明日に贈る組曲



 まず耳に入るのは、ピチチ……という小鳥のさえずりだ。同時に低い鐘の音が鳴り響き、コッコの朝一番が澄んだ空気を切り裂く。何度も繰り返した「一日目」の開幕である。
 リンクはいつものように無意識に時計塔の扉から出てきて、立ち止まった。
「ほら、『時の逆さ歌』吹かなくていいの?」
 チャットに急かされて、やっと気づいたようにオカリナを取り出す。普段はすぐさま吹いていたのだが。
 逆さ歌が空気に染みこむと、地面がゆらりと揺れるような感覚とともに、時間の流れが遅くなる。
「とりあえず脱出してきたけど、これからどうする?」チャットはすでに、先ほどの失敗から気持ちをリセットしていた。このくらいの心持ちでないと、刻のカーニバル前の三日を延々繰り返す生活なんて、やっていられないのだ。
「もう四方の巨人も解放したわけだし……そろそろ、うちの弟を助けに行ってもいいわよね」
 そこで言葉を切る。リンクは答えず、ただ突っ立っていた。チャットは乱暴に羽ばたいて相棒の目の前に出る。
「お〜い! 時間がない時間がないって、いつもアンタが言ってることでしょっ」
 彼はぼそりとつぶやく。
「お金」
「え?」
「さっき銀行に預けてくるの、忘れたから。適当なゲームでお金稼ぐ」
 時を遡った影響で、サイフの中身はすっからかんだった。いつもは時の歌を吹く前に全財産をクロックタウン銀行に預けていたのだが。
 なので、路銀を稼ぎに行くのは確かに筋の通った行動であるが、チャットには現実逃避に思えて仕方ない。実際それを裏付けるように、リンクはふらふら怪しい足取りで歩いて行く。
 すると——
「うわ」「っ!」
 洗濯場の方から階段を降りてきた人物と、勢いよくぶつかってしまった。持ち前の運動神経でリンクは体勢を立て直したが、相手は尻餅をつく。
 地面に伏したのは、キータンのお面をかぶった、紫の髪の少年だった。
「カーフェイ……」チャットがリンクにだけ聞こえる声で言った。
 ついさっきまで、彼とリンクは協力してサコンのアジトを攻略しようとしていた。しかし時間をリセットしたため、もうカーフェイにその記憶はない。彼はリンクに目もくれず、走り去った。
「アイツ、どうしたのかしら」
 この時間に見かけたのは初めてだった。今まで、朝の南広場にあまり長くとどまったことがなかったため、知らなかったのだ。
「この時間から活動してたんだな」リンクは反射的にボンバーズ団員手帳を取り出し、メモの用意をする。もはや職業病だ。足は自然と、適度な距離をとってカーフェイの後をつけている。
 カーフェイは周りを気にしながら広場のポストに近寄り、懐から出した手紙を投函した。リンクははっとした。
「あれが午後、アンジュさんに届く手紙だ……!」
 この手紙をポストマンがナベかま亭に配達する。そのためアンジュは今日の深夜、リンクに「返事を代わりに投函してください」と頼むのだ。チャットも感心したような声を出した。
「へーこういうことだったんだ。どうする。カーフェイ、追いかける?」
「いや。……だって、がんばっても結局、失敗するんだし」
 思わず後ろ向きな発言をしてしまい、リンクは口をつぐむ。
 全く、あんな結末を自分にどうしろというのか——リンクは誰でもいいから問いつめたかった。団員手帳に記した行動記録も、まるきり無駄になってしまったではないか。
 彼はカーフェイに背を向けて、クロックタウンの北を目指した。
 それから。リンクは宣言通り、路銀稼ぎのために町のプレイスポットを一巡したが、成果はほとんどなかった。彼が著しく集中力を欠いたためだ。
 デクナッツのプレイスポットから出てきたリンクは、デクナッツの仮面を外し、盛大に息を吐く。
 チャットは笑いをこらえたようにぷるぷる震えた。
「まさか、アンタがデク花から落っこちるとはね……!」
「うるさい」
 リンクは恥ずかしそうに耳を赤く染めた。一番楽勝と思われた一日目のゲームで、動く足場を踏み外したのだ。他にも宝箱屋、ハニーとダーリンの店、射的場など様々なゲームを一通り遊んだが、ろくに賞金は稼げなかった。
 リンクは肩をすくめて、針路を変更した。
「あれ、もうやめるの」
「ちょっと休む……」
 疲れた。体がだるい。こういう時はベッドでぐっすり眠るに限る。「リンク」という名前で部屋をとっているゴロンには悪いが、彼より早くナベかま亭にチェックインすることにした。
 首尾よく手に入れたナイフの間で、装備を放り出しベッドに横たわる。チャットがやれやれといったように羽ばたいた。
「怠惰な一日もたまにはいいかもしれないけど、ちゃんと立ち直ってよね?」
「別に、落ち込んでなんかないし……」
 チャットはこっそり苦笑する。何事も順序よくこなす完璧主義のリンクが、初めての敗北を迎えて大きなショックを受けていることは、もはや火を見るよりも明らかだった。
 夕食も取らずに眠って、翌日。彼はなんと昼過ぎに起き出してきた。いくら体がだるいとはいえ、気をゆるめすぎだ。どうやら本来リンクは寝坊助の気があるらしい、とチャットは長い長い三日間の付き合いの中で、気づいていた。
「おはよ。ずいぶんぐっすり寝てたわね!」
「……おはよう。って、もう昼なんだ」
 厨房でお昼の残り物をもらい、部屋で食べる。外は雨だ。踊りの振り付けに迷ったローザ姉妹が、廊下をうろうろする音が聞こえる。
「いくらなんでも、もう疲れはとれたでしょ? あと一日半しかないわよ。今日はどうするのよ」
 チャットが急かした。たくさん寝てすっきりしたのか、リンクの顔に昨日の暗い影はない。雑穀の入ったスープをすくい、のんきにスプーンをくわえる。
「ね、さっきフロントのぞいたけど、アンジュさんいなかったよね」
 カーフェイの婚約者であるアンジュは、ナベかま亭の看板娘でもあるのだ。
「そういえば……いなかったかも」正直ちゃんと確認していなかったチャットである。
「さがしに行ってみようかな」
 リンクは窓の外に目を向ける。今日も、弟の奪還につながる建設的な行動は期待できそうにない。チャットはふうっとため息をついたようだ。
 傘も持たずに、リンクは雨の中をふらりと出かけた。普段から雪山やらマグマ地帯やら深海やらに突撃しているので、多少雨に濡れようが全く気にならなかった。一日目よりも明らかに人が減り、静かになった町の中を、のんびり回遊する。
 チャットは羽が濡れるのを厭うようにリンクの帽子に隠れていたが、そこからしっかり外を確認していたようで、不意に声を上げた。
「あ、いたわよアンジュさん」
「どこ?」リンクが首を回した。
「今洗濯場に入っていくところ」
 南広場から路地に消えていく、深緑のスカートが見えた。ちょうど昨日の朝、カーフェイとぶつかったあたりである。
 リンクはどきりとした。洗濯場は、子どもの姿になったカーフェイが身をひそめている場所だ。
 アンジュは濡れたベンチにハンカチをしいて、その上に腰掛けた。もちろん傘をさしたまま。そこまでして、ここに留まりたいのだろうか。
 無言でリンクが歩み寄ると、彼女は顔を上げた。
「ああ、お客さん」とはかなげな笑みを浮かべる。
(前の三日目、この人はどんな気持ちでカーフェイを待ってたんだろう……)
 不意にそんな疑問が頭に浮かび、リンクは思いもかけないほど動揺した。
 黙ってしまった彼を置いて、チャットが帽子から飛び出し、アンジュに話しかける。
「アンジュさん、なんだか悩みのありそうな顔ね」
「すみません。ええと、このあたりで男の人を見かけませんでしたか? こんな人なんですけど……」
 彼女はいきなり、カーフェイの顔をかたどったお面を取り出して、自分の顔の前にかざした。リンクはぎょっとする。それは、カーフェイの母である町長夫人が息子をさがすために作らせたものだ。
 アンジュは辛そうに目を伏せた。
「彼……ひと月ほど前から、婚礼の面を持ったまま行方が分からないんです」
「それは、不安よね」
 アンジュは手紙を握っていた。昨日の朝、カーフェイがポストに投函したものだ。
 そこには「カーニバルの朝に迎えに行くから、信じて待っていてくれ」と書かれているはずだ。リンクは唇を閉ざして彼女をじっと見つめた。
「私、ホントは……彼に会うのが怖いんです」そっと目元をおさえるアンジュ。「姿を見せない理由を聞くことが、怖いんです。ひょっとして、私のコト……」
 声が震えていた。顔をうつむける。膝にぽつりと一滴落ちたのは、雨粒ではない。
「カーニバルまであと、二日。待ってていいの? カーフェイ……」
 そうか。当たり前のことなのに、リンクは分かっていなかった。何度時を繰り返しても、「彼ら」にとっては喜びも悲しみも、いつも色褪せることのない新鮮な感情なのだ、ということが。
 ——アンジュたちの行動を調べて団員手帳に記入するうちに、リンクはどんどん冷静かつ、客観的になっていった。時の繰り返しに気づかない人々の悲喜こもごもを、すべて自分の感情から切り離して考えるようになった。だから真正面からぶつけられるまで、アンジュの抱えた不安を、本当の意味では知らなかったのだ。
 すすり泣くアンジュをその場に残し、リンクはきびすを返す。決意に満ちた足取りだった。
「ちょ、ちょっといいの!?」
 慌てて追いかけてきたチャットが横に並ぶのを確認して、彼はきっぱり宣言する。
「カーフェイに伝えに行く」
「何を?」
「アンジュさんの気持ち。だってアイツ、こんなにあの人が不安がってるなんて知らないでしょ。それなのに焦りまくって、挙句の果てにお面奪還に失敗するとか、最悪だ」
 リンクは珍しく、強烈な衝動に突き動かされていた。降りそそぐ雨の中を白熱した視線が切り裂く。チャットは「面白くなってきた」と声を弾ませ、
「でもどうするのよ。アンジュさん、このままだと牧場に避難するわよ」
 彼女の指摘の通りだった。すでに、リンクの完璧な手帳に記されたステップは、いくつか飛ばしてしまっていた。
「一日目 十四時十分 ナベかま亭ロビー
 ポストマンがアンジュさんに手紙を届ける
 夜にアンジュさんとナベかま亭で会う約束をする」
「一日目 零時零分 ナベかま亭厨房
 アンジュさんに手紙の投函を頼まれる」
「二日目 十五時十分 洗濯場
 カーフェイが手紙を受け取りに現れる
 その後部屋に侵入して会話
 思い出のペンダントをもらう(要アンジュさんへ受け渡し)」
 このあたりがすっぽり抜けてしまっている。特にカーフェイから返答として「思い出のペンダント」を受けとらないと、アンジュは不安に押しつぶされて、月の迫るクロックタウンから避難してしまうのだ。
 そうなれば、カーフェイが無事に太陽のお面を取り戻せたとしても、帰るべき場所がなくなる。
 リンクは目を閉じ、考えこんだ。前髪から雨粒がしたたり落ちる。——やがて、きらりと光るような笑みを浮かべた。
「そうだ。カーフェイから思い出のペンダントを奪えばいいんだっ」
「へ」
「それをアンジュさんに見せたら、きっと町に残ってくれるでしょ」
 リンクは不穏なことを言って、カーフェイのひそむマニ屋の裏部屋に侵入する方法を思案しはじめた。
 チャットはそんな彼を頼もしく思いつつも、呆れてしまう。
「なんかダメな方向に走ってる気がするわ……」



 リンクはすぐに、カーフェイをおびき出すためのあくどい作戦を立案した。以前、イカーナ村でパメラという少女相手に使った方法をアレンジすることにしたのだ。策士と呼ぶべき才能だが、彼は完全に悪用している。
 洗濯場に流れる細い川を渡ると、突き当たりにツタの絡まった石壁が続いている。まずそこに、バクダンをしかけた。大きな音とともに壁を少しだけ壊す。幸いにも雨で火薬が湿気っているため、大した被害は出ない。そして、驚いたカーフェイが外に出た隙に、石ころのお面を使って屋内に侵入するという寸法だ。
 果たして、作戦は成功した。それはそうだ、誰でも自分の家の近くで爆発があれば、びっくりして飛び出すだろう。リンクは首尾よくマニ屋の裏部屋に滑りこんだ。「前回の二日目」にも訪れたので、間取りは知っている。彼はベッドに腰掛けて、カーフェイの帰りを待った。
 不思議そうに頭を掻きながらドアを開けたカーフェイは、途端に見知らぬ人物を見つけて立ち尽くす。
「オマエは誰だ!?」
 リンクは他人の家だというのにすっかりくつろいだ様子で、にっこりしながら腰を上げた。
「ボクはリンク。キミに、アンジュさんからの言付けを伝えに来たんだ」
「どうしてアンジュのことを……というか、オマエ、ボクのことを知ってるのか」
 カーフェイは警戒したように眉をひそめる。急いで外に出たせいか、キータンのお面をつけるのを忘れていたようだ。不安そうに、机の上に置かれたお面をちらりと見る。
 リンクはその質問にあえて答えず、逆に畳みかけた。
「彼女、キミのことをめちゃくちゃ心配してる。その上、とてつもなく不安なんだ。婚礼のお面がなくて、キミが直接会えないことは分かるけど……思い出の品とかを渡して、アンジュさんを安心させてあげられないかな」
 唐突に登場してぽんぽん話を進めるリンクを、カーフェイはいかにも怪しく思っているようだ。「このままじゃ説得なんて無理よ」とチャットがささやく。リンクはもう一歩前に出て、声色を和らげた。
「キミの焦りは理解している。でも、もっと彼女を信じないか。一ヶ月も音信不通だったのに、あの人はキミのことを見捨てないでくれてるんだよ」
「アンジュを、信じる……」
 盗まれた婚礼の面は、カーフェイに強迫観念すら抱かせているようだ。あれがなければアンジュには絶対会えない、と思い込んでいるのだろう。しかし、一目でいいから、婚約者に無事な顔を見せることも大切なのではないか。アンジュはきっと、子供の姿のカーフェイだって受け入れてくれるはずだ。
 カーフェイはリンクの真剣な雰囲気に飲まれ、わずかでも心を動かされたようだった。腕組みをして考えこむ。それから決心したように視線を鋭くし、身につけていた首飾りを外す。
「このペンダントを……彼女に見せてくれ」
 やるじゃない、とチャットが小さく歓声を上げる。リンクはにこっと笑った。
「任された!」



 すでに太陽は山の向こうに消えたというのに、空は妙に明るく、赤く色づいている。顔のある月が地表ぎりぎりまで近づいた「三日目」である。
 リンクはサコンのアジトに「三日」ぶりにやってきた。午後七時——そろそろサコンが戻ってくる。リンクは団員手帳を閉じて、隣のカーフェイに話しかけた。
「アジトの中にはきっと何かしかけがあるはずだ。気をつけてね」
 あまり怪しまれない程度に、情報を小出しにしていく。突然話しかけられたカーフェイはびくっと体を震わせた。
「ああ……ありがとう」
 肩に力が入っていたことに思い当たったらしく、彼は少し息を吐いた。幾分かリラックスしてくれたようだ。
 しかし、いよいよサコンがやってくると、カーフェイはリンクには目もくれず、顔をこわばらせて走っていく。
「今度は失敗しない。チャット、カーフェイのことよろしくね」
「もちろんよ」
 二人は事前に立てた作戦通りに、二手に分かれる。
 前と同じようにカーフェイがスイッチを踏み、太陽のお面がはるか先の回収穴へと動き出して——アジト攻略がはじまった。あらかじめ、チャットにはブロックパズルのコツを教えている。あとはカーフェイが素直に聞き入れるだけだ。
 リンクは金剛の剣を振るい、襲い来る魔物をこの上なくスムーズに倒しながら、前回のことを振り返っていた。
 あの失敗は、自分に何の責任もなかったわけではない。あれはある意味リンクが引き起こしたことだ。アンジュの不安も、カーフェイの焦りも、彼がまるで理解しようとしなかったことが原因だった。
 自分は時を操ることができるから、と傲慢になっていた。タルミナで「一度きりしかない」三日間を生きる人々を、ないがしろにしていたのだ。
(そんなのじゃ、失敗するのも当たり前だ)
 今回、カーフェイはチャットの助言を聞きながら、慎重に歩みを進めているようだ。
 何故なら、ここで失敗したらアンジュを安心させてやることができないから。彼女のもとに帰るという未来をはっきり見据えているからこそ、カーフェイは熱くなりつつも冷静さを忘れずにいられるのだ。
「これで最後……!」
 爪攻撃を空振ったウルフォスの背中に回りこみ、弱点の尾を切り飛ばす。魔物の断末魔が轟き、最後の扉が開いた。リンクは早足で駆けこんだ。
 隣の部屋から出てきたカーフェイが、すぐさま終点のスイッチを踏む。サコンがお面を回収するために開けていた穴が、ぴったり塞がった。本来の持ち主のもとに、太陽のお面が戻ったのだ。
 カーフェイは震える手でお面を持ち、顔の前にかざす。大人用のサイズなので今の彼には大きすぎる。彼ははっとして、ゆるみかけた表情を引き締めた。
「まだ間に合う! 町へ行かなきゃ!」
 お面を大事にしまいこみ、カーフェイは一目散にアジトを逆走していった。
 チャットは呆れたようにつぶやく。
「結局、焦ってるんじゃないの……」
「ま、移動手段が徒歩しかないからね。急ぐのも仕方ない」
 リンクは余裕しゃくしゃくで時のオカリナを構える。もちろん、大翼の歌で先回りするのだ。
 胸には心地よい達成感が満ちていた。



 午前零時を過ぎたナベかま亭では、アンジュがひとり、従業員室のベッドに腰掛けていた。
 何度も時を繰り返してきたリンクだが、この時間帯を経験したことはあまりない。いつも、それより前に時を巻き戻してしまうからだ。月がほとんど目と鼻の先まで迫っている、世界の終末のど真ん中。普通の精神では、こんな場所に一分だっていられないだろう。それでも、アンジュはひたすら婚約者を待っていた。思い出のペンダントを大切そうに握りしめて。
 部屋の真ん中には、木でできた簡素な人形がある。真っ白い婚礼の衣裳をまとい、顔の部分には「月のお面」がかぶせられていた。太陽のお面と二つで一組の、婚礼のお面だ。
 リンクはわざと足音をたてた。アンジュがおもてを上げる。
「ああ、あなたは……。こんな時まで来てくださるなんて」
 時折床が揺れるのに、不思議なほどあたりは静かな雰囲気に包まれていた。
「アンジュさんが、心配になったから」
 と答えると、彼女は目を丸くしてから、まぶたを伏せる。
「私、待つことにしました」
 沈黙が流れた。また建物が、いや大地全体が震える。大きな質量を持つものが近づいてきている。
「カーフェイったら、早く来なさいよ……!」
 チャットがイライラを隠しきれなくなった時、階下を軽やかな足音が駆け抜けた。次いで、その音は階段を猛スピードで上がってくる。
 最後に、ガチャリと扉が開いた。
 肩で息をしながら入ってきたのは、リンクと同じくらいの背丈の子どもだ。だが、彼こそがアンジュの婚約者であった。
 大人のアンジュの高めの視線と、子どものカーフェイの低い視線が、絡まりあった。
 アンジュはすっと立ち上がった。人形から月のお面をはずして、カーフェイと目を合わせるように、両膝を床につく。
「私、あなたに会ったことがあるわ」
 カーフェイが息を呑む。
「懐かしい匂いがする。遠い昔……そう、まだ小さかった頃、私たちは約束したわね。月と太陽のお面を、刻のカーニバルの日に交わそうって。結婚しよう、って。嬉しかった……」
 彼女はやわらかく目を細めながら、ポロポロと涙をこぼす。カーフェイは、間違いなく婚約者として、その肩を優しく抱いた。
「アンジュ。遅れてごめん」
「お帰りなさい」
 二人はひしと抱き合った。
 チャットがリンクの耳に寄ってきて、「恋人同士なのに、まるで親子みたい」と茶化す。リンクは照れたように口をつぐみ、ちょっと目をそらした。今や、彼らは完全に邪魔者だった。
 二人は改めて向い合い、太陽と月のお面を正面から重ね合わせた。
「約束のお面を交わそう」
 その時、不思議なことが起きた。二人の手の先からまばゆい光が放たれたのだ。視界が回復すると、残ったお面はひとつきりだった。それも、まったく新しいデザインのお面だ。白くつるりとした表面に、手を取り合う男女の姿を単純化したような模様が描かれている。
 二人は、新たなお面をリンクに差し出した。
「ボクらは誓いを交わし、めおとになった」
「アナタたちは証人よ。このお面を受け取ってください」
 リンクはほとんど初めて、アンジュとカーフェイの笑顔を見た。この時胸に湧き上がってきた歓喜は、月の接近すら頭の中から吹っ飛ばしてしまった。
(これで、良かったんだな……)
 彼は確かな達成感を得ていた。長い苦労の日々もやっと報われたのだと、そう思っていた——アンジュがこう告げるまでは。
「アナタたちは逃げてください。私たちは、もう大丈夫です。明日を……二人一緒で迎えられるんですもの」
 リンクはまばたきする。足元が崩れていくような感覚があった。
(逃げてって——え?)
 相変わらず、夫婦の二人は悟ったような笑みを浮かべている。
(その明日っていうのは、まさか……)
 チャットが満足気に言った。
「やっと終わったわね。まだ間に合うわ、これから時計塔に行って——って、ちょっと!?」
 リンクは問答無用でオカリナを取り出した。チャットの制止も振り切り、奏でるのは時の歌だ。
 二人は、未来を諦めたのか。終わりを受け入れてしまったのか。再会を渇望していたのは、ともに生きるためではなく死ぬためだったのか。今まで散々不安にも焦りにも耐えて、やっと再会できたのに——そんなの、おかしい。
(最後にあんな顔するなんて……)
 死を覚悟した末の二人の表情は、とても安らかだった。
 リンクは月の落下を回避するために冒険していた。なのに、あの状況で二人に満足されてしまった。納得されてしまった。
 三日を繰り返して人々を救ってきたのは、一体何のためだったのだろう。
 その時受けたのは、動機から目的まで、すべてが揺らいでしまうほどの衝撃だったのだ。

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