第一章 月の呪い

Side Moon 1

 大きな時計の長針がまっすぐに天頂を指した。
 きっかり十二回、鐘が鳴る。その時計は町の中心にある塔に飾られていた。
「彼」は鐘の音に惹かれるように足を運んだ。すると時計塔の足元に、小さな布の包みがあった。
 包まれていたのは赤ん坊だ。気持ちよさそうに眠っている。そっと抱え上げ、頭に生えた金色の産毛をなでてやった。
 誰にも何も言われずとも、「彼」は理解していた。これから自分がその子を育てるのだと。
 なぜなら赤子は、この町に、そして自分にとって大切な――



 ぼーん、ぼーん……鈍い音が夢に侵入してくる。なんとなくその音から逃げたくて、「彼」はまぶたを開いた。
 開きっぱなしの窓からかすかな風が入ってくる。体を起こすと、はらりとふとんが落ちた。
 どうやら自分はベッドで寝ていたらしい。こぢんまりとした部屋だ。窓とベッドと小さな机、調度品はそのくらいしかない。
(どこだろう、ここ)
「彼」はこの部屋に全く見覚えがなかった。
 机の上に鏡が置いてある。おそるおそるのぞき込むと、知っているような知らないような顔がそこに映った。柔らかそうな白銀の髪が肩の下まで伸びていて、寝癖であちこち跳ねている。落ち着いた紅茶色の瞳がぼんやりとこちらを見つめていた。
 その時。突然、ノックもなしに扉が開いた。
「あっ!」
 その女性は持っていた水差しを取り落としそうになる。
「大丈夫ですか?」
「彼」は立ち上がり、駆け寄る。そこで初めて、寝間着のようなものを着ていることに気づく。
 女性はなんとかバランスを取って水差しを机に置く。そして顔を上げ、不思議そうに首をかしげた。垢抜けない膝下丈の長スカート姿だが、肩の上でそろえた茶髪に大きな双眸を持った、なかなかの美人だ。
「え? ええ、すみません。あの、あなたこそ大丈夫なんですか……?」
 女性に逆に問いかけられ、「彼」はきょとんとする。
「オレが? はい、平気ですけど」
「あの……あなたは一ヶ月、ここで寝ていたんですよ」
 一ヶ月も! 「彼」は仰天し、しばし絶句する。
「そんなに長い間寝て――ていうかオレ、何も覚えてないんです。どうしてここにいるのかとか、名前とか……全部」
 話せば話すほど、「彼」は自分の中が空っぽであることを意識せざるを得なかった。
 目覚めるまでの記憶は何もない。かろうじて、寝ている時に何か夢を見ていたような気がするのだが――。
「そうですか……お医者様は、そういう可能性もあるとおっしゃっていました。あ、ええと、ここはクロックタウンという町にある唯一の宿で、ナベかま亭といいます。私は経営者の娘のアンジュです」
 幸いなことにアンジュは落ち着いていた。おかげで「彼」もパニックにならずに済んだ。
 アンジュは椅子に腰掛け、「彼」にもベッドに座るよう促した。そして根気よく話しはじめる。
「一ヶ月前、あなたが東門の外に倒れていたところを、町兵が見つけたそうです。そしてお医者様に診てもらったのですが、あなたは外傷もなく健康そのもので、どうして目を覚まさないのか分からないと言われました。そんな方を、目覚めるまでの間ずっと病床に置くことはできなくて、ウチで引き取ったんです」
「彼」は目を白黒させる。「それは、相当ヘンな話ですね……」という感想しか出ない。
 アンジュは申し訳なさそうにうなずいた。
 身に覚えがなさすぎる。自分に起こった事件とは思えない。
「それから一ヶ月、オレは飲まず食わずで寝てたってことですか」
「ええ」
 その割には体の衰えも感じない。長く寝ていて今起きたというよりも、それまでずっと止まっていた時間が、急に動きはじめた感じだ。
「彼」は眉間にしわを寄せて考えはじめ――すぐにぱっと顔を上げた。
「あ! オレ、宿に一ヶ月も泊まってたんですよね」
「あ、はい」
「宿代払います!」
「彼」は、発見された時に自分が持っていたという荷物を探りはじめる。アンジュは呆気にとられたようだった。
「そ、それはありがたいんですけど、結構な代金ですよ? それに今年は例年に比べてお客さんも少ないですから、一部屋埋まっていてもそこまで問題じゃありませんし……」
「そうなんですか?」
 一度荷物を漁る手を止める。アンジュは開いた窓の外に物憂げな視線を飛ばした。
「あの月が、落ちてくるんです」
 月? 今は昼間のはずなのに……と「彼」は不審に思い、窓から顔を出した。
 そして、息を呑んだ。
「――っ!」
 空を埋め尽くすほどに巨大な岩の塊が、こちらをにらんでいた。決してそれは比喩ではなく、月に顔がついているのだ。歯を食いしばり町を押しつぶそうとしている。そこに悪意のようなものを感じ、「彼」は震え上がる。
「な、何ですかあれ!?」
 あんなものが空にあって、どうして町の人々は平気でいられるのだろう。記憶のない自分にだって、あの月が異常であることは分かる。
 アンジュはうつむく。
「一ヶ月ほど前、あの月が近づいてきている、と町の天文台で観測されたんです。ちょうど、三日後の刻のカーニバルの日に落ちると言われています」
 刻のカーニバル、と「彼」の唇は勝手に動く。
「避難命令は出ていませんが、自主的に町を出る人も多いんです。もうカーニバルどころじゃなくて……お客さんもすぐに避難したほうがいいですよ」
「でも、アンジュさんは?」
「私はまだ……その、待っている人がいるので」
 アンジュは言葉を濁す。
 なんとなく居づらくなった「彼」が「やっぱりお金払います」と告げると、彼女はそのまま宿代の計算をするため部屋を出た。階段を降りていく音で、「彼」はこの部屋が二階にあることを知った。
 今のうちに、と財布を探す。果たして、取り出したその革袋が財布であることは理解できたが、見覚えがなさすぎて本当に自分の持ち物なのか自信がない。しかし、「彼」の所有物はこのかばんと、その隣に置かれた立派な金色の剣だけだった。
 戻ってきたアンジュが提示した請求金額は、なかなかの桁数になっている。手持ちで足りるだろうかと一瞬不安になったが、財布をひっくり返すと無事に額面通りのルピーが出てきた。どの色の石にいくらの価値があるかも分かる。自分のことだけはさっぱり思い出せないのに。
 宿代を支払った「彼」は、とにかく一度外に出ることにした。町を歩けば知っている場所が見つかるかもしれない。
「お気をつけて」
 アンジュは玄関先まで見送ってくれた。
 発見された時に着ていたという旅装に着替え、持っていた紐で長めの髪をくくった名無しの青年は、太陽の光を浴びるクロックタウンに踏み出した。
 宿で配布している簡単な地図を頼りに、まずは中心部であろう南広場を訪れることにした。ナベかま亭のすぐ近くだ。
 石畳の上を大工が走り回っている。あちこちに貼られた同じポスターが目を惹いた。そして、町の中心にそびえる大きな時計塔が姿を現す。
「あれっ?」
 その文字盤に見覚えがある気がした。思わず立ち止まり、ぼうっと見上げてしまう。
「なんだ兄ちゃん、観光かあ?」
 通りがかった大工に声をかけられた。鍛え上げられた肉体の上に青い法被をひっかけている。
「彼」が今していることは観光なのだろうか? 半分くらい物見遊山気分なのは確かだが。
「あ、はい。あのー、これって何をしているんですか」
 時計塔の正面手前に、木材の山が積まれていた。それを材料にして、大工たちは足場のようなものを急ピッチで組み上げている。
「月見やぐらを組み立ててるんだ。刻のカーニバルの日にこの上で花火を見るのが通ってもんさ。でも月にビビった弟子が逃げやがって――じゃなくてサボったせいで、作業が遅れててな」
「た、大変ですね」
「兄ちゃんも刻のカーニバル、楽しみにしておいてくれよ」
「はいっ」
 カーニバルがどんなものかは分からないが、なんとなくその単語だけでわくわくしてしまう。
 それにしても、これほど月が迫り町に落ちる予測まで出ているのに、何故カーニバルが中止にならないのだろうか。
「彼」は時計塔のまわりをぐるっと一周してみた。しかし、見覚えがあったのは正面からの景色だけだった。
 暇そうにしていた屋台でパンを買って、そのあたりのベンチに座って食べた。一ヶ月ぶりの食事になるわけだが、胃は問題なく受け付けてくれた。
 食欲を満たした彼が次の行動を迷っていると、目の前に人影が現れる。
「きみが、ナベかま亭に泊まっていたという男か」
 立派な鎧と兜を身にまとった兵士だ。町中で何度か同じ格好の男を見たので、おそらく町兵の一人だろう。
「はい。あ、もしかして一ヶ月前にオレのことを見つけてくれた人ですか?」
「そうだ。倒れていたきみを、我々クロックタウン町兵団で保護したんだ。無事そうで何より」
「どうもありがとうございましたっ」
「彼」は慌てて立ち上がり、深くお辞儀をする。
「私はバイセン。町兵団の長をしている。さっそくで悪いんだが、きみもこの町から避難してほしいんだ」
 どきりとした「彼」は直接の返答を避け、「でも他の人たちは?」と尋ねる。
「実は、まだ正式な避難命令は出ていないんだ。ずっと町長公邸でそれについて会議をしていてね……」
 兜に隠れて表情が見えないが、口調の苦々しさからバイセンの気持ちは明白だ。
「あのう、オレのことを知ってる人ってこの町にいなかったんですよね……?」
「ああ。すまないが、何も手がかりはないんだ。もしかすると、キミは別の地方からやってきたのかもしれない。
 ……そうだ、大妖精様に聞いてみたらどうだろう」
「大妖精様?」
 バイセンは坂の上にある洞窟の入り口を指さした。
「あの中にいらっしゃる方だ。妖精たちの女王とも言われるほどの力を持っていて、クロックタウンの平和を守ってくださっている。自分の力でどうにもならないような困りごとがあれば相談するといい、と聞いたことがある」
「分かりました。ありがとうございます」
 バイセンはもう一度避難するように念を押して、去って行った。「彼」はさっそく坂を上って洞窟の入り口を覗いてみる。
「こんにちはー……」
 返事はなかった。洞窟が真っ暗だったらきびすを返していたところだが、奥の方に光源があるらしく少し明るくなっている。勇気を出して足を踏み入れてみた。
 十数歩行くともう最深部だった。洞窟の中なのに石張りの空間だ。きれいな正円形をした泉はこんこんと湧き上がる水で満たされている。その周囲に柱が何本も立って、天井を支えていた。
「大妖精様、いますかー?」
 いかにも何かが出てきそうな雰囲気なのに、それらしき人物はどこにも見当たらなかった。
「留守なのかな」
 誰かに行方を聞いてみよう、と外に出る。気づけばもう日が暮れかけていた。時間の流れの速さに驚くが、そもそも目覚める時間が遅かったのが原因だと思い当たる。
 ――と、その時。
「あいたた! アブナイじゃないか!」
 しわがれた悲鳴が聞こえてきて、「彼」は弾かれたようにそちらを見る。
「モッ、モノ取りじゃ! ババの荷物返しておくれ!」
 ひょろりとした男が大きな風呂敷を背負い、坂の下の草地を走り去るのが見えた。その背後では老婆が地面にへたりこんでいる。
(ど、泥棒? こんな場所で堂々と!)
「逃がさないぞ、サコン!」
 近くの北門からやってきた町兵が槍を構えて威嚇すると、サコンと呼ばれた泥棒は身を翻す。「彼」は反射的にその後を追いかけた。
 スリは西地区の方へ向かった。道幅が狭く、高低差があって視線が通りにくい場所だった。
「……あれ、おかしいな」
 町に慣れていない「彼」は、あっという間に見失ってしまった。
 それでもまだ町からは出ていない――西門を通った可能性は低いと判断する。「彼」は町の中を注意深く観察してみた。
 西地区の中心を貫くゆるやかな階段に沿って、商店の入口がいくつも並んでいる。その中に、少しだけ開いた扉があった。看板には「マニ屋」という名称だけが刻まれており、何も説明はない。
「彼」は意を決して店に突入した。
「ごめんくださーい」
 店内は、夕暮れを迎えた町と同じくらい薄暗かった。間口が狭い代わりに奥行きが深い。おまけに両側に陳列棚があるため、余計に狭苦しくなっている。
「彼」はおっかなびっくり奥に進んだが、途中で棚に肩がぶつかり、一つのビンが転がり落ちてしまった。
「うわっ」必死にキャッチした。すると、ビンは急に青い光を放った。
 ビンを目の高さに持ち上げる。光は弱々しく明滅していた。
(生き物が入ってる……?)
 じっと見守っているうちに光は消えてしまった。刺激を与えすぎたせいか、と慌ててふたをあける。渾身の力を込めなければいけないほど、ふたはかたく閉じられていた。
 ビンをひっくり返して手のひらに「それ」を落とす。マニ屋の店内を明るく照らすほどの強さで、清らかな光が蘇った。球形に見える光からは四枚の薄い羽が生え、手から離れてふわりと浮かび上がる。
「彼」が見つめる先で、その光は声を発した。
『あなたは……?』
 尋ねられた瞬間、「彼」は自分が名前すら持っていないことに気づいた。
 それまでずっと棚上げにし続けていた疑問が、脳裏をよぎる。
 ――オレは一体誰なんだろう?



「オレは――」
 それきり言葉に詰まった「彼」を見かねたのだろう、先に光が言葉を発する。
『失礼しました、助けていただきありがとうございます。私は妖精……アリスと申します』
 可愛らしい声だ。見た目は光の玉だが、どうも女の子らしいと「彼」は判断した。
「アリス? 妖精さん……なんだね」
『妖精を見たことがないのですか?』
「うん。さっき大妖精様に会いに行ったらどこにもいなかったし」
『え!?』
 何げない発言だったが、妖精アリスは焦ったように震える。
『大妖精様がいない? それは、一体どういう――』
「なんや兄ちゃん、お客かいな」
 無遠慮な呼びかけに、「彼」はびくりと肩をふるわせた。いつの間にか背後に人が立っていたのだ。店員らしき男である。はげ上がった頭を隠さずに晒し、室内にもかかわらず黒い色眼鏡をかけている。そのせいか、はっきり言ってあまり人相が良くない。
 店員を見たアリスはそっと「彼」の背後に隠れた。
「すみません、勝手に入ってしまって」
「いくらお客さんといえど、ウチの商品に勝手に触るんは感心せえへんな」
 店員の鋭い目線は空になったビンに注がれていた。
「あ、もちろんこれはオレが買います!」
「彼」はすぐに財布を取り出す。店員は値踏みするような目つきになった。
「じゃあな……二百ルピーでどうや」
「はい、どうぞ」
 即座に渡した。店員は驚いたように少し目を大きくし、面白くなさそうにルピーを受け取った。
「彼」はマニ屋に来たもともとの目的を思い出した。
「あ、そうだ。ここに大きな荷物を背負った人が来ませんでしたか」
「荷物? いや、別に……」店員は視線をそらした。何故だかごまかされた気がする。「彼」が追求しようとした瞬間、店員にばしんと背を叩かれた。
「ほら、品物受け取ったらすぐ帰る! 毎度ありぃ!」
「彼」とアリスはマニ屋からほとんどたたき出されてしまった。結局手がかりは掴めないまま。
 外はすっかり夜だった。町のあちこちに明かりがともっている。その中でも、妖精の青い光はより幻想的に見えた。
「えっと、キミはどうしてあんなところにいたの?」
『それが……覚えていないんです。気づいたらあそこに、ビンの、中にいて』
 徐々に暗くなるアリスの声を遮り、「オレと同じ!」と叫んだ。
『え?』
「彼」はにっこり笑う。
「さすがにビンの中じゃなかったけど、オレも自分のこと全然覚えてないんだ。あ、でもアリスは自分の名前は分かるんだよね? いいなあ」
『ええ。ですが、名前以外は全く……どうしてマニ屋にいたのかも覚えていません。あなたはお名前が分からないんですか?』
「そうなんだよ。だから大妖精様に会って、何か手がかりでも教えてもらえないかと思ったんだけど」
 アリスは真剣な様子でしばらく考え込む。
『大妖精様がいらっしゃらない……というのは、何か非常事態が起こっているのではないでしょうか』
「そうかもね。そもそも月が接近してきてるっていう大変な状況だし」
 このタルミナで何かが起こっている。その最中に目覚めたのは良いことだったのだろうか、それとも。
 などと考えていると、アリスがこちらを見つめた――気がした。
『あなたは記憶の手がかりを見つけたいんですよね? でしたら、その……手伝っていただけませんか』
「手伝う?」
 アリスは空を振り仰いだ。町を囲む外壁の、さらに向こうを眺めているようだ。
『クロックタウンから見て東西南北にある四つの地方には、それぞれ一人ずつ大妖精様がいらっしゃるのです。その方々が無事でおられるのか、町の大妖精様と同じように失踪されているのか。誰かが確かめるべきだと思うのです。
 そこで、勝手なお願いですが――』
「いいよ」
 と、「彼」はアリスが頼む前に即答した。妖精は驚いたように体を震わせた。きらきらと光の粉が散る。
『い、いいのですか? 四方はどこも町から離れた場所にあります。この先、困難なことがあるかもしれませんよ』
 リスクまで説明してくれるとは、なんて律儀な妖精さんだろう。「彼」はアリスにより一層の好感を抱いた。
「うん。どうもオレって、クロックタウン出身じゃないみたいだから。いろんな場所に行った方が記憶も戻って、知り合いなんかにも会えるかもしれない。オレの方こそ、アリスを手伝わせて」
 アリスは感極まったように声を上ずらせる。
『ありがとうございます……!』
「彼」はすっかり照れてしまい、それを隠すためにこぶしを振り上げる。
「じゃあ、さっそく旅立ちだね!」
 もちろん、泥棒のことを忘れたわけではない。ついでにそちらの手がかりも探すつもりだった。
 勢いに任せ、地理も分からないのに近くの西門に直行しようとして、目の前に飛び出してきたアリスに制止される。
『あの! あなたは自分のお名前を知らないんですよね……?』
「そうだよ。困ったもんだよね」と気楽に答えると、
『でしたら、仮にでもお名前をつけられた方が良いのでは? この先何かとお役に立つと思います』
「うーん。不便なのは確かだけど、名前かあー……」
 仮といえどあまり凝った名前をつけたら、いざ本当の名前が分かった時に混乱しそうだ。
 そこであるアイデアを思いつき、ぴんと人差し指を立てた。
「なら、アリスがつけてくれないかな」
『え!?』
「オレの名前だよ。自分じゃセンスない名前つけそうでさ。お願い!」
「彼」は恥ずかしげもなく妖精に頭を下げた。
『ええと……分かりました』
 アリスはしばらくあたりをぐるぐる回る。真面目に悩んでいる様子だった。
 やがて、物柔らかな声がその名を告げる。
『あなたのお名前は――ゼロ。ゼロさん、はいかがですか?』
 青年の表情は、みるみる喜びの色に彩られる。
「ゼロか。それって数字のゼロ、何もないってことだよね。うん、オレにぴったりかも。ありがとうアリス!」
 おおはしゃぎするゼロに、照れたように青い光が明るくなる。
「それじゃ、改めて大妖精様探しの旅に出発!」
 最初の一歩を踏み出そうとした時、盛大にゼロの腹の虫が鳴いた。
「――したいところだけど、お腹減ったし眠いから明日にしようか?」
 照れ笑いする彼に、『私も賛成です』という笑いをこらえた声が重なる。
 記憶はなくても、そばにいてくれる妖精がいる。名前だってつけてもらえた。
 ビンに入るくらいの小さな光なのに、ゼロは心細い部分を照らされるような、この上ない頼もしさを感じていた。

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