける。頻繁に外出しているのは、よほどグランポートの空気が合っていたのだろう。
 コーデリアは心底安堵した様子で微笑する。
「なら、わたしもそちらに行ってみようかしら……。このお屋敷にはまた改めて訪問しますね。ノーアが無事で良かったです。早とちりをしてしまい、失礼しました」
「いえ。お気遣いありがとうございます、コーデリア様」
 用件はあっさりと済み、供された冷茶を半分ほど残しての退場となった。
 ジルに見送られて玄関を出ると、潮風が軽やかに吹き渡った。再会したリンデの頭をなでたハンイットが、ふと別荘を振り返る。
「あの執事の人は、ヒースコートさんより優しそうだったな」
 確かにレイヴァース家の執事は手厳しい印象が強い。竜石目当てに忍び込んだテリオンを捕らえたのは他ならぬ彼だった。コーデリアはくすくす笑った。
「あのジルさんは、ノーアに近づく男性を積極的に排除しているんですよ。わたしも男性だったら警戒されていたでしょうね」
「えっ! そうは見えなかったわ……意外ね」
 トレサがむうと顔をしかめた。その横でプリムロゼがそっとサイラスに肩を寄せる。
「ヒースコートさんもそのくらいやってそうじゃない?」
「ふふ、そうだね」
 笑いの衝動がこみ上げる。テリオンは盗みの腕前だけでなく、そういった意味でもヒースコートのお眼鏡にかなったのだろう。
 別荘の庭先を抜けて閑散とした大通りに戻ったところで、コーデリアが申し訳なさそうに頭を下げた。
「みなさん、わたしの杞憂でご迷惑をおかけしました」
「そんなことないわよ。ノーアが元気そうでよかったわ!」
 トレサが朗らかに答え、つられてコーデリアも笑みをつくった。
「本当にそうですね。わたしはこれから露店街でノーアを探してみます」
「それならサイラスも連れて行ったらどうだ」
 突然ハンイットに肩を叩かれた。サイラスはぎょっとして狩人の整った横顔を見つめる。
「ええと……ハンイット君、どうしてそんな提案を?」
「人探しならサイラスが役に立てるだろう。それに、別荘で話を聞いている時のあなたは『手紙の謎が気になって仕方ない』という顔をしていたぞ」
 指摘され、思わずほおに手をやった。まったく意識していなかった。仲間が奇妙な視線を向けてきたのは、好奇心が外に漏れていたからか。
「しかし、これから買い物が……」
 サイラスが言い淀むと、トレサが自信満々で胸を張る。
「そんなのあたしたちでやっておくわよ! メモの通りに買うだけでしょ?」
「荷物持ちはわたしがいれば十分だろう」
 ハンイットが片手を上げてこぶしを握ってみせた。彼女との腕力の差を考えると、サイラスは反論できなかった。
「わ、わたしは一人で大丈夫ですから……」コーデリアが遠慮したように顔の前で手を振るが、
「あの露店市場、なかなか面倒な場所よ。狭いから護衛が多いと動きづらいし、人探しにはコツがいるわ。いいから連れていきなさい」
 プリムロゼがサイラスの肩を掴んでやや強めに押し出した。彼は「おっと」とよろけ、コーデリアの隣に並ぶ。
「サイラスさん……ご案内をお願いしてもよろしいですか?」
 当主の申し出にサイラスは表情を緩めてうなずき、仲間たちを振り返った。
「すまないが、買い物は任せたよ」
「ノーアによろしくね。あたしも後で挨拶に行くわ!」
「露店街にはテリオンがいるから探すといいわよ、コーデリアさん」
 トレサが勢いよく手を振り、プリムロゼがいたずらっぽく片目をつむる。コーデリアははぴくりと肩を揺らして「は、はいっ」と答えた。
 商店街に戻る三人の背を見送り、サイラスたちはどちらともなく反対方向――露店の並ぶ市場へつま先を向ける。レイヴァース家の護衛は一定の距離をとって後ろからついてくるようだ。
 歩きながら、コーデリアが不思議そうに言った。
「あの……サイラスさん、そんなに郵便事故のことが気になりますか?」
「そういう性分なんです。みんなにもすっかり知れ渡ってしまったようですね」
 サイラスはほおを掻いて苦笑した。
「この際だから郵便事故の件はきちんと調べておきましょう。ノーアさんの手紙に何か個人的な秘密でも書かれていたら、紛失するのは大変なことですから」
「あっ……その可能性は考えていませんでした」
 コーデリアは何度か目を瞬いた。
 ノーアが事故の件を家族や執事に黙っていたのは、手紙の内容に問題があったからだろうか。もしくは単に、自分の選んだ運び屋が失敗したことが気恥ずかしかったからかもしれない。どちらであれ本人に尋ねたら判明するだろう。
 サイラスは今回の郵便事故に関して奇妙な違和感を覚えていた。この「謎」の気配は放っておけない。
 二人は露店街にやってきた。木で組まれた屋台や、むしろを広げただけの露店が細い通りに所狭しと並んでいる。商人たちは、彼らを取りまとめる「グランポート商人協会」に許可をもらってそれぞれの場所を占有しているそうだ。売り物は装備品だけでなく美術品、精霊石から調理器具まで、実に様々である。たとえば薬の素材を買う際、大量に流通している種類のものが目当てなら道具屋に行けばいいが、少し珍しい材料を求める時はここを見るべきだろう。
 晴れた日なので客の数が多く、市場はよくにぎわっていた。これだけ商品が溢れていると、買いたいものが決まっていなくても露店を流し見ているうちに購買意欲が湧いてくるものだ。サイラスは偶然見つけた古書店に目移りしそうになったが、今は人を探しているのだと自分に言い聞かせて視線を外した。
「そういえば、みなさんの旅はどのような調子ですか?」
 コーデリアが通行人に目を走らせながら尋ねる。サイラスは表情を変えずに答えた。
「そろそろレイヴァース家に竜石をお借りしに行く頃合いだと思います」
 それだけで言いたいことが伝わったのだろう、コーデリアは手のひらを胸にあてる。
「そうですか。……お気をつけてくださいね」
「はい。もしかして、テリオンのことが心配ですか?」
 尋ねると、コーデリアはぽかんとした。
「え? いえ、あまりそのようなことは……だって、テリオンさんには仲間のみなさんがついていますから」
 彼女は花開くように顔をほころばせた。そこに宿るのは無条件の信頼だ。
「期待に応えられるよう、努力します」
 サイラスは思わず背筋を伸ばして宣言してから、ふと破顔した。
「実は、私は生徒に旅の行く末を心配されていまして……どう手紙を返せばいいのか迷っているのです。それでつい、コーデリアさんにも質問してしまいました」
「まあ。生徒さんは女性の方ですか?」
「え、はい」
 コーデリアはテレーズの存在を知らないはずだが、どうして分かったのだろう。サイラスが目を丸くしていると、彼女は続けた。
「例えばその生徒さんにも『自分には仲間がついているから大丈夫だ』とおっしゃるのはどうでしょう」
「しかし、私は仲間にも心配をかけている始末で……」
「というのは?」
 聞き返され、サイラスははっとした。昨晩の野営地におけるアーフェンの忠告を思い出したのだ。念頭にあったのはテリオンのことだが、あれはコーデリアに話さない方が良いのではないか。
 らしくもなくサイラスが逡巡していると――突然、街角でボンという破裂音がした。
「きゃっ!?」
 コーデリアが頭を抱えて悲鳴を上げ、周囲の人々がざわめいた。サイラスはとっさにローブを広げて彼女をかばいながら、音の方角を見る。
「なんだなんだ」「うわ、煙だ!」
 誰かが指差す先で、露店の隙間から真っ白な煙が立ち上っていた。折しも風は真正面からこちらに吹き付け、みるみる白い壁が迫ってくる。
「火事だ!」
 どこかから叫びが上がって、通りはいっそう騒然とした。前方の人々は逃げるように動きはじめるが、煙の方がはるかに速く、露店が次々と呑み込まれていく。
「コーデリアさん、こちらへ」
 視界が白く染まりゆく中、サイラスは後ろにいたレイヴァース家の護衛に当主を引き渡し、露店街の出入口まで避難した。そこでは難を逃れた人々が呆然としていた。ここまでは煙も届かないらしい。たまたまサイラスたちは発生源から離れた場所にいて、退避の判断も早かったおかげで混乱に巻き込まれずに済んだ。
「一体何が起こったのでしょう……」
 コーデリアが露店街の中心を不安げに見つめる。視界は悪くなる一方だった。火の手が見えないことと煙の色からすると、火事ではなさそうだが。
 その時、サイラスはある閃きを得る。
(あそこにはノーアさんやテリオンたちがいるかもしれない)
 もしや煙に巻き込まれているのではないか。そう思うと居ても立ってもいられず、彼は石畳を靴で蹴った。
「私が原因を調べてきます」
「サイラスさん!?」
 驚くコーデリアに背を向け、口を手で覆って姿勢を低くしてから、避難する人々と逆行してまっすぐ露店街に再突入する。
 煙の中では巻き込まれた人々がむせていた。だが被害はそれだけで、倒れている者はいない。つまり有害な煙ではないということだ。
 煙の発生原因は何だろう。火事でないとすると、露店で扱っていた薬品が偶然反応を起こしたのか。それ以外に考えられるのは――誰かが故意に起こした可能性だ。白昼堂々の犯行にしては、いささか派手すぎるが。
 その時、不穏な声がサイラスの鼓膜を叩いた。
「やっと見つけたぜ。そのままおとなしくしてろよ」
 舌なめずりをしているような、どろりと濁った声だった。サイラスは薄れてきた煙をかき分けて声の主を探した。聞こえたのは表通りから分岐する路地の方角からだ。躊躇なく足を運べば、もやの中に人影が見えた。
 黒っぽいフードをかぶった男が、仕立ての良い服を着た別の人物に刃物を突きつけている。サイラスは息を呑んだ。
「ノーアさん!」
 ナイフを向けられ声もなく震えているのは、探していた大富豪の娘だった。執事のつけた護衛は煙で撒かれたのだろう。彼女は驚愕の面持ちでサイラスを見据える。
「あなたは確か、トレサの……!」
 きちんと自己紹介したことはなかったが、彼女は顔を覚えていたようだ。
 だが名乗っている暇はなかった。体を反転させた男が、ナイフでこちらに斬りかかってくる。サイラスは冷静に片足を半歩下げた。
 旅に出るまでただの学者だった彼は、はっきり言って近接戦闘が不得意だ。なので魔法で処理したいところだが、町中での使用は避けるべきだろう。こういう時こそ、仲間たちから教わった護身術の出番だ。
 サイラスは杖を取り出して体の前にかざす。柄にナイフがぶつかり、杖を持つ手首に衝撃が伝わったが、なんとか踏ん張った。フードの男が再び攻撃に移る前に、もう片方の手で鞄から小瓶を取り出す。
「ノーアさん、息を止めて!」
 叫びながら瓶の蓋を開け、男に投げつけた。
 それは昨晩アーフェンが調合した薬のひとつだ。空気と反応して薬品が揮発すると、吸った者の神経を麻痺させて動きを止められるという。もちろん誤って自分で吸った時のための治療薬も用意していた。
 薬品を浴びた男は咳き込み、明らかに動きが鈍った。すかさずサイラスは男の腕を杖で打つ。物騒な刃物が落ちたので、蹴って遠くに弾いた。
「な、何をした……」
 男はうめきながら膝を折って地面にうずくまった。サイラスはそれに答えず、へたり込んだノーアに駆け寄る。
「私は学者のサイラスと申します。ひとまずこの場を離れましょう」
 彼女の肩に手を回そうとした時、ノーアが顔色を変えて叫ぶ。
「サイラスさん!」
 背後から迫る何者かの足音を耳が拾った。瞬時に判断してノーアを突き飛ばした直後、どん、と強い衝撃を受けた。
「うっ……!?」
 腰の後ろに鮮烈な痛みが広がる。人がぶつかってきたのだ。その拍子にぐっと体に押し込まれたそれは、短剣だった。サイラスは自分の血に濡れた刃物を呆然と見下ろす。
(刺されたのか……!)
 背後に立つ犯人が武器を引き抜いた。その反動でサイラスはがくりと石畳に膝をついた。歯を食いしばって苦痛をこらえる。傷口が熱を持ち、心臓の動きと連動して血が流れ出すのが分かった。
 ノーアが何か叫んでいるがよく聞こえない。自分の心音ばかりがうるさく響き、視界はどんどん狭まっていく。
 痛みに耐える彼を無感情に見下ろすのは、見覚えのある髪の短い女だった。彼女は眉をひそめる。
「ん? こいつどこかで……」
「エスメラルダ様!」
 男が歓喜の声を上げる。それは黒曜会の幹部の名だ。何故彼女がここに? 以前グランポートで衛兵に捕まったはずでは。まさか牢から抜け出したのか――
 サイラスは急激に迫る眠気に抗えず、まぶたをおろした。

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