第二章 つながりとまじわり



 今度この夢を見たら自分の姿を確認してやろう、と前から考えていた。
 クロスは両手を顔の前にかざす。が、何も見えない。夢の中では全身が透明になっているらしい。どれだけ目の前を歩いても誰からも感知されないので「そうではないか」と疑っていたが、やはりこういうことだったのか。
 そしてこの夢は、時計屋敷で過去にあった出来事を再現しているようだ。夢に出るほど恋しい場所なのは確かだが、どうせならもっと最近の姿を映し出してほしい。別の所有者がいた頃の屋敷に興味はない。
 この夢は、シークに「きょうだいがいる」と告げられた時から急に見るようになった。
(昔のことを思い出そうとしているから……?)
 マリエルに指摘されたように、あえて自身の記憶を封じ込めていたことは否定できない。記憶の糸をたどっても、ろくでもない過去しか引き寄せられないのだから、そうするのが当然だと思っていた。
 しかし、クロスには「思い出さなければいけないこと」がある。きっとそこにシークの手がかりがある。
 今は玄関ホールにいた。絨毯も手入れが行き届き、調度品はピカピカに磨かれていた。手間とお金をかけて整備していることがひと目で分かる。
 クロスは大股でのしのしホールを突っ切った。そのまま中庭に出る。
 ざっと庭を見回して、下生えが短く切りそろえられていることに驚いた。中庭には例の扉に向かってまっすぐ石畳が敷いてあり、それ以外の部分は土が露出している。現在はクロスが手入れを完全に放棄しているせいで草が伸び放題だったが、過去の姿はこの通り違ったようだ。
 ふと「あの花がない」と思った。繁茂する草の中心には、いつも鮮やかな黄色の花があった。夢に色がないせいで見つからないのだろうか。だがよく目を凝らしても結果は同じだった。見慣れすぎていて普段は全く存在を気にしていなかったが、ないと妙に気になるものだ。
 クロスは庭の観察をやめて顔を上げる。そこには、草よりもよほど注目すべき存在が立っていた。
 濃い色の髪を無造作になびかせた男。こちらに背中を向け、例の閉ざされた扉を見ている。クロスは歩み寄りながら「妙に背が高いな」と場違いなことを考える。その容姿から、いなくなった父親であることが知れた。
 その横には、幼い頃のクロスと思しき少女が寄り添っている。十年以上前のはずなのに、ほとんど身長が変わっていない。この頃からあまり成長しなかったらしい。
「お父様」
 と、小さなクロスが袖を引いた。そんな大層な呼び方をすべき相手なのか、と今のクロスは顔をしかめ、回り込んで父親の顔を確認する。
 彫りの深い顔立ち。どこかで見た覚えがある——のは当然だけれど、それにしてもごく最近、現実でこの顔と非常に近いものと対峙した気がする。
 小さなクロスは閉まった扉を見つめ、声をうわずらせた。
「この扉が開けば、あの人が来てくれるのね」
 もしや、過去の二人は扉の先にあるものを知っていたのか。
 子どもはそわそわした様子で扉と男を何度も見比べ、父親も静かな期待を前に向けている。
 それはクロスには馴染みのない感覚だった。
(だって、私はそんなに誰かを待ち焦がれたことなんて——あれ?)
 自分の考えに違和感を覚えた瞬間、夢のあぶくは弾けた。



 茶と白のまだら模様をした猫が、金貨の上をのそりのそりと移動してくる。クロスは片手を伸ばして丸い背をなでてやった。ゲンゴロウの鋭い瞳がやわらぎ、ごろごろと喉を鳴らす。
「とりあえず、動けるようになったんですね」
 彼女は趣味の悪い椅子に座るジョバンニを眺めた。
 肌は未だに金色で目も宝石のままだが、その体はなめらかに動いていた。まるでよくできた人形のようだ。
 一方、ジョバンニの頭に乗ったまま黄金と化していた飼い猫のゲンゴロウは、完全に元の姿を取り戻している。
「うん、でもこれじゃまだカノジョには会えないや……」
 黄金像の状態で外を歩くのは難しいだろう。現在ジョバンニは失踪中の扱いである。せっかくの恋人にもそのうち愛想を尽かされてしまうのではないか、と他人事ながらクロスも心配になる。
「それにしても、どうして体だけが戻ったのですか」と、彼女は何も知らないふりをして尋ねた。
「実は、あの後たまたまここに大きなワンちゃんがやってきてね。近くにいたゴーストを倒してくれたから、ついでに魂集めを頼んだんだよ。きっと、あのワンちゃんががんばって集めてくれてるんだねえ」
 クロスは内心首をかしげる。ゴーストの魂はリンクが回収しているはずではなかったか。
(……ああそうか、やっぱりあのオオカミがリンクさんだったんだ)
 いつかの雨の日、ハイラル城に案内したあの黒灰色のオオカミがジョバンニの家に乗り込み、ゴーストの魂集めを約束した。おそらくここが城に行く際の通り道だったのだろう。そして人の姿に戻ったリンクは、クロスに会った時「ジョバンニにゴーストの魂集めを頼まれた」とうっかり口を滑らせた。
 あのオオカミがリンクだなんて、イリアの仮説を聞いた時は荒唐無稽だと思ったが、見事に当たっていたわけだ。まったく、マリエルといい「変身できる」ことを当たり前にしないでほしい。
 そういえば、リンクの扮する黒いオオカミは、少し前に突然町で襲いかかってきた金色のオオカミとどこか似ていた。結局、あの出来事は何だったのだろう。
「そういえば、あれからクロスさんはちゃんと生活できてるの? お買い物はどうしてるのお」
 ジョバンニは他人を気にかける余裕が出てきたらしい。クロスはしれっとして答える。
「ええ、まあ。最近は自分で行ってますから」
「そっかあ、良かったね」
 別に良くありません、という返事を飲み込んだ。屋敷が乗っ取られた話まで打ち明ける必要はないだろう。
 思えば今のクロスがあるのは、ジョバンニが悪魔に魂を売ったおかげとも言える。おかげで彼女はマリエルと部屋貸しの契約を結ぶことができた。シークや魔王の出現さえなければ、万事順調だったのだ。
 気まずい感謝を覚えるクロスの内心を推し量るすべなく、ジョバンニは金色の眉をひそめた。
「でも外を歩く時は気をつけてね。なんか最近、町の様子が変なんだよ」
「どういうことですか」
 思わず身を乗り出す。一歩も外に出ていない彼が、どうしてそんなことを把握できるのだろう。ジョバンニは彼女の疑問に答えるように、
「ほら、うちって町の地下水道とつながってるんだけど、そこから変な音がするんだよねえ」
「音ですか」
 ならば地上を歩くクロスよりも、日がな家でじっとしているジョバンニのほうが気づきやすいだろう。
「例の悪魔が地下に潜んでいるのではないですか。近頃は噂もあまり聞かないですよね」
 と、目をそらしながら問う。彼は首を振った。
「いやいや、多分違うよ。もっとぞわぞわする感じのやつだよお」
 ならば、地下水路のつながる先で異変があったのか。思い当たるのは一つだけ、オオカミのリンクが目指していた場所だ。
(お城……か)
 魔王が居座るというそこに、異音の原因があるのだろう。
 そう推測はできても、正直クロスには手の打ちようがない。ひとまずジョバンニの様子を見るという目的も達成したので、家を出ることにした。
「分かりました、何にせよ気をつけます。あなたもお元気で」
「うん、来てくれてありがとうねえクロスさん」
 相変わらずドアは塞がっているので窓から外に出る。ゲンゴロウも一緒についてきた。城下町の野良猫たちのボスなので、何らかの仕事があるのだろう。
 太陽の光を浴びる前に、クロスはすかさず日傘をさす。家の前の空き地にはちょうど猫たちが集まっていた。にゃあにゃあ鳴きながら足元にじゃれついてくるので、適当に相手をしていると——
「クロスさん」
 背中越しに声をかけられる。クロスがどきりとして振り返ると、そこにリンクがいた。
 たまたまジョバンニの家の前を通りかかったらしい彼は、空き地の猫たちに目元を和らげた。
「びっくりしたよ、こんなところで会うなんて」
「こちらこそ。また町に戻ってきたんですね」
 最初は芝居の衣装かと思った緑の衣も、今や旅装束としてしっくり馴染んで見えた。砂漠、雪山、カカリコ村、それから次はどこに行ってきたのだろう。
「うん。それで……ちょっとクロスさんに話したいことがあるんだけど、いいかな」
 リンクはどこか切羽詰まった顔をしていた。クロスは気圧されるようにうなずいた。
 酒場以外の場所がいい、とリンクが言ったので中央広場のカフェに移動する。混む時間帯は過ぎていたため、難なく席を確保できた。クロスは少し遅めの昼食をとることにして、フルーツサンドを注文する。
 リンクは椅子に座るや否や、口を開く。
「イリアの記憶、戻ったんだ」
 図らずも以前同じカフェに来たことを思い出したところに、この話題だ。クロスは落ち着いて答える。
「私もテルマさんから教えてもらいました。本当に良かったですね。ちゃんと名前を呼んでもらえましたか?」
「ああ、ずっと間違えて覚えてたって、謝ってたよ」
 リンクは小さく笑った。そして「記憶喪失になる直前に助けてもらった恩人の名前と、俺の名前が混ざったんだってさ」と付け加える。
 その様子は妙に大人びていて、いつも快活な彼らしくない。一体何があったのだろう。
 それとなく水を向けてみた。リンクは遠い目を広場に——いや、ハイラル城へと投げかける。その目にはあの黄昏色の結界が映っているはずだ。
「俺、探し物を全部見つけたんだ」
 リンクは視線を外したままつぶやいた。
「おめでとうございます。なら、もう旅は終わりなんですか」
「いや、まだだ。最後に行かなくちゃいけない場所がある」
 それはそうだろう。彼に魔王を倒してもらわないと、クロスとしては非常に困る。
 リンクは思いついたように、
「そうだ、ジョバンニのことだけどさ。俺まだ全部魂を集めきれてなくて……」両手を合わせて謝る仕草をする。
「あなたにも目的があるわけですし、時間がかかるのは仕方のないことでしょう。先ほど本人と会ったら、体が動くようになって喜んでいましたよ」
 これでクロスは、間接的に「リンクがあのオオカミと同一人物であることを知っている」と告げたようなものだ。そのことに気づいているのかいないのか、
「そっか。ゴーストにばっかり構えなくて、悪いな」
 リンクはあっさりと答え、何故かひときわ深刻な顔になった。
「あのさ、友だちが——実はそいつにゴースト狩りを手伝ってもらってるんだけど——自分のことを全然大事にしてくれなくて、困ってるんだ」
 それが今回クロスに相談したいことか。友だちと言っているが、要するに仲間だろう。ラフレルたちのことではなさそうだ。どうやら、今のリンクはその件でよほど頭を悩ませているらしい。
「自分を大切にしないというのは、例えばどういうふうに?」
 彼女は風味の良い紅茶で喉を潤しつつ、尋ねた。
「俺のことをやたらとかばうんだよ。それも『リンクのため』とか言ってやるんだぞ? 放っておいたら勝手に大怪我しちゃうんだ」
 多分、魔物と戦っている時のことを言っているのだろう。積極的に危険に身を投げるということか。クロスにとってはなかなか想像しづらい事態だ。
「それは……大変ですね」
「本当だよ。これから一緒に戦っていけるんじゃないかと思ってたのに、そんなんじゃ危なくて背中を任せられないだろ」
 リンクは手を振り上げて力説する。そこには不満だけでなく、不安が見て取れた。
 彼は勇者の使命をその友人に一部でも託したかった。しかしそのような事件が起こり、自分の気持ちが裏切られたと感じているに違いない。
 クロスはリンクが勇者であることを承知してはいても、具体的に何をしているのかは知らない。さすがにマリエル経由で教えてもらった、などとは口が裂けても言えないし、もちろん共に戦えるわけでもないので、その負担を軽減することはできない。
 自分にできるのは愚痴を聞いてやることくらいだ。クロスは平静を保って相槌を打つ。
「そこまでするくらいですから、ご友人はよほどあなたのことを大切に思っているのでしょう」
「そーかなあ。あいつ何考えてるかよく分からないし……」
 と、言いさしてリンクは急に顔を歪めた。嫌なことでも思い出したのか。
「まあやり方が良くないですよね。実際リンクさんは困っているわけですから。
 相手にそれを話しても、あまり聞き入れてもらえない感じなんですか」
「うん……」
「しばらく距離を置いてみたらいかがですか。あなたがそばにいなければ、そう無茶もしないのでは?」
「でもなー、俺と会う前から一人で歩いて砂漠まで行くようなやつだし、どうだろう」
「は? 砂漠って」
 言葉を失うクロスに、リンクは乾いた笑いを漏らした。
「西のゲルド砂漠。仕事の一環だって言ってさ、馬も使わず山越えだよ。結局あいつ、徒歩で雪山にもトアル村にもカカリコ村にも来たんだ」
 つまり、常に行動を共にしていないにもかかわらず、リンクの行く先々に現れたということか。
「それはまったく私の理解の外ですね……」クロスはお茶を飲み干して断言する。「申し訳ありませんが、さすがにそのような方に言えることは何もありません」
 勝手に諦めてしまった彼女にも、リンクは嫌な顔ひとつ見せなかった。
「クロスさんらしいな。そうだ、あいつもクロスさんに会ってもらえばいいのかもな。それで説教してくれよ」
「嫌ですよ、なんで知らない人に説教しなくちゃいけないんですか」
 話すうちに、リンクはだんだん緊張がほぐれてきたらしい。表情が穏やかになり、自分の頼んだミルクにやっと口をつけた。
「説教は冗談だけど……あいつが変わるきっかけがあるとしたら、誰かと出会うことだと思うんだ。
 俺さ、この旅で本当にいろんな人に出会った。自分じゃ村を出たときと同じ気持ちでここまで来たつもりだけど、村の人たちからすると結構変わっちゃったのかもな」
 誰だってずっと同じままではいられないだろう。リンクがどういう経緯で勇者の使命を授かったのか、今どんな思いでいるのかクロスは知らない。二人の間には共有しきれないものが数多くある。
 それでも彼は心の一部分を教えてくれた。使命とは関係のない良き隣人として、クロスは「誰かに理解されたい」という気持ちを尊重したい。
「私は旅立った後のあなたしか知りませんが、きっと大丈夫ですよ。イリアさんの件だって解決したのでしょう。どれだけ変わっても、あなたは大切なものは取りこぼさないで持っていける人です」
 何故か自信を持ってそう答えられた。リンクは眩しそうに目を細めた。
「ありがとう」
 ぽつりとこぼした言葉が胸に染み入る。
 そこで二人は同時に照れてしまい、慌ててそれぞれ注文の品に口をつけて表情を取り繕った。クロスは一気に半分ほどフルーツサンドをほおばり、軽くむせる。
「えーと、ほら、クロスさんも最近外に出るようになって、前とはちょっと変わったんじゃないか?」
「そうですかね。でも引きこもりはやめませんよ。絶対に家に戻ってみせます」
 力強く言い切る彼女に、リンクはからりと笑う。もうその顔に翳りはない。
「そっか。また町に来たら、こうしていつもみたいに迎えてくれるか?」
「ええ、いいですよ。もうすぐ私も家を取り戻しますから、楽しみにしておいてください」
 リンクはこれから用事があるというので、そのまま別れた。クロスは残った半分のフルーツサンドを食べながら、緑色の広い背中を見送る。
 リンクの探し物が終わった。ならば、いよいよハイラル城に挑むのだろうか。
(私も早くシークさんの正体を暴かないと)
 でないと、たとえ魔王がいなくなっても、そのままシークに粘着される予感がひしひしとする。
 とはいえ記憶などそうそう取り戻せるものでもない。焦っても仕方ない、というのがクロスの本音だ。
 食事を終えて代金を払い、「さて」と日傘をさした彼女は、静かな路地まで移動してから足元の影に声をかける。
「いるんでしょうマリエルさん」
 しばらくして地面から声が返ってきた。
「あたしの気配に勘づくなんて、さすがは魔女ね」
 腹立たしいことに、若干図星であった。だんだんクロスはこういう目に見えないものに敏感になってきているらしい。トワイライトの発生以降、主にマリエルを中心としてこの世ならざるものとばかり関わっているせいだ。
 しかし、気配が分かっても彼女が影の中にいた理由までは分からないし、尋ねる気もなかった。代わりに別の話題を出す。
「そういうお世辞はいらないので、少し教えてほしいことがあります」
「なあに?」
 クロスは一度周囲を見回す。人がいないことを確認してから、声をひそめた。
「リンクさんはこれからお城に向かうんですか」
「いや、あいつが集めてたものから考えると、多分違う場所よ。前に城から抜けた別の気配を追いかけるんじゃない?」
 別の気配? 他にもマリエルの発言には複数気になる部分があったが、クロスにとっては「まだ城には向かわない」という点が一番ショックであった。
「ええ……早く魔王をどうにかしてほしいんですけど」
「そんなの本人に言ってよ。それがあたしに教えてほしいことなの?」
「他にもあります。例の、シークさんのことです」
 その瞬間、空気の色が変わったように思えた。マリエルが姿を現していれば、きらりと目を光らせていたことだろう。
「へえ、何?」
「あなたは彼と共謀していますね」
「人聞きが悪いわねえ」
 否定しないということは、つまり。クロスはため息をつく。
「言っておくけど、接触があったのは屋敷にあいつがやってきた後よ。あたしはあなたの家を乗っとろうなんて全然考えてなかったからね!」
 最初から彼女がそのつもりなら、もっと簡単な方法がいくらでもあった。おそらくシークが何かを持ちかけて、それにマリエルが乗ったのだ。
「もしかしてあたし経由で正体を暴こうとしてるの? でもあいつのことは正直よく分からないわ。こっちが教えてほしいくらいよ。
 多分だけど、シークの正体は本当に当事者のあなたにしか分からないんじゃないの」
「……そうですかね」
「それに、もうのんびりしてる時間はないわよ。ゼルダ姫の結界が緩んできてるから」
「え」
 クロスは影を見つめたまま棒立ちになった。
 結界が緩めば、魔王が町に出てくる。ジョバンニが言っていた異変とはこのことだったのか!
「その話は本当ですか」
「ええ。だから、あなたもそろそろ大人しく伯父さんの家に篭ったら?」
「嫌です」
 反射的にそう答える。
 何も悪いことをしていない自分が、何故こそこそしなくてはいけないのだ。クロスの願いはただ一つ、あの屋敷に帰ることだけなのに。およそ誰の迷惑にもなり得ないようなささやかな願いが、ここまであらゆる相手に邪魔される意味が分からない。
「引きこもるなら私はあの屋敷がいいんですよ!」
 そう言い捨てて、大股で路地を出た。
 もうマリエルが影についてきている様子はない。きっと呆れられたに違いない。
 むしゃくしゃしたクロスは、そのままテルマの酒場に駆け込んだ。
「おやクロス、いらっしゃい」
 いつもどおりの店主に反して、酒場はなんだか物々しい雰囲気に包まれていた。昼食をとる客も、早い時間から飲みはじめた客も、皆萎縮したように静まり返っている。どうやらこの空気は奥のテーブルが発しているようだった。
 酒場の最奥には、いつものメンバー——今日はシャッドを除く三人がいた。深刻そうに顔を突き合わせている。
 彼女はそちらを見ないようにしてカウンターに向かったが、存在がばれていないはずがない。視界の端からアッシュが近づいてくるのが見えた。
 冷たい瞳を持つ騎士はするりとクロスの隣に座る。
「クロス殿は近頃、よくこの酒場に来ているそうだな」
「ええ、まあ」
 言葉少なに返事した。アッシュとはあまり接触したことがない。シークが城にいたかどうかを聞いて以来のやりとりだった。
「もしや、まだあの家を取り戻そうとしているのか」
「もちろんそうですが」
 相手はどことなく高圧的な態度を取っていた。クロスは身構えつつ答える。
 アッシュは素早く店内に目を走らせ、声のトーンを落とした。
「我々は近々あの屋敷に兵士を集め、ハイラル城に攻め込もうと考えている」
「えっと……それでは」嫌な予感がする。
「決戦の時は近いということだ。できれば、あの屋敷は貸したままにしておいてほしい」
 クロスは絶句した。
 なるほど、ラフレルたちが険しい顔で話し合っていたわけだ。城から逃げ出してきた兵士たちと、外回りのおかげで難を逃れたアッシュの属する部隊。残った戦力をかき集めればそれなりの数にはなるから、示し合わせていよいよ決起するということか。
 これではシークの正体を当てても意味がない。城下町に危機が迫っているという今こそ屋敷に戻りたいというのに! クロスは唇を噛み、苦い声を絞り出す。
「大事の前に、小事を切り捨てるということですか」
 アッシュはけんもほろろにうなずく。
「そうだ。否定はしない。だがな、屋敷の前にハイラル城下町がなくなるかもしれない事態なんだ。クロス殿もそれは知っていてるだろう」
 城が魔物に乗っ取られた話どころか、姫の失踪と魔王の存在すら承知しているクロスはぐうの音も出ない。アッシュの目は冷ややかだった。
 クロスはしばし黙ったまま、胸に渦巻くもやもやの輪郭を意識する。やがて、口をついて出てきたのは皮肉だった。
「あなたたちも、無闇やたらと平原の向こうに出かけていたわけじゃなかったんですね」
 挑発するような物言いに気づいたのか、アッシュの顔色が変わった。
「何だと」
「いえ。ハイラル城の状況を知っていて、どうしてずっと放置しているのか疑問だったんですよ」
 この時のクロスは完全によろしくない勢いに乗っていた。酒場という場所の猥雑さも相まって、喧嘩をふっかける気満々になっていた。ここにマリエルがいたら「いいぞもっとやれ」とはやし立てていたに違いない。
 アッシュはいくらかひるんだ様子で切り返す。
「城だけではない。ハイラル全体に異変が起こっていた。だから我々は各地を調べていたんだ」
「ですが、聞くところによると、そういう異変もあなたがたが解決したわけじゃないんですよね? 調べるだけ調べて何もできなかったということでしょう。
 それに、親玉さえ叩けば、そういった異変だって根本から断つことができるじゃありませんか」
 この論法が卑怯であるとはクロスにも分かっている。町でのうのうと暮らし、他人任せで何もしていないやつが言えることではない。だがアッシュは真面目だから反論せざるを得ないだろう。要するにクロスの行為は八つ当たりだった。
 アッシュは唇を引き結ぶ。背筋が伸びて、腰に提げたままの得物がかちりと金属音を鳴らした。
(しまった。煽りすぎた……)
 これは下手をしたら斬られるかもしれない。クロスの顔からさっと血の気が引く。
「貴殿はそういう考えをお持ちなのだな」
 言葉遣いが急に丁寧になった。クロスは椅子の上で軽くのけぞる。
 一触即発。魔王と対峙したあの時を思い出すような、緊迫した空気が酒場に流れた。
「まあお二人とも、そのあたりにしませんか」
 ぽん、とアッシュの肩を叩いたのはラフレルだった。張り詰めた糸が切れたように、クロスは露骨にホッとした。
「……いえ、私の方こそ失礼しました。少し頭に血が上っていました」
 報復が怖いので先に謝る。それに、クロスはアッシュよりもはるかに年上であった。言葉の上だけでなく心から反省する。
「ですが、私は自分の家を諦めるつもりはありません」
 アッシュに目を合わせて宣言した。こちらは夢に出てくるほど思い悩んでいるのだ。何があっても必ず取り戻す。
「分かった。我々もできるだけ早く持ち主に戻せるよう、善処しよう」
 表情を消したアッシュは立ち上がり、くるりときびすを返す。クロスは苦笑しているテルマに断ってから、そそくさと酒場から逃げ出した。一杯も飲まずに退散する羽目になったが仕方ない。あの雰囲気の中で飲み食いできるほど豪胆ではない。
 外に出るともう夕方になっていた。日傘をさして店の前で一息ついていたら、ラフレルが追いかけてくる。
「先ほどはお仲間の方にご迷惑をおかけしました」
 クロスが軽く目礼すると、ラフレルは首を振る。
「こうしてクロスが外に出るようになったのは嬉しいと思っているよ。申し訳ないが、あと少しだけ我慢してくれないか」
「はい……」
 世話になっている伯父にそこまで言われると、了承するしかなかった。
「それにしても、どうして兵士たちの隠れ家にクロスの家が選ばれたのだろう。確かにこの上ない適所だが、基本的に今のクロスは騎士団とは無関係だ。彼らも別の場所にすればよかったのに」
(あれ? 私、ラフレルさんに事情を話してなかったかな)
 クロスはきょとんとする。老齢に差し掛かっているとはいえ、この伯父に限って記憶があやふやになることはありえない。どうも彼女が説明し忘れていたらしい。
「兵士たちが最初からうちを目指してきたわけではありません。シーカー族のシークとかいう人が、いきなり兵士を連れて屋敷にやってきたんですよ」
 そういえばラフレルには「兵士たちに追い出された」としか告げていなかった気がする。シークの件を伯父夫婦に話しても、「妙なやつに付きまとわれている」という心配をかけるだけだろうと思い込んでいた。だからアッシュやシャッドにシーカー族の捜索を頼んでも、ラフレルには具体的な話をしていなかった。
「シーカー族?」
 ラフレルは何度か目を瞬いた。
「シークという名は知らないが、シーカー族なら老輩の家系がそうだ」
「え」
 クロスは開いた口が塞がらなかった。
(じゃあ私って半分がゲルドで……もう半分がシーカーなの?)
 こんな身近にシーカー族がいた! ただ伯父に朝食の席で尋ねるだけで判明したはずの事実に、今さら気づくなんて。なんたる間の抜けたことだ、と自分で呆れてしまう。
 いつぞや占い師に指摘されたことを思い出す。あれはシークではなく、シーカー族が近くにいるということだったのか。
(でもアッシュさんはシーカー族なんて城にいないって……いや、仕方ないか。私なんか親戚なのに、今初めて知ったんだから)
 まったく、一度も尋ねなかったこちらが悪いのだが、伯母のやわらかい笑顔を恨めしい気持ちで思い浮かべてしまった。
 一人で黙って百面相するクロスに、ラフレルが心配そうに声をかける。
「それで、そのシークという人物がどうかしたのかい」
「あ、いえ……」
 つまりシークはクロスの生みの母親の関係者なのだろうか? だが、ラフレルはそんな者は知らないと言う。
「少し整理させてください」
 クロスは混乱したまま一人で歩き出す。もう日はほとんど暮れていた。影に覆われた小道に入った時点で、日傘を畳んだ。思わずため息をつく。
 屋敷を追い出されてから、散歩しながら考えをまとめることが癖になりはじめていた。しかし、今回の狼狽はひときわ大きく、多少の逍遥では納得のいく答えが出そうにない。
 不意に、視界が揺らいだ。黒っぽい建物の影が不自然に動いた気がした。
(うん?)
 城下町の路地はいつも以上にひとけがない。あたりは水を打ったように静まり返っている。
 黄昏時は逢魔時とも呼ばれる。あの世とこの世が交わる時間だ。そして、夜は魔の者が跋扈する時間なのだと、クロスは身をもって知っていた。
 知っていても、対処できるかどうかは別だ。
「あっ……」
 ごくりと唾を飲む。彼女の目の前には真っ黒で大きな体をした、魔物がいた。魔物など一度も見たことがないのに確かにそれと分かる。そいつは長い両手をぶらぶらと地面に垂らして、円形の仮面のようなものをかぶっていた。
(まずい)
 クロスは声もなく身を翻した。
 ジョバンニやマリエルの忠告は真実だったのだ。城の結界が薄れて、魔物があふれてきている。
 全力で走りながら、逃げ込む先を必死に脳内でリストアップした。ラフレルの家に行くのはだめだ、今は伯母しかいない。大通りに出たら巡回の兵士がいるかもしれないが、無闇に被害を増やしかねない。オオカミリンクが走り回るだけで悲鳴が響き渡る町なのだ。最後に思いついた場所——ラフレルやアッシュのいるテルマの酒場は、残念ながら完全に反対方向だった。
 ああ、こんな時、あの家に戻れたら! 玄関にカギをかけて引きこもってしまえたらどんなにいいか。
(そうだ……今ならあそこに兵士がたくさんいる。助けを求めればいいんだ)
 角で方向転換しようとして、足がもつれた。なんとか転倒だけは免れたが、視界がぶれた拍子に追いかけてくる魔物がまともに見えてしまい、クロスは恐怖ですくみ上がる。
 おまけに日頃の運動不足と体力のなさで、もう息が上がっていた。一度立ち止まると、再び走り出すのは困難だった。進退窮まった彼女は建物の壁を背にして、魔物をなすすべなく見つめる。
(こんなところで殺されるなんて……絶対に嫌だ)
 それなのに体は動いてくれない。せめてもの抵抗に顔をうつむけて決定的な瞬間が目に入らないようにした。
 黒い体が音もなく近づいてくる。今にも距離がゼロに縮まる二者の間に、ナイフが突き刺さった。
「えっ」
 思考停止したままクロスが目を上げると、細剣を持った華奢な影が魔物に躍りかかる場面だった。
 その人物は襲いくる魔物の腕をかわし、何度も武器を閃かせる。目に見えて黒い魔物の動きは鈍り、やがて煙のように消え失せた。死んだらしい。
 クロスは一言も発せなかった。ただただ、濃い影をまとった男——シークを見つめるだけだった。
 何故だろう、彼の姿にクロスは既視感があった。男性にしては不安になるほど細い腰つき、さらさらした金髪、ほとんど布で隠れているにもかかわらず相当に整っていることが分かる顔立ち。その全てを、クロスは確実に知っている。
「何故こんな時に外を歩いているんだ」
 シークは赤い片目を険しくすがめ、つかつかと歩み寄る。
「いや、それは……ええと、あなたを探して……」とっさに思いついた言い訳をしどろもどろに答えるが、
「それが通じるのは一回だけだと、マリエルも言っただろう」
 クロスは眉を跳ね上げた。やはりシークは彼女とつながっているのだ。
 しかし窮地を救われたのは事実だった。追及は後回しにして、まず頭を下げる。
「助けていただきありがとうございます。先ほどの魔物はやはり、城から出てきたのですか」
「ああ、魔王の手下だろう。ゼルダ姫の結界が弱まっている」
 クロスは鼓動を早める胸をそっとおさえ、暗澹たる気分になった。城に魔王がいるという異常な状況にも近頃は慣れて、「リンクがそのうちなんとかしてくれる」と楽観視していた。そのしっぺ返しを見事に食らったのだ。
「もしや、どこかに隠れていたゼルダ姫が見つかってしまったのですか」
「そうじゃない。あの規模の結界を維持するのは相当な力が必要で、魔王の側も解除に注力していた。その均衡が崩れたんだろう」
 最初から、結界が破れるのは時間の問題だったというわけだ。しかも、こういう時こそリンクの出番なのに、彼はよく分からない敵を追ってどこかに行ってしまった——
 考え込むクロスに、シークが名状しがたい視線を向ける。
「先ほどからゼルダ姫のことばかり気にしているようだが、キミだって狙われているんだぞ」
「は? 冗談でしょう」
「キミはあの結界を壊すだけの力を持っているからな」
 マリエルといい、一体何を言い出すのだろう。クロスはそんな物騒な力の存在など、今まで感じたことはない。
「もう、あまり時間がないようだな」
 そう言ってシークはクロスの手を引いた。文句を言う隙もなく、まるで連行されるように歩き出す。
 すっかり日の暮れた闇の中で、金色が踊った。建物の屋根からマリエルがひらりと降りてくる。町に巣食う二人目の魑魅魍魎の登場だ。
 シークは彼女に厳しい視線を向けた。
「契約不履行になるところだったよ、マリエル」
「影に潜んでもばれたんだからしょうがないでしょ。一応、他のやつを倒したんだから勘弁してよ」
 彼女はひらひらと手を振った。どうやら魔物は複数出てきていたらしい。それにしては騒ぎになっていないので、マリエルが未然に防いだようだ。
「そ、そんなに城下町はまずいことになっていたんですか」
「そうよ、ずいぶん前からね」
 三人は城から離れるように路地を移動した。たどり着いた場所は行き止まりだった。
 入口の側をシークとマリエルが自然に塞ぐ。これは守られているというより、追い詰められたということだろう。
「もう分かったでしょ、クロスさん。城下町はあなたがのんきに歩いていられる場所じゃなくなったの。残念だけどお屋敷のことはしばらく諦めて、おとなしくしてなさい」
 他でもないマリエルに言われてかちんと来た。だが正論であるし、ここは黙っておく。
 シークもかぶりを振った。
「あの屋敷にとどまることに意味があるのか? もはや誰も帰ってこないのに」
 刹那、どきんと心臓が大きく脈打つ。まるで、自分でも気づいていなかった本心を言い当てられたかのようだった。
(私は……誰かの帰りを待っていた?)
 何故だろう、とてもしっくり来る感覚だった。その誰かとは、もしや中庭の扉の向こうからやってくる人か——それとも。
「屋敷にこだわらなくても、キミと人のつながりは切れないさ。マリエルや、あの勇者とだって親しくなったわけだから」
「別にリンクさんは関係ないでしょう」
 どうして彼が出てくるのだ。マリエルも勇者と並べられて顔をしかめている。
 シークはうっすらと笑った。
「いつだってキミは、人々がまじわる場所の中心にいるんだ。どこにいても、それは変わらないよ」
 そのフレーズには聞き覚えがあった。
「何故、それを知っているんですか」
 クロスは自分の胸元をつかむ。
「それは……私の名前の由来、ですよね。そんなものは名付けた本人か、もしくは本人から直接聞かないと分からないことです」
「そうかな」
 シークはそらとぼけるが、効果は薄い。
 なんとなく「そうではないか」と思っていた。根拠などなく、クロスはいつしか紅いまなざしの中に答えを見つけていた。
 彼女は震える声で答えを導き出す。
「シークさん……あなたの体は、いなくなったゼルダ姫のもの。そして、その魂は十年前に失踪した私の父親のものですね?」

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