第二章 つながりとまじわり



 白い霧の真っただ中。どこかで見た覚えがある景色だ。
 いつもの屋敷の夢ではない。やっとのことで取り戻したので、もう夢の中でまで追い求める必要はないということか。
 目の前に誰かが立っている。それは「シーク」——ではなく、本来の姿をしたクロスの父親だった。妙に体格が良くて、背の低いクロスは首を目一杯に上向けた。お城を守る騎士らしく、甲冑を着込んでいるらしい。顔はぼやけてよく見えない。
 ここが夢だと知っていて、彼女は父親をにらみつける。
「……今さら、どうして姿を現したんですか」
 思わず恨み言をぶつけていた。
「あなたがいないせいでどれだけ私たちが苦労したか」
 言いさして、口が止まる。反射的に当時のことを思い出しそうになり、脳が拒否したのだ。
(我ながら根深すぎるな)
 内心舌打ちをしつつ、言葉を紡いだ。
「少なくとも母には……あなたにとっての二番目の妻には、言うべきことがあるでしょう。あの人が一番気に病んでいたんですよ」
 夢の中の父親は何も答えてくれない。
「それに、ほら、私には何もないんですか。そのくせ思わせぶりなことばかり言って……。私にきょうだいがいるというのも、本当は嘘だったんじゃないですか?」
 挑発とともに、鋭くねめつける。
 その時、立ち込めた霧が晴れていった。隠されていた顔があらわになる。
「あっ……!」
 真っ先に目に入ったのは赤い髪だ。今まで見てきた色のない夢と違い、鮮やかに視界に飛び込んでくる。
 浅黒い肌をしたゲルドの男がそこにいた。穏やかにこちらを見下ろしている。全体的な雰囲気は違えど、その感覚はごく最近にも味わったものだ。
(そうか、ガノンドロフは……父の体を使って復活したんだ)
 ゲルド砂漠にガノンドロフが生まれてから、百年が経った。百年に一度だけ生まれるゲルドの男——魔王の次代こそ、クロスの父親だった。
 まったく、失踪した後の彼に一体何があったのだろう。身内の体が魔王に乗っ取られたなんて、考えうる限り最悪の事態だった。
 クロスはめまいを感じながら、思考し続ける。
(そんなことを知って、私に何ができるの? 父は、私に一体どうしてほしいんだろう)
 別れ際、シークは「あの扉を守れ」と言っていた。十中八九、中庭の扉のことだろう。遠回しに「屋敷に戻って引きこもっていろ」と伝えたかったのか。
 本当にそれでいいのだろうか。父親は、魂だけの状態になってもクロスを助けてくれた。危険から遠ざけたい彼の気持ちを汲むべきか、クロスの心の奥底に湧き上がる名状しがたい感情を優先すべきか。
 まとまらない考えを胸に抱きながら、彼女はさらなる眠りの深みへと落ちていく。



「クロスさん、誰か来たわ」
 耳の近くでマリエルがささやく。まぶたを開けると、カンテラを持った彼女が枕元に立っていた。夜はまだ深く、クロスが眠りについてからわずか数時間後のようだ。
 そこは懐かしき自分の部屋だった。内装は何一つ変わっていない。
 屋敷に戻ると、詰めていた兵士たちは皆出払っていた。町に散らばって混乱の収束につとめているのだろう。クロスはこれ幸いと上がり込み、脇目もふらずに自室に駆け込んでベッドに倒れ込んだ。
 かけ布団をはねのけて、体を起こす。
 ひそやかな呼び鈴が断続的に聞こえてくる。マリエルがきっちり身支度を整えているのは、夜更けに正体不明の人物が訪ねてきたからだろう。
「今、行きます……」
 クロスはふらつく足取りで階段を降りた。玄関にたどり着き、落ち着いて息を吸う。まだ呼び鈴は続いていた。すなわちこの向こうに誰かがいる。
「待って、あたしが開けるわ」
 マリエルはあの重い扉を細腕でやすやすと開けた。
「げ、勇者」
 途端に嫌そうな声を出す。
 外にいたリンクが目を丸くした。訪問者が彼だと分かり、クロスは一気に力が抜けた。
「えっと、マリエルさんだっけ? 夜遅くにすみません。クロスさん、いますか」
「ここにいます」
 マリエルの後ろから顔を出す。リンクはほっとしたように、
「良かったあ。玄関の明かりがついてたから、もしかしてと思って」
 帰ってきた時に灯して、そのまま眠ってしまったことを思い出す。それがたまたまリンクの水先案内となったらしい。
「さっそくだけど今日、泊めてもらえないかな」
 以前からそういう約束をしていた。ここで追い返すわけにもいかないし、クロスにそのつもりはない。
「それは構いませんが……あなた、どうやって町に」
 門は全て閉ざされていたのではなかったか。それに、町の周囲に魔物が集まっているという話はどうなったのだろう。
 マリエルが横目でじろりとリンクをにらんだ。
「あんた怪我してるわね。外の魔物を無理やり突破してきたんでしょ」
「ははは……」
 リンクは頭をかく。よく見れば服装は薄汚れていて、利き手の左はだらりと肩から下げたままだ。クロスは目を瞬いた。
「とにかく上がってください。傷の手当てと、お茶くらいは用意しますよ」
「ありがとう、助かるよ」
 リンクは屈託なく頭を下げて、屋敷に上がり込む。マリエルは無言のまま、「これ以上関わる気はない」と言わんばかりに、すぐに自室に引っ込んだ。
 クロスはリンクを居間に待たせて、包帯や消毒液を引っ張り出してきた。ほとんど使ったことのない道具で慣れない手当てをしようとしたところ、「それくらい自分でやるよ」とリンクはひょいひょい片腕で包帯を巻いていく。クロスはすぐに諦めて、お茶の用意をはじめた。
 兵士たちは相当気を遣って屋敷を使っていたらしい。シークから指示があったのか、常識的な判断によるものか。ざっと見た限り、家の中で記憶と大きく違っている箇所はない。久々の台所には茶葉のストックがそのまま残っていた。
 お盆を持って居間に戻る。怪我をしているはずのリンクは、それでもクロスより元気なくらいだ。「この紅茶も久々だなあ」と、のんきにティーカップから立ち上る湯気を楽しむ。
「クロスさん、お屋敷を取り戻したんだな」
「ええ、まあ……」
 生返事になってしまう。偶然留守にしていたところを占拠しただけなので、正直今にも兵士たちが戻ってくる可能性はある。
 クロスが言いづらそうにしている雰囲気を察したのか、リンクは話題を変えた。
「なあ、城下町で何があったんだ? 夜なのに騒がしくて、変な雰囲気だったけど。平原も妙に魔物が多くてさ」
 勇者ならそのくらい知っておいてくれ、と思いつつ答える。
「ハイラル城に魔物がいることが判明したんです。それで町がパニックになった矢先に、城壁の外を魔物に囲まれました。兵士やラフレルさんたちが鎮めようとしているそうです」
 疲れ果てたクロスはいっそ淡々と答える。
「そっか……」
 リンクは苦いものを噛みしめるような顔になった。
「そういえばあなた、どうやって門を通ったんですか」
「え? それはその、ちょっとズルをしてだな」
 リンクは下手なごまかし方をしつつ、身を乗り出して彼女の手をとった。
「クロスさんも不安だよな。でも大丈夫だよ、兵士たちがやっつけてくれるさ」
「そうですよね。うちに引きこもっていれば、すぐ落ち着きますよね」
「そうそう」
 上っ面の言葉が唇を滑っていく。互いに話の内容とは別のことに気を取られていると分かる。
 クロスはかろうじて家に閉じこもることが許される立場だ。しかし、リンクはこれからハイラル城に挑まなければならない。彼自身の故郷や家からは遠く離れて……。
 彼女はふと、行ったこともないラネール地方の外に思いを馳せる。
「リンクさんは、トアル村の出身でしたよね」
「そうだよ」
「あなたにも帰る家があるんですか」
 リンクはにこりと笑った。
「あるよ。村の外れの一軒家。木の上にあるから、はしごをのぼって入るんだ。クロスさんのお屋敷には負けるけど、一人暮らしにしては十分すぎるくらい広くて、自慢の家だよ」
「お一人なんですね」
「俺、家族いないからさ。でもみんな……モイやイリアや、いろんな人がいてくれたから、寂しくはなかったよ」
 リンクはむしろ得意げに胸を張る。
「いつかクロスさんもうちに来なよ。今日のお礼に何かご馳走するからさ」
 クロスは返答に詰まった。城下町からさえ一歩も出たことがないのに、トアル村なんて夢のまた夢だ。
 直接の返事を避け、リンクの顔色を伺う。
「どうしてお一人なのか、聞いてもいいですか」
「うん、十年くらい前かな。俺、気づいたらラトアーヌの泉にいたんだよ。多分親に捨てられたんだと思う。それより前のことは何も覚えてないんだ」
 あっけらかんと告げる彼は、本当に過去に対して何も含むところがないようだった。
「そうですか」
「トアル村には家族みたいな人たちがいるし、城下町に出たらアッシュやシャッド、クロスさんみたいな人たちと知り合えたし……俺って本当に恵まれてるよな」
 この発言に嘘はないだろう。己が満たされていることを知り、多くを求めすぎない。その自覚こそが、リンクの強みなのだ。
「クロスさんは、一人暮らしで大変なのか?」
「いいえ、伸び伸びできていますよ」
「家族はどうしたんだ?」
 無邪気な質問が胸に刺さる。クロスはぼそぼそと答えた。
「両親は……家から出ていきました」
 いなくなった父親は十年後にシークとなって戻ってきたけれど。思わず口を閉ざし、カップに視線を落とす。
「ごめん、変なこと聞いちゃったかな」
「事実ですから。気にしないでください」
 リンクはまなざしを和らげた。
「でも、ご両親はこの家を残してくれたってことだろ。だからクロスさんはここが好きなんだよ、きっと」
「……そうかもしれませんね」
 シークに言われた通りだった。クロスはやっと自覚した。自分は、いつか家族が帰ってくるこの家を、ずっと一人で守っていた。
 今度は心地よい沈黙が降りた。壁の外の混乱とは切り離されたこの空間にリンクがいてくれることが、ありがたく感じられた。
「あの中庭の扉さあ」
 リンクが思いついたように切り出す。クロスはどきりとした。
「あれが、どうかしましたか」
「フィローネの森の奥にあった廃墟にも、ほとんど同じデザインの扉があったんだ。このお屋敷と何か関係があると思ったんだけど……知らないのか?」
「いいえ」
 クロスはこめかみを押さえる。森の中の廃墟? そんな場所とのつながりはないはずだ。屋敷が建てられた当時に流行っていたモチーフだとか、同じ設計士によるものだから似ている、というわけではないのか。
「そっか。まあいいや。
 俺、明日は早く出るつもりなんだ。もう寝るよ」
 リンクは空のカップを置いた。クロスはうなずく。
「分かりました。以前あなたが片付けてくれた部屋があったでしょう、あそこを使ってください」
「どうも。相変わらずお茶うまかったよ。おやすみ」
 彼はかちゃかちゃと装備を鳴らしながら二階へ上がっていく。
 その後ろ姿をぼんやりと見送ったクロスは、違和感を覚えた。
(影が濃い……?)
 その影の中に、何かが潜んでいる気がした。
 ついに魔法に目覚めたからか、センス能力とやらがさらなる覚醒をしたのか、単にマリエルの例があったから影が気になったのか。理由は判然としないが、とにかくクロスはそこに何者かの存在を感じた。
(まあ、リンクさんの影に何がいても別にいいか……)
 まさか二人目の悪魔というわけではないだろうし、害のある存在ならマリエルが警鐘を鳴らしているはずだ。クロスは一人で納得して、大人しく自室に戻った。そのままベッドに直行する。
 目を閉じていても頭のどこかが冴えているようだった。眠気と疲労が全身に重くのしかかり、今にも夢の世界に旅立てるくらいなのに、「まだ考えるべきことある」と心が必死に抵抗している。
 うつらうつらしていると、静かな足音が近づいてきた。ドアの前に誰かが立つ。
 その人は、何かを呟いた。
 眠りへ誘う手からいつの間にか解放されたクロスは、その足音が消えるまでベッドの中にいた。
 のそりと布団から抜け出す。ドアの下には紙が挟んであった。「ありがとう」と、ただ一言だけ書かれていた。
 廊下に出ると、隣の部屋からマリエルが顔を出した。
「あの勇者、ハイラル城に行くつもりよ」
 クロスは相槌を打つのも面倒なほどに疲れ切っていた。唇を結んで彼女を見返す。
「これで放っておいても魔王は討伐されるわ。ゼルダ姫もすぐ救出されるでしょう。よかったわねえクロスさん」
 わざとらしく笑うマリエル。クロスは無意識に服のポケットに手を入れていた。冷たい感触があって、それを取り出す。
「それ、シークがあなたに渡した……この家のカギ?」
「いいえ。見たことのない形です」
 勢いで受け取ったが、これは一体何なのだろう。中庭の扉のカギではない。あそこにカギ穴はない。
 マリエルがクロスの手の中を覗き込む。
「あら、王家の紋章があるわね。これ、もしかして」
 シークはゼルダの体を使っていた。そして、ハイラル城から逃げ出してきた。
「お城のカギかもね。それも、相当重要な場所の」
 ああ、嫌な予感がする。
 ぎゅっとつむったまぶたの裏で、シークがあの余裕そうな笑みを浮かべていた。
「もしかして、これがないとリンクさんがガノンドロフのいる場所まで行けないとか……?」
「可能性は高いわよ」
 面白がるようにマリエルが目を細める。
「さあ、どうするのクロスさん?」
 シークは「家でおとなしくしていろ」と言いたかったわけではなかった。むしろクロスをけしかけて、魔王の待つハイラル城に向かわせようとしているのだ。
 これではシークの思惑にまんまと乗せられたようではないか。
(でも、身内の体が魔王に乗っ取られて、ハイラルを荒らし回っているとしたら……)
 唯一の血縁者としては、責任を取るべきだろう。クロスはそう結論付ける。
「マリエルさん、私と一緒にハイラル城に行ってもらえませんか」
 呼びかけられた彼女は、驚いたように眉を上げた。
「あなたのお守りをしろってことね。対価は?」
「私の魂と魔力でいかがですか」
 マリエルは大きく目を見開いた。次いで、にいっと唇の端を吊り上げる。
「いいの?」
 それが取り返しのつかない契約になることはジョバンニの例でも分かっている。だが、今はマリエルの力がどうしても必要なのだ。
「ええ。ただし、魂だの何だのを奪うのは私が死んだ後にしてください。あなたの感覚からすれば我々の寿命など大した長さではないのでしょう?」
 この程度の譲歩は許してくれるだろう。案の定、マリエルは鼻白んだが、すぐにうなずいた。
「まあ、ね。つまり魂の予約ってわけね。うん、その方が魔力も高まってるだろうし、都合がいいわ」
「この場合の死は、肉体から魂が離れて戻らなくなった状態ということでいいですよね」
「もちろんよ」
 クロスはふっと笑う。それは久々に浮かべたほほえみだった。
「契約成立ですね。よろしくお願いします」
 二人はかたく手を握りあった。
「約束したからには、あなたをきちんとハイラル城の勇者のところまで送り届けるわ」
 マリエルは頼もしく請け負ってくれた。
 準備を済ませた二人は玄関をくぐり、夜明けの近づく街路に踏み出す。ちょうど屋敷の時計の針が動き、かたりと音を立てた。
 クロスはやっと取り戻した家から出ていく。けれども後悔はない。
 何故ならそれは、いつか帰ってくるためなのだから。



「イリアめ、今頃になってようやく手紙をよこしてきおったか!」
 トアル村長ボウはたっぷりした腹を揺らし、にやける顔を隠しきれない様子だった。便箋を握りしめ、何度も同じ文章に目を通す。
「手紙を読んだら余計に寂しがるだろうと思って今まで出さなかった……なんて書いておるが、どうせワシのことなんてすっかり忘れておったんじゃろう」
 確かにイリアはつい最近まで父親の存在を忘却していた。村長に手紙を届けたノアは、曖昧にうなずく。
 彼は、記憶を取り戻したイリアから直接この手紙を預かってきた。忘れられた里で怪我をし、カカリコ村でしばし療養をしている最中のことである。
「ノアさんは旅をしているとリンクから聞きました。いつでもいいので、トアル村に寄ることがあれば、この手紙を父に届けてくれませんか。うちの父はトアルの村長なんです」
 イリアはそう言って封筒を渡した。ホテル「オルデ・イン」の一室でベッドの上にいたノアは、瞬きする。
「どうしておれに?」
 父親に手紙を届けたいのなら、ポストマンに頼むのが確実かつ最速だろう。「いつでもいい」とまで付け加えてノアに託す理由が分からなかった。
 イリアは口元をおさえてほほえんだ。
「実は、リンクに頼まれちゃって。リンクは、ノアさんがあんまりお休みしないことが不安みたいなんです。だからトアル村でついでにゆっくりしてほしいって言ってました」
「へえー。彼って結構分かりにくい気の回し方をするんだね」
 ちょうど別の用事で部屋にいたシャッドが、感心したように息を吐く。
 学者の彼は研究のためにカカリコ村を訪れ、新たな発見をしたらしい。さらにハイラル中を巡るつもりだと語っていた。その際には怪我の治ったノアに護衛を頼みたい、という話を持ちかけられ、ノアも了承していた。
「リンクなりの照れ隠しなんですよ」
 幼なじみらしく、イリアはざっくばらんにリンクを評価する。記憶を取り戻した彼女はもはや、リンクの負担になることはないだろう——ノアとは違って。
「引き受けた」
 彼は大事に手紙を押し抱いた。
 その後、精霊の泉や温泉水のおかげで無事に怪我を治した彼は、シャッドとともにハイラル各地の天空人の石像を巡った。
 カカリコ村の近くから、フィローネの森の中、ハイリア湖のほとりまで、石像は人里の外れにぽつりぽつりと点在していた。最終的にシャッドは「ここが一番やっかいなんだよね」と苦笑いしつつ、西のゲルド砂漠まで足を伸ばした。
 シャッドの体力には目を見張るものがあった。いかにも学者らしく細身の体なのに(ノアも他人のことは言えないが)、飄々とその足で稜線を越えていく。おまけに彼が愛用の地図で示したルートは、以前ノアが使った道なき道よりも、格段に歩きやすかった。
 シャッドとの旅はにぎやかだった。彼が一人でぺらぺら喋りまくるからだ。ノアがろくに相槌を打たなくても、お構いなしだった。
「天空人は絶対存在するんだよ。これだけ証拠が揃っているんだから間違いない。ボクはいつかこの目で姿を見てやるんだ、天国の親父のためにも!」
 目をキラキラさせて語る様子は、ずっと眺めていても飽きなかった。ぼんやり生きているノアからすると、夢を持って行動している彼は、本当に自分と同じ世界にいるのか疑わしくなるレベルだった。
 しかし、多くの時間を費やしたにもかかわらず、今回の旅では結局ほとんど収穫がなかったらしい。あちこちの石像の前で古文書を広げて呪文を試すシャッドの顔にも、どんどん疲労がかさんできた。最後に訪れた砂漠でも石像はうんともすんとも言ってくれず、彼は失意を抱えてハイラルに帰ることになる。
「うーんダメだったか……今度こそ核心に迫った! と思ったんだけどなあ。仕方ない、ボクはカカリコ村に戻るよ」
 二人は再び山を越えて、平原まで戻ってきた。そのままシャッドと別れたノアは、イリアとの約束を果たすため、手紙を携えてトアル村に足を向けた。
 ——ボウは愛娘の手紙から顔を上げ、ようやっと翠の青年に視線を戻す。
「とにかく配達してくれてありがとう。今日は……そうだな、リンクの家で休むといい」
「いいんですか」
「リンクからも許可をもらったんじゃろう? ワシはもちろん構わないよ」
 確かに以前村を訪れた時、「留守でも家は自由に使っていい」と言われた。しかし、村人やリンクの親切と釣り合うようなことは、ノアは何もしていない。その好意をどう受け止めていいか分からない。
(それに……おれはリンクをがっかりさせた)
 忘れられた里で取り乱していたリンクの姿を思い出すと、どうしてか息が苦しくなった。何度か喉をさすってみる。
 リンクの家は、村の外れにひっそりと建っていた。はしごを伝っておそるおそる上がり込む。村人たちが交代で掃除をしているのか、中は十分に整っていた。
 ノアはそれとなく部屋を見て回った。メインの生活空間は一階だ。天井は吹き抜けになっていて、小さな床が三階分まで設えられている。前回リンクは二階で寝ていた。
 壁には絵が飾られていた。「写し絵」と呼ばれるものだ。写し絵の箱という道具を使えば、目に見える景色をそのまま写し取ることができるらしい。ノアも本物は初めて見た。貴重な道具のはずだが、村で一台所有しているのかもしれない。トアル山羊を撮ったものが多いのは、仕事柄だろうか。
 写し絵の中に、牧童の格好をしたリンクがいた。いつもの緑衣とは違ってリラックスして見える。トアルの民族衣装らしい。
(勇者じゃない、トアルのリンク……か)
 シャッドとの旅の最中、ある噂を聞いたことを思い出す。
「ブルブリンたちの親玉って知ってる? あいつが城下町に入っていくのを見た、っていう噂があるんだよね」
 シャッドとともにゲルド砂漠を訪れた時は、前回と違ってブルブリンたちのアジトまでは行かず、砂漠のほんの入り口で引き返してきた。だから、あそこが今どうなっているかは確認していない。
 シャッドの言う通りキングブルブリンが本当に城下町に消えたとすると、ノアでは対処できない。しばらく前に雪山の廃墟から帰ってきて町に寄った時、門はいつも通り開いていたのに、見えない壁でもあるかのように押し返されてしまった。
(このまま全部、リンクに任せるしかないのか)
 勇者という称号に、ノアは特別な重みを感じていた。おとぎ話としての存在しか知らなかったにも関わらず、その重要さを誰よりも強く認識していた。
 リンクが勇者だというのなら、魔物の増えたハイラルに平和を取り戻せるはずだ。それは、ラネール観光協会の今後とも深く関わる。ノアとしても願ったり叶ったりでぜひ協力したいのだが、
(おれが手伝おうとしても、リンクは拒否するだろうな)
 忘れられた里で、リンクは本気で怒っていた。もっと自分を大切にしろ、とノアに言った。
 だが、そうすべき「自分」がノアにはない。
 まるですっぽり抜け落ちたように、記憶がはじまる最初から、そんなものはなかった。身寄りがなく、同じような立場だったはずのリンクは、どうしてああも生き生きとしているのだろう。自分のやりたいことを見つけられるのだろう。
 それは、ノア自身に問題があるから——彼にはそうとしか思えなかった。
 以前訪れた時に貸してもらった布団の中で、ノアはまんじりともせずにそのようなことを考え続けていた。
(……なんだ?)
 不意に胸騒ぎがして、体を起こした。
 宵闇に沈んだ森の中、外から聞こえてくるのは虫の音や葉擦れの音だけのはず。なのに今は雑音が混ざっている。どうも様子がおかしい。
 集中して方角を聞き分ける。ざわめきの発生源は森の外——北だった。素早く身支度を整えたノアは、少し考えて家の三階まではしごを登った。そこに小さめの窓がある。彼の体ならギリギリ抜けられそうだ。
 窓から外に出て、屋根の上に登った。抜群に良い視力で森の向こうを見通す。
(あれは)
 異音の聞こえる北の空に、黒っぽい影がいくつも飛んでいる。夜鳥のたぐいではない。あの大きさは、怪鳥カーゴロックではないか。それも見たこともないほどの群れだ。
 魔物が村に近づいてきている!
 ひょいと屋根から地面に飛び降りたノアは、村長の家に急行した。夜中にもかかわらず容赦なく扉を叩くと、村長はすぐに起き出してきた。
「ノア殿、どうされたんじゃ」
 ボウは血相を変えたノアを見て眠気が吹き飛んだらしい。
「村に魔物が迫っている」
 言い回しに気をつかう余裕はなく、単刀直入に説明する。
「なんと……それは本当か」
 夜目にも分かるほどボウの顔が白くなった。
「ファドが近頃また山羊が騒いでいる、と言っていたのはこのことだったのか」ボウは唇を噛みしめる。「子どもたちをさらっただけでなく、またしても……!」
 この村は以前にも一度、キングブルブリンたちに襲われている。未だに恐怖や恨みはその身に染み付いているだろう、とノアは推測する。
 二人は手分けして家々を訪ね、村の皆を起こした。
 村長の家の前に篝火が焚かれ、不安げに人々が集まってくる。身重のウーリを除いた全員だ。
 カボチャ畑の主人であるジャガーが、空を仰いだ。
「どうだハンジョー、見えるか」
 水車のある家の近くの高台でタカを操っていたのは、雑貨屋の主人だ。腕に大きな鳥をとまらせて、こわごわと答える。
「うん……カーゴロックだけじゃなくて、平原を歩いてくる魔物たちもいたって言ってる。多分ブルブリンだ」
 タカが空から確認したのだ。人々の間にさらなる緊張が走った。
 その時、ため息にまじってある囁きが聞こえてきた。
「こんな時、リンクがいたら……」
 それはノアの心の奥底を刺激する言葉だった。
(やっぱりみんなリンクが頼りなんだ)
 胸のあたりが熱くなる。
「とにかく、村の守りを固めるべきじゃろう」
 村長の発言に、「そうだな」と村人たちがうなずく。
「あっ、フィローネの森には油売りのキコルがいるじゃないの。彼はどうしましょ」雑貨屋のセーラが焦った様子でほおをおさえると、
「おれが連れてくる」
 間髪入れずにノアが立候補した。それまで黙っていた彼が突然前面に出てきて、村人たちは困惑する。
「でも、ノアさんは、たまたま巻き込まれただけだろう」
 牧場主のファドが首を振った。「それに、フィローネの森には魔物が迫っているんじゃ——」
「だから、おれが行った方がいい」
「まさか一人で戦うつもりなのか……!?」
 血相を変えた村長に向かって、ノアはあっさりとうなずいた。
「今この村で魔物と戦えるのは、おれしかいない」
 トアル村の中でまともに武器をとったことがあるのはリンクとモイ、それに村長くらいだ。以前訪れた際にそう聞いている。しかし現在、ここには村長しかいない。彼は人々の指揮を執るため村に残るべきだろう。打って出るなら、ノアが適任だ。
 村人たちは渋い顔を見合わせた。
「しかし……」
「とにかくキコルを村に連れてくる。その後、フィローネ地方との境にある吊り橋を落とせばいい」
 ラトアーヌとフィローネをつなぐ唯一の道には深い渓谷があり、橋がかかっている。あの橋を使用不能にして空を飛ぶ魔物さえ倒せば、村は守られるだろう。トアル村は一時的に相当な不便を強いられるが、それはこの場を切り抜けてからの話だ。
「そうしたら、あとはおれが向こう側に残ってなんとかする」
 平然と言い放つノア。村人たちは戸惑ったようにボウへと視線を集中させた。
「……ノア殿は、どうしてそこまでしてくれるんじゃ」
 ぽつりと村長が尋ねる。
「リンクやモイさんがいたら、そうするはずだから」
 ノアは澄み切った翠の瞳でそう答えた。
 彼には尊重すべき自分というものが分からない。だから、他人の大切なものを守ってみたら、自分の中で何かが変わるのかもしれない——彼の根底にはそんな思いがあった。
「すまない……」
 村長はうなだれる。なぜ謝るのか、ノアには理解できなかった。
 守りを固める人々を残し、手に持った一本の松明を頼りにすぐさま村を出る。
 リンクの家を過ぎて、ラトアーヌの泉の脇を通りかかった。そこはかつて子どものリンクが捨てられていた場所だ、と気づいて立ち止まり、胸に片手を当てて祈りを捧げた。
「どうぞ、お気をつけて」
 誰かの声が鼓膜を叩いた気がした。水面に松明の光がちらちらと揺れる。
 ノアは腰に佩いた剣の重さを確かめながら、森の奥へと急いだ。

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