第二章 つながりとまじわり



 黄昏に暮れるハイラル平原で、リンクは光をまとったマスターソードを振りかぶる。
(これで終わりだ!)
 目の前の僭王ザントを退魔の剣が切り裂く。すると幻影が解けて、あたりの景色は元の宮殿に戻った。
「お、おのれ……反逆者ども!」
 玉座にがくりと身を預け、震えるように叫ぶザント。いつもかぶっていた仮面は外しており、そこには驚くほど貧相な顔があった。表情は苦しげに歪んでいる。
 ミドナは宙を浮かんでゆっくりザントに近寄り、びしりと指を突きつける。
「教えてやるよ……オマエが長として認められなかったのは、その目だ! 瞳の奥に潜む欲望が、古代の一族のように力に支配されると王は危惧したからさ!」
 かつて、影の国は聖地に宿る力を求めて戦いを起こした。しかし光の精霊たちにより魔力を封じられ、永遠の黄昏の中に落とされたのだという。
 その封じられた魔力こそ、影の結晶石だった。ミドナはハイラルに来たばかりの頃、リンクを半強制的に協力させ、ザントに対抗するため結晶石を集めていた。しかし完成した結晶石はザントの強襲を受けて奪われてしまう。結局、ミドナとリンクはその助けなしで僭王に打ち勝ったのだった。
 ザントはくつくつと笑う。
「愚かなる影の王女ミドナよ。お前にかけられた呪いは解けぬ。一族にかけられた呪いは我が神の力! お前に長としての魔力など、戻りはしない」
 もう体力は残っていないはずなのによく吠える。リンクは剣を構えたまま警戒を続けた。
 ただの負け惜しみではないらしい。現に、ザントを倒してもミドナが元の姿に戻ることはなかった。
「すでに神は降臨し、この世に復活を果たした。我が主ガノンドロフ様がいる限り、私は主によって何度でも蘇る!」
(ガノンドロフ!?)
 かつて砂漠の処刑場から影の国に送られたという、ハイラルの大罪人だ。そいつがザントをそそのかしたのか!
 一歩前に出ようとするリンクを遮り、ミドナは体のまわりにふわりと影の結晶石を浮かべる。今しがたザントから取り戻したものだ。
「そんなことはさせない!」
 黒い結晶石がミドナの頭部から体の半ばまでを覆い尽くす。束ねられたオレンジ色の髪が生き物のようにうねって飛び出し、ザントの体に殺到した。
 巨大な手のひらとなった髪に握りつぶされたザントが、乾いた音を立てて風船のように破裂する。後には何も残らなかった。
「すごい……」
 リンクが苦労して追い詰めた敵を、弱っていたとはいえ一瞬で屠ったのか。彼は持ったままだった剣と盾の重さを急に思い出した。
 ミドナは結晶石を外し、わなわなと震える。
「ワタシの中に残るほんのわずかな魔力を使っただけなのに。こ、これが、古代の一族が残した魔力の一部……!?」
「ミドナ、大丈夫か」
 思わず駆け寄った。ミドナは我を取り戻す。
「あ、ああ……。リンク、今度はゼルダを助ける番だ! 魔力を取り戻すことはできなかったけど、ワタシには一族の残したこの力がある。これで、あの人に大切な力を返すことができるんだ。
 さあ、ハイラル城に行こう! ゼルダ姫が待っている」
 赤い瞳は生気に満ちた輝きを放っている。リンクはほおをほころばせ、ミドナの力によって影の宮殿から脱出した。
 転移先は、影の国とハイラルをつなぐ唯一の出入口である「陰りの鏡」の前だった。砂漠にはじまり、雪山、森、天空を駆け回って集めたかけらで修復したものだ。
 ザントを倒しただけでは戦いは終わらなかった。いつかはゼルダ姫を助けにハイラル城へ……と思ってはいたが、まさかあそこに最後の敵が待つなんて思いもしなかった。
 けれども徒労感はない。こうしてミドナの故郷をこの目で見ることができたのだから。
 リンクは一目散に鏡を目指すミドナに声をかける。
「あのさ、影の国の人たちには何も言わなくていいのか?」
 ザントによって魔物に変えられた人々も、今は「ソル」という影の国における太陽を取り戻したことで、皆元の姿に戻っている。復帰したばかりのせいかあまり会話はできなかったが、数多くの影の使者を斬ってきた彼にとっても、それはわずかばかりの慰めとなった。
 ミドナは影の国にいる間も、ハイラルと同じようにずっとリンクの影に潜んだままだった。だから、影の国の人々に「よく分からない奴が光の世界からやってきて、何故か自分たちを救ってくれた」などと思われているのではないか——リンクはそう危惧していた。
 ミドナは目を細めて故郷を眺めた。
 黒っぽい痩せた土、冷たい建築物。空は常に黄昏ていて薄暗い世界だ。ひんやりした空気の味にも馴染みはない。光の世界ハイラルと比べるとどうにも陰気くさくて、「あの世」と呼ばれるのも無理はないだろう。
 だがリンクは「この場所が好きだ」と断言できる。理屈などない。とにかく気に入ったのだから仕方ない。それはミドナも同じはずだ。
「ああ……ワタシは必ず帰ってくる。でもそれは、力を取り戻して呪いを解いた後だ」
「分かった。ミドナが決めたことなら、もう何も言わないよ」
 どのみち、あと少しでその日はやってくるのだから。
 突然物分かりが良くなった彼を訝るように、ミドナは目をすがめた。
「リンクはさ、もう誰かに自分の事情を話すのはやめたのか?」
「あ、うん」
 ノアとの一悶着はミドナだって知っている。勢いで立場を打ち明けた結果、見事に失敗して、相手に余計な気を回させることになった。それくらいなら下手に知ってもらわないほうがいい、とリンクは結論を出していた。
「なんか悪かったな」
 ミドナは気まずそうに頭を下げた。
「なんでお前が謝るんだよー。まあ、俺の大冒険はミドナが覚えててくれたらそれでいいからさ」
「ほほお」
「でもゼルダ姫に頼んで影の国のことをみんなに広めてもらう、っていうのはまだ諦めてないからな!」
 ミドナはくすりと笑った。元の姿——影の国の姫君だった頃にもきっと浮かべていたはずの、やわらかい表情だ。
「そうだな……その時が来たら、考えてやるよ」
 陰りの鏡をくぐる寸前、影の国を振り返る。草木も水もない場所だが、今まで見た景色の中で一番心に残った。黄昏の黒雲が刻一刻と形を変えるさまは、胸の奥深くに刻まれた。
 このまま城下町からハイラル城へ向かおう。そこで最後の決戦だ。



 城下町はすっかり夕闇に沈んだ。灯りの届かぬ路地の中で、シークが緋色の目を細める。
 少し離れた場所から、マリエルが興味深そうに成り行きを観察していた。余計な口出しをする気はないようだ。
 さて、シークは一体どう答えるのか……クロスはごくりと唾を飲み込んだ。
 彼女はシークの正体を看破した。おそらくヒントは最初から山ほどあった。そもそも彼は、クロスに正体を当ててほしかったのだから。
「何か異論はありますか?」
 彼女は強気に問いかける。
「いいや。何も。その通りだよ」
 シークは開き直ったように落ち着いていた。クロスはそっと呼吸を整える。
「まず、体と魂の持ち主が別という点にはどうして気づいたんだ」
 正体が判明しても彼は態度を変えることはなかった。マリエルがふうっと息を吐く。反対にクロスは全身に緊張がみなぎっていた。
「それについては、マリエルさんがヒントをくれました」
「あたし?」
「ええ。シークさんの正体の半分がどうこうと言っていたでしょう」
「……それだけで?」
 もちろん、そうではない。クロスはつとめて心を鎮めようとした。
「シークさんの容姿や背格好をどこかで見たことがあったんですよ。変身できる魔法があることはマリエルさんの件で知っていましたから、私の記憶のうちで一番近い雰囲気の方——ゼルダ姫ではないかと思いました。
 何よりもゼルダ姫が城から消えて、入れ替わりにあなたが兵士を連れて出てきた。可能性は高いでしょう」
 それでも決定的ではない、と言うようにシークは首を振る。
「手がかりは他にもありました。その服の模様です」
 前掛けに赤く染め抜かれた目玉模様だ。彼の特徴的な服装の中でも、一番印象に残る部分である。
「以前姫のお母様が亡くなられた時、姫の着ていた喪服に弔意を示す模様として刻まれていました。それで私の知識や記憶を試したのでしょう?」
 マリエルが「このマークってそんな意味があったのね」と不思議そうにシークの胸元を見つめている。
「いや、この服については別なんだが……」
 クロスはがくりと肩を落とした。読みを外したらしい。そのまま気が抜けそうになり、慌てて姿勢を正す。
「それで、ゼルダ姫の魂はどちらに行かれたんですか」
「ここではない安全な場所にある。ボクの役目は、然るべき時が来るまでこの体を守ることだ」
「そう……ですよね、だってそれが仕事だったんですから」
 クロスはゆっくりと息を吸う。シークの魂は先代の騎士団長であり、あの屋敷のかつての主だった。ハイラルの王女を守るのは当然だろう。
「それでは魂の方は? どうして失踪した父親の魂だと思ったんだい」
 シークはそのままハープでもつまびきそうなくらいリラックスしている。問い詰めている側のクロスの方が、思ったように話を運べず焦りを感じていた。ぎりりと唇を噛みしめる。
「あれだけヒントを出して、当ててくれと言っているようなものじゃないですか」
 怒りを抑え、順に解説していく。
「シーカー族と名乗ったのも私にきょうだいがいるなとどほざいたのも、つまりは私に自分の出自についてちゃんと考えろと言いたかったのでしょう」
「まあ、そうだね」
「シークという名前はシーカー族からとった偽名ですね。シーカー族である実の母を想起させるようにしたのでしょう。
 そして、私に流れる血のもう半分はゲルド族。だから片親の……ゲルド族であった父親の魂が宿っているのでは、と思ったのです」
 一度言葉を切り、クロスは肩をすくめた。
「と、いうのは後付けです。決定打は先ほど名前の由来を聞いたことですが、あなたの正体について思い当たった理由は……なんとなく、でしかありません」
 クロスの抱いたその直感に、「そうだったらいいな」という願望があったことは否定できない。
 いつか占い師に言われたことを思い出す。昔も今も、とても近くにいる存在。血のつながった家族ならば当てはまるだろう。
「……見事だ」
 そこでシークは取り繕った表情を崩し、破顔した。月のような美貌で笑うものだから、心臓に悪い。
「大きくなったね、クロス」
「おかげさまでね……」
 さすがのクロスも歯切れが悪い。視線を合わせることをためらって、うつむく。
 だがいつまでもそうしているわけにはいかず、顔を上げた。
「さあ、何故あなたが失踪したのか教えてもらいましょうか。それに私のきょうだいとやらは——」
「待って」
 それまで黙っていたマリエルが一歩前に出る。クロスは水をさされた形になり、口をぱくぱく動かした。
「どうも、気づかれたみたいよ」
「あまり長居すべきじゃなかったな」
 シークとマリエルがひそひそと会話する。クロスは痺れを切らして、
「いいから質問に答えてください!」
「ここを乗り切ったらいくらでも答えるよ。あとはきみに任せた」シークはマリエルを見る。
「契約は守るわ」
 彼女は悪魔的な笑みとともにウインクしてみせる。
 頭に血が上ったクロスも、さすがにその会話から察した。町の様子が変だ。路地からつながる大通りの方を眺めても誰もいない。まだ宵の口なのに、静かすぎるくらいだった。先ほど魔物に襲われた時からずっとこうだったのかもしれない、と気づいた。ざわりと肌が粟立つ。
「クロス」
 シークの赤い視線に射抜かれる。彼女はぎくりと棒立ちになった。
「これはキミが持っていてくれ」
 動揺する彼女の手をとって何かを握らせる。薄暗くて見えづらいが、どうも古びたカギのようだ。
「なんですかこれは」
 答えることなくシークは何かを地面に投げつけた。軽い音とともにもうもうと煙が立つ。
「クロス、キミはあの扉を守ってくれ。必ず……!」
 煙で白くなった視界は、急に暗転した。
 暗い。夜よりもなお濃い闇だ。冷えた空気と、湿気たにおいが鼻につく。明らかに城下町の路地ではない。
「こ、ここは……」
「町の地下ね。シークが転移の魔法を使ったのよ」
 マリエルはあっさり言い放ち、どこからかランタンを取り出して火を灯した。
 黒っぽい水面が光を反射する。今いる細い通路の横にはなみなみと水が満ちていた。おそらく城につながるという地下水道だろう。いつぞやオオカミのリンクを案内した、テルマの酒場の奥にあるというあの場所だ。
 クロスは寒気を感じて肩を抱いた。
「一体、何がどうなっているんですか」
「魔王の一党にシークが見つかったの。こっちにもじきに追手がかかるわよ」
 マリエルは白い腕を上に伸ばし、空中から大鎌をとりだした。ずいぶん前、彼女と出会ったその日にも使っていた武器だ。
 追手がかかる、ということはまた黒い魔物がやってくるのだろう。何とも言えない冷えが足元から忍び寄ってきて、クロスは震え上がった。
 シークは無事なのだろうか。姫の体を守ると宣言したのだから、それなりに勝算があると信じたい。
「はい。クロスさんにはこれね」
 マリエルが何かを無造作に手渡してくる。目を凝らして確認すると、どうもお面らしい。大きな目玉がふたつぎょろりと飛び出ていて、角まで生えている。禍々しいという形容詞がぴったりだ。
「悪趣味な……」
 クロスが思わずつぶやくと、マリエルはきょとんとして、
「え、かわいいでしょ?」
「どこがですか!?」
「色が紫でチャーミングだし、ハート形だし」
 まったく彼女とは趣味が合いそうにない。服のセンスはそう悪くないのにこればかりは解せなかった。
 顔をしかめたクロスは、以前マリエルが「仮面が本体」などと口走っていたことを思い出した。
「もしかして、この仮面があなたの本体なんですか」
「そうよ。まあこれは単なる道具としてのコピーだけど」
「これをかぶれと?」
「仮面だからね。かぶれば魔物から見えにくくなる——というより魔物の仲間に見えるはずよ。よほどの相手じゃない限りはバレないわ」
 あまり見栄えを気にしている場合ではない。クロスはすぐにお面をかぶった。視界が狭くなる。
 彼女はそのままゆっくり後ずさりして、地下水道の壁に背をつけた。自然とマリエルが前に出る。
「マリエルさん」
 鎌を持った彼女が振り返る。
「なあに? 今回の分はあなたからは対価をもらわないわよ」
 これもシークとの約束のうちらしい。クロスは深く頭を下げた。
「いえ、その……お願いします」
 マリエルはにこりと笑った。
「任せなさい。大船に乗ったつもりで待っててね!」
 すぐに鈍い足音が近づいてきた。
 闇がそのまま形をとったように、真っ黒な魔物が姿を現した。クロスは胸元をつかみ、息をひそめる。地上でも襲われた魔物だ。しかも複数体いる。リンクはいつもこんな敵と戦っていたのだ。今更ながら、尊敬の念がこみ上げる。
 マリエルは舌なめずりをした。
 鎌が一閃する。軌跡が見えないほどのスピードだ。同時に鋭い風のようなものが放たれて、後続もろとも魔物を真っ二つにする。
 彼女の強さは素人のクロスにも分かった。初対面の頃はともかく、最近はお菓子を食べている印象しかなかったが、やはり悪魔と呼ばれるにふさわしい実力を持っている。たまたま味方になってくれて良かった、と心底思った。
 ほどなくして魔物は殲滅された。クロスはやっと息をつく。
「マリエルさん、あの」
「まだよ、親玉が来るわ」
 それまでは笑みすら浮かべていたマリエルが、表情を険しくした。再びクロスは口をつぐみ、壁に背中をはりつける。冷たさが服越しに伝わってくる。
 新たに現れた影は、他の魔物と違って人型をしていた。爬虫類を模したような仮面で顔を隠し、袖の長い衣をまとっている。見た目だけでなく、異様な雰囲気を醸していた。姿は何故か、半分透けている。
 半透明の魔人は床の上を滑るように近づいてきた。
「ずいぶん来るのが早いわね。そんなにお急ぎなの?」
 対話可能と見たのか、マリエルが問いかける。相手は答えない。
「まあいいわ、迎え撃つだけよ!」
 彼女はすさまじい笑みを閃かせ、鎌を振るった。魔人が両の袖を交差させて受け止める。
 クロスはどきどきしながら戦いを見守った。仮面の効力は、この親玉とやらにも発揮されているのだろうか、気になって仕方ない。
 攻守は激しく入れ替わった。マリエルが一歩踏み込めば魔人は後退し、長い袖を振る。投げつけられた球形の魔力を、マリエルが鎌で防ぐ。
「……強き悪魔よ」
 魔物が喋った! マリエルは一旦距離をとって相手をにらむ。クロスは唾を飲み込んだ。
「お前は一度我が主に破れた身だろう。何故歯向かう」
「今は契約があるからね」と彼女はあくまでドライな返答だ。
「だが、我が主は心の広い方だ、こちらに来るつもりはないか。光の世界では息をしづらかろう」
 クロスはぎょっとした。マリエルが勧誘されているのだ。ここで彼女に見放されたら、もう自分の命はない。
 悪魔はすうっと目を細める。
「ふうん。あんたもそうやってあの魔王に魂を売ったってわけ?」
「そうだ……我が主、いや我が神ガノンドロフ様に!」
 マリエルは苦々しげに吐き捨てる。
「神様なら別にいたでしょ。あんたのとこの守護神さまがね」
「我々を裏切った神のことか」
「そうよ。ま、今じゃ魔王様の方が力もあるし、信仰に足るってことよね」
 クロスには何の話か分からなかったが、マリエルはどうも相手を知っているらしい。もし昔なじみであったら、余計に彼女が寝返る確率が上がるではないか。クロスはひやひやしていた。
 マリエルは鎌を持ったままちらりとこちらを見て、
「残念だけどお断りするわ。魔王の顔も趣味じゃなかったし……何より、あたしはある人からたっぷり魔力をいただく予定だからね!」
 自信満々に胸を張った。
(そういう魂胆だったのか……)
 マリエルがクロスにつきまとっていた理由は、やはり魔力目当てだったらしい。だが、からりと言い放つその姿に妙な頼もしさを覚える。
「そういうわけだから、あんたを倒させてもらうわ」
 再び魔人が腕を振り上げ、魔法を放つ。マリエルは余裕を持って避けたが、相手の狙いは違った。
 魔力が地下水路の床に落ちて弾け、そこに透明な壁ができあがった。クロスははっと身をこわばらせる。
 顔色を変えたマリエルが、壁の向こう側に見える。二人の間は魔法によって隔てられていた。
「クロスさん!」
(やっぱり気づかれてたんだっ)
 とっさに壁から身を離し、クロスは魔人と反対方向に走り出す。さらに逃げ道を塞ぐように新たな壁ができた。足を止めて手を伸ばしてみると、ぴりりとした痛みが走った。
 細い通路の前後を壁で挟まれた。それだけでもクロスの恐怖を煽るには十分だったが、
「あっそれは反則でしょ!?」
 間髪入れず、魔人が目の前に転移してきた。マリエルが抗議する。
 クロスは青ざめながら魔人を見上げた。確実にこちらを認識している。残された逃げ道は水路だけだが、飛び込んだところで泳いで逃げ切れるとも思えなかった。
 マリエルが壁に鎌を叩きつけた。が、弾かれる。おまけに彼女はどこからともなく湧いてきた新手と対峙する羽目になる。
「あんたたちの相手なんかしてる場合じゃないのにっ」
 クロスには、その声すら遠く聞こえた。
 死の象徴が一歩一歩近づいてくる。クロスは足の力が抜けてしまい、床にしゃがみこんだ。体の震えを止めることができない。
 魔王と相対した時と同じだ。相手がこちらを殺そうとしていることが、ひしひしと伝わってくる。
 こんな時なのに、クロスはふっと気が遠くなった。まぶたの裏に、軽く走馬灯が流れる。
 ——突然ジョバンニが失踪してしまったあの日。仕方なしに家を出たら町がおかしな黄昏に包まれていて、マリエルと出会い、城下町の状況を知って、そのうちリンクとも知り合って——シークに屋敷を奪われた。
 魔王だの悪魔だの勇者だの亡霊だの、訳の分からない肩書を持つ者たちが複雑に絡み合い、今の状況を作り上げた。きっと彼らはそれぞれに正当な理由があって行動しているのだろう。だが、どうして巻き込まれたのがクロスなのか。誰か納得できる説明をしてほしい。
 そもそも魔王とその手下さえ町に来なければ、クロスが屋敷を追い出されることはなかったはずだ。
(……どうして私がこんな目に遭わなくちゃいけないの)
 そうだ、自分はこんなところで殺されている暇なんてない。これから思う存分シークを——あの父親を問い詰めなければいけないのだから!
 クロスは足に力を込めて立ち上がった。仮面越しに相手をにらみつける。
(この仮面にマリエルさんの魔力が宿っているなら、もしかして)
 魔人が天に差し伸べた手に、暗い光を放つ魔力が宿る。球形をした力はどんどん膨れ上がっていった。こちらがろくに抵抗できないことを知っていて、わざと見せつけているのだ。
 クロスは仮面を外し、渾身の力を込めて投げつけた。魔人は避けようともしない。
 仮面がぶつかる瞬間、彼女は祈るように目をつむる。まぶたの裏に青色が宿った。
「……え?」
 目を開くと、まったく予想外の光景が広がっていた。
 真っ青な炎が暗闇に浮かび上がり、魔人の全身を包んでいる。
「これは!?」
 魔人が身もだえする。クロスは何が起こったのか分からず、呆然と見つめるだけだ。火の粉がこちらまで飛んでくるが、熱は感じない。不思議な炎だった。
「く……なるほど、この力こそ、我が神の求めたものであったか」
 妙に達観したセリフが炎越しに聞こえてくる。
「しかし目的は達成した。我が神はついに降臨なされる……」
 魔人は不気味な声を残して燃え尽きた。あとには塵一つ残っていない。
「やるじゃないの、クロスさん!」
 同時に魔法の壁も消えた。魔物を蹴散らしてきたマリエルが、弾んだ足取りからそのまま抱きついてきた。クロスはぎゅうぎゅうと胴を締めつけられつつ、その場に崩れ落ちそうなくらい安堵した。
「あ、あなたの仮面のおかげで助かりました」
 マリエルは腕の力を緩めてきょとんとした。
「何言ってるの、あれがあなたの魔法でしょ。仮面も触媒にはなったかもしれないけど。青い炎なんて粋じゃないの」
「私の魔法……?」
 手のひらを見つめる。まだ仮面を投げた時の感覚が残っているようだ。
 あの炎を出したのが自分だというのか。まったく実感がなかった。ただ、ぼんやりと疲労感がある。
「魔王が狙ってたのはあの炎でしょうね。ゼルダ姫がだめなら、結界を破れる魔法を使うクロスさんを、ってことでしょ」
 マリエルはこともなげに言うが、クロスはぞっとした。
「で、でもどうして魔王は私の魔法を知っていたのでしょう。私自身すら気づいていなかったのに」
「そうね……同じゲルド出身だからじゃない? あなたの魔法は血によるものなんでしょ」
 クロスは反射的にうなずく。魔力なんて厄介なものは全て血のせいにしてしまいたい気分だ。
「そういえば、今の魔人とは知り合いだったんですか」
 マリエルは少し驚いたように、一拍置いてかぶりを振った。
「いや、知らないけど。あいつは多分ファントムなんちゃらよ」
「なんですかそれ」
 思わず脱力してしまう。
「ああいう幻影にはたいてい『ファントム』って名前をつけるものなの」
「幻影……ですか」
 あれだけの力を持っていたのに、ただの幻影だったというのか。どっと疲労が押し寄せてくる。
「まあそんなのどうでもいいわ、とりあえず地上に戻りましょう」
「そうだ、あの人——シークさんと合流しないと」
 浮足立つクロスとは反対に、マリエルは眉を曇らせる。
「残念だけど、もういないわね。ゼルダ姫の体はお城に連れ去られたみたい」
 クロスは二の句が継げなかった。
「こっちより明らかに追手の数が多かったもの。無理もないわね」
「そ、それなら二手に分かれる必要はなかったでしょう。地上に残って、あなたとシークさんが一緒に戦えば……」
「何言ってるの。シークはあなたをなるべく危険から遠ざけたかったのよ」
 クロスは息を呑む。
「ゼルダ姫の体には光の精霊やら何やらの加護がガチガチについてるから、そう簡単に魔王にどうこうされることはないわ。でもあなたは……えっと、そうじゃないでしょ」
 マリエルが言葉を濁した内容を、クロスは悟った。用済みになったらすぐに始末されるということだ。
「……では、シークさんの魂は?」
「そこまではちょっと分からないわ。とにかく地上に行きましょう」
 クロスは顔をしかめ、服のポケットに入れていた例のカギを握った。
 しばらく地下水路を探索し、マリエルが見つけたはしごを伝って出口を抜ける。
 どこかの建物の中に出た。両脇に棚があり、床には木箱がいくつも重ねられている。倉庫らしき場所だった。マリエルがカンテラで照らし出す。
 部屋の奥から、別の明かりがゆらゆらと近寄ってきた。クロスは一歩下がって体を硬直させる。大丈夫、と言うようにマリエルが白い手を伸ばしてその肩を触った。
「うわ! どこから出てきたんだいあんたたち」
 果たして聞き覚えのある声が響く。自らの名前を冠した酒場を経営する女主人、テルマだった。
 ここは酒場の倉庫らしい。たまたま荷物を探しにきたと思しきテルマが、仰天している。
「すみません」
 地下水道を歩いたため、二人は汚れた靴で部屋に上がり込んでいた。申し訳なさがこみ上げる。
 テルマは疲れ果てた様子のクロスを見て、同情するようなまなざしを向けた。
「まあいいけどさ。そっちのあんたは……クロスの知り合いかい?」
「はい。クロスさんの家で部屋を借りているマリエルです」
 物騒な大鎌はとうの昔にしまっている。礼儀正しく挨拶するマリエルは、先ほどまで武器を持って戦っていた悪魔とはとても思えない。
「そうかい、よろしく。
 ——なんて話してる場合じゃないんだよ。町が大変なんだ」
「どういうことですか」
 どこか焦った様子のテルマに続いて移動する。
 いつものフロアに出た。が、いつもなら客で席が埋まっている時間帯にもかかわらず、誰もいなかった。ラフレルたちも出払っているようだ。何故かポストマンが暖炉のそばでうずくまっている以外、人影は皆無である。
「これは一体、何があったんですか」
 テルマは難しい顔で腕組みした。長く女手一つでこの酒場を切り盛りしてきた彼女でも、こんな状況は初めてだと言う。
「中央広場の展望台に、しばらく前からゴロンが住み着いていただろ。あいつらが、ハイラル城の城壁の中に魔物が飛んでいるのを見つけたんだ」
「えっ」
 思わず隣のマリエルを見やる。驚愕したような表情をしているが、きっと演技だろう。
「クロスが酒場を出ていった直後くらいの話かな。それから噂はあっという間に町中に広がって、みんなパニックになってしまって……ラフレルたちは混乱をおさめに行ってるよ」
「幻術が解けたのね。ゼルダ姫の結界が壊されたからか、魔王がわざと解除したのか……」
 マリエルがクロスにしか聞こえない声で低くつぶやく。
 テルマは弱りきったように額をおさえた。
「それにさ、私を含めた町の人たちがほとんど同時に、おかしなことを思い出したんだよ。しばらく前、ハイラル城から真っ黒な煙が上がったことがあった。なのに城からは何も説明がなくて、不安に思ってたはずなのに……今までずっと忘れてたんだ。ほら、クロスもそうなんじゃないかい?」
「え、ええ」
 魔物の姿が確認され、不穏な記憶まで復元されてしまった。町は当然、大混乱になるだろう。地下水路に入る直前、路地が妙に静かだったのは、中央広場の方に人々が集まっていたからかもしれない。
「私はうちにある物資でラフレルたちをバックアップするよ。避難してくる人がいるなら、それも受け入れるつもりさ」
 テルマはどんと胸を叩いた。
 皆、町の平和のために動きはじめているのだ。それは大層立派なことだと思う。しかし。
「クロス、あんたはどうするんだい」
「家に帰ります」
 彼女は即答した。
「でもあんたの家って確か……」テルマが心配するが、
「失礼します」
 ときびすを返す。その拍子に少しよろけたため、マリエルが肩を貸してくれた。
 物言いたげなテルマの視線を振り切り、二人は真夜中の町に出た。
 魔物に襲われた時と違い、外は騒然としていた。街路に松明がたくさん揺れて、人々が慌ただしく往来している。
 酒場から一番近い南門には人だかりができていた。何かと思えば、常に開放されているはずの門がかたく閉ざされているのだ。
「開けてくれ!」「城に魔物がいるのよっ」「危険ですから、平原には出ないでください!」
 門を守る兵士と町人たちが押し問答になっているらしい。
「夜の平原に魔物がいるのは当たり前では……?」
 クロスが疑問を呈すると、マリエルはじっと目を閉じる。門の外の気配を探っているようだ。
「いや、普段とは数が違うわ。あの中を突破するのは厳しいでしょうね」
「魔王が呼び寄せた……とか?」
「そんなところじゃないの」
 つまり、人々は城下町に閉じ込められたのだ。城も平原も魔物だらけで、もうどこにも逃げ場はない。
 クロスは鈍く痛む頭をごまかすように、首を振った。
「とにかく家へ戻ります」
 兵士と鉢合わせしようが知ったことか。シークの正体を暴いたのだから、自分にはその権利があるはずだ。
 そうだ、屋敷に帰ればなんとかなる。扉を閉じて引きこもって、マリエルに守りを頼めば……。
 マリエルは緋色の目をすがめ、黙って後についてきた。
 怒号や罵声に、すすり泣き。激しい感情の乗った様々な声が聞こえてくる。兵士たちの張り上げる声はなかなか通らない。この中にラフレルやアッシュたちもいるのだろうか。
 喧騒から遠ざかるようにクロスは家路についた。

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