第二章 後ろ姿

Side Moon 2

「……なんか、よく眠れなかったなあ」
 などとぼやいているが、ゼロは薬屋の誰よりも遅く起きた。睡眠を必要としないアリスはただ寝顔を見守るだけだったが、いつもそれで妙に落ち着く時間を過ごせる。
 ボートクルーズにのんびり揺られるゼロは、うそ寒そうに両腕を掻き抱いた。
「あの拷問のお面の話、ちょっと怖くなかった?」
『夜更かしのお面のことですね』
 夕食をごちそうになり、夜も更けてきた頃、薬屋の老婆二人が眠そうにしているゼロに代わる代わる話したのだ。タルミナのどこかに、つけているだけで眠れなくなるという拷問器具のお面があるらしい。お面といえば刻のカーニバルでかぶるものであり、タルミナの人々はたいていお気に入りのお面を持っているが、そのような力を持ったお面があるとはアリスも初耳だった。
「そうだ、写し絵コンテストがあるんだった」
 ゼロは慌てて写し絵の箱を取り出した。パシャパシャとあちこち映している。あまり早くシャッターを切るとピントがぶれてしまうのでは、と心配になってしまう。
 流れ落ちる滝を横目にいくつもの沼を超えて、ある船着き場でボートはひとりでに止まった。これも魔法なのかもしれない。
『デクナッツの城ですね』
 沼地の奥に巨大な建造物が出現していた。ゼロは感動したようにため息をつく。
 正門前にはデクナッツの門番が二人立っていた。ゼロと背丈がずいぶん違うので、話しかけるために腰をかがめることになる。
「あのーすみません。このあたりに妖精の泉ってありませんか?」
 門番は何故かゼロには目もくれず、アリスだけを凝視していた。
「妖精ッピ……」「姫様に知らせるッピ!」
 突然血相を変えて門番の使命を放り出し、王城に向かうデクナッツたち。ゼロとアリスは顔を見合わせる。
 もう入っちゃっていいのかな、と遠慮がちに門を通ろうとした、その時。
「妖精さんです!」「妖精さんだー!」
 王城の方から、ピンクの花弁で頭を飾ったデクナッツと、白い体毛のサルが一直線に突っ込んできた。ゼロは「うわっ」と身を引く。ちぐはぐな組み合わせの二人の後ろには、数えるのも面倒なほど大量の兵士がひしめき、狭い廊下を駆けてくる。
「確保しなさい!」
 服装や漂う気品から、先頭のデクナッツが王国の姫のようだ。彼女の命令で、わらわらとデクナッツ兵士たちが近寄ってくる。
「アリス、とりあえず隠れて!」
『はいっ』アリスはゼロの懐に入った。
 妖精に向かって手を伸ばすデクナッツたち。剣を抜くわけにもいかず、ゼロは両手でなんとか押しのける。
「な、なんですかいきなり!?」
「妖精だったら大妖精様の居場所を知ってるはずだッピ!」
「オレたちも大妖精様を探しに来たんです!」
 デクナッツの群れにほとんど飲み込まれそうになりながら、ゼロは必死に叫んだ。兵士たちの動きがぴたりと止まる。
 下がりなさい、という命令が響く。兵が引いていき、ゼロはなんとか窒息死から免れた。
 前に出てきたのは指導者らしきデクナッツの姫とサルだった。
「……では、そこの方は沼の妖精ではないと?」
 姫の問いかけに、アリスはおそるおそる外に出る。
『わ、私は町から来ました』
 姫は一瞬で顔色を失った。
「失礼しましたっ!」
 勢いよく頭を下げた拍子に、ポニーテールのような葉っぱがぴょこりと宙に跳ねた。
「まさか、私がお父様のような早合点をするなんて……この国の姫であるというのに、お恥ずかしい限りです」
 顔を真っ赤にしている。サルがぽんぽんとその肩を叩いていた。
 ゼロはやっと息を整えた。
「あのう、何があったんですか?」
「少し前から大妖精様が泉にいらっしゃらないのです。私は、何かこの沼に異変が起こっているのではないかと考え、行方を探していました」
 異変といえば、以前の新聞に書かれていた毒沼事件が思い浮かぶ。
 ゼロは手をあごにあてて考え込んだ。
「海の大妖精様の時は、泉に行けば声だけ聞こえたけど……それもないってことなんだね」
『もしや、ご自分で妖精珠を探しに行かれたのでは?』
「そっか。妖精珠の居場所に心当たりがあったのかも。でも、どこ行っちゃったんだろう」
 不意に、ゼロの体に大きな影が差した。
 太陽を遮るのは、翼を広げた大きなフクロウだ。
「ホーホッホッホ。沼の大妖精は、ウッドフォールの神殿におるぞ」
 老獪そうな声が降ってくる。その言葉はフクロウのくちばしから発せられたらしい。
 しかし、アリスは喋るフクロウよりも、驚いて引き下がるデクナッツたちよりも、かたわらの青年の発する気配ががらりと変わったことに気を取られていた。
 ゼロの様子がいつもと違う。感情が高ぶったのか瞳が緋色に染まり、全身に警戒をにじませながら姿勢を低くする。戦闘態勢の時よりもっと危険な雰囲気をまとっていた。
『ゼロさん……?』
「お前は誰だ」
 腹の底から低い声を出す。アリスの呼びかけも耳に入らないかのように、ただフクロウだけを注視している。
 一体彼はどうしてしまったのだろう。戸惑いと不安がアリスの中で膨れ上がった。
 フクロウは刺すような視線を向けられてもお構いなしに、話し続ける。
「ワシはタルミナの行く末を見守る者。良ければ神殿までお主を運んでやろう」
『ゼロさん、ゼロさん。この方は大丈夫です……邪悪な気配はしません』
 そこで初めてアリスに気づいたように、ゼロは唇を歪めた。頭を振って、しばらくうつむいている。
 もしや、これは彼の持つ記憶の片鱗なのだろうか。
 アリスは唐突に悟った。戦いが体に染み付いた習慣だとしたら、このフクロウに対する態度だって同じかもしれない。
 しかし、あまりにも不吉すぎる。本当は記憶なんて取り戻さないほうがいいのかもしれない――アリスはそんな思いを振り払った。
 やっと顔を上げたゼロは、フクロウに目を合わせなかった。
「分かった。その神殿とやらに連れて行ってくれ」
「ならばワシの足につかまるのじゃ」
 羽ばたきながら降下してきた両足に、ゼロは両の手をそれぞれかける。
 青年の体はふわりと地面から浮き立った。
「お気をつけて! 私たちも後から追いかけます!」
 デク姫たちに見送られながらデクナッツの城を出発した。不自然に無言を貫くゼロに、動揺を隠しきれないアリス。フクロウはそれぞれの思いを抱えた二人を、はるかな高台へと運んでゆく。



「ここがウッドフォールの神殿……」
 大きな沼の真ん中に、ピラミッド状の巨大建造物がそびえていた。すでにフクロウは飛び去った後だった。
 別れ際、ゼロが「この輪はなんだ」とフクロウに問いかけた。彼の手には黒っぽい紐でつくられた輪っかがのっていた。どうもフクロウの足に巻かれていたようで、ゼロが手を離した時一緒に外れてしまったらしい。
「それは……誰かの忘れ物じゃ」
「忘れ物?」
「良ければ届けてくれんかの」
 ゼロは困ったようにアリスを見上げた。要領を得ない回答だった。
 もしや、フクロウはこれを渡すためにゼロに接触したのだろうか。そもそも、どうしていきなり助けてくれたのか、結局語られることはなかった。
「手がかりも何もないんだけどなあ……」
 と言いつつきちんと荷物にしまうあたり、ゼロは律儀だった。
 ウッドフォールの神殿の入口は四角く切り取られ、内部は濃密な闇で満たされている。フクロウの話では、ここに大妖精がいるらしい。
 神殿を覗き込もうとして、気持ち悪さがこみ上げる。
「アリス、大丈夫? なんかふらふらしてるけど」
 細やかに妖精を気遣う様子は、すっかりいつものゼロである。
『はい……平気です』
 神殿から漂う邪気に当てられたのかもしれない。万全の調子とは言えなかった。
「辛かったらここで待っててよ。俺が妖精珠を探してくるから」
『で、ですが――』
『ねえ、何こんなところで痴話げんかしてんのー?』
 突然、聞き覚えのない声が割って入った。
 二人の間には桃色の不思議な生物がいた。頭についた小さな羽で飛んでいる姿は妖精の一種のようだ。すねたように口をすぼめていて、なんだか見ているだけで脱力する顔である。
 しかしこの気配には覚えがあった。
『あなたは……沼の大妖精様!』
「え、嘘。このひとが?」
 ゼロが驚くのも無理はない。海の大妖精とは似ても似つかぬ姿だったのだ。
『そうそう、そのとおり。あんたたちは、あたしを探しに来てくれたってわけ?』
 堂々と胸を張る。自信に満ちた物言いから、ゼロもなんとか納得したらしい。
『ええ……ご無事で何よりです。デクナッツたちが心配してましたよ』
『そうか、悪いことしたなあ。でもあたしの妖精珠がここにいるんだ、見つけてやらないとね』
 口調は軽いが、彼女は確かに大妖精にふさわしい責任感を持っていた。
 ゼロは小声で尋ねる。
「もしかして、沼の大妖精様もスタルキッドってやつにやられたんですか」
『よく知ってるわね。まったく、小鬼だからって舐めてたら大変なことになっちゃったわ。
 ね、あんたたち、あたしの妖精珠探し手伝ってくれない? あとでお礼するからさ!』
「もちろん、オレたちはそのつもりで来たんです。オレはゼロ、こっちはアリスって言います。よろしくお願いします、大妖精様!」
 ゼロは手を差し出した。「ありがとう!」と大妖精は小さな手で握手する。こうして清々しく言い切ってくれるのは、アリスにとってもありがたかった。
『妖精珠たちは、あたしが近くにいれば寄ってくるはずだから。それじゃあさっそく神殿探索よろしく!』
「うわっ」
 どん、と背中を押し出され、ゼロは不可抗力で神殿に突入した。アリスも後を追った。大妖精がいるおかげで、神殿に漂う嫌な感じはずいぶん軽減している。
 内部は真っ暗だったので、ゼロは何度もまばたきして早く闇に慣れようとした。剣は抜いていなくとも自然と体が警戒態勢に入っている。魔物の気配を感じ取ったのだろう。
 大妖精は勝手知ったる場所のようにすいすい進む。
『まずは手始めにあの泡を壊して!』
 泡、と言われてもぴんと来なかったが、大妖精が指さした方向――神殿の天井付近には薄い膜を持つ球体がふよふよ浮かんでいた。その中に妖精珠が入っているようだ。ただの泡ではなく、どうも結界のような力が付与されているらしい。おそらく、スタルキッドに閉じ込められたのだろう。
「おっ。ついにこの弓の出番だね!」
 ゼロは背中から弓を外すと、矢をつがえて力いっぱい引き絞る。構えは堂に入っていて、アリスは思わず見とれてしまう。ほんの数瞬呼吸を整えた後、矢が放たれた。勢いは十分だ。まっすぐに飛んだ矢は見事に泡を破る。中から妖精珠が出てきて、こちらにふわふわ引き寄せられてきた。
『ナイス! じゃあ二人とも、その調子で頼むよー』
 ゼロたちの警戒に反して、神殿内に大した魔物はいなかった。闇に潜むクロボーや口裂け植物デクババなど、彼の弓と剣があればどれも問題なく撃退できる程度だ。
 安堵するアリスに、大妖精がすり寄ってきた。
『ね、あんたの名前アリスって言ったよね』
『ええ……』
 またこの目線だ。海の大妖精の時と同じ、何らかの意味を持つまなざしを向けられる。
 ゼロはそれに全く気づいていないようで、
「実はオレもアリスも記憶喪失でして。今、タルミナ中をまわって大妖精様を助けながら手がかりを探してるんです。前に助けた海の大妖精様は、オレの記憶は外にあるって言ってました。で、アリスはあちこちの大妖精様が力を取り戻すと、記憶が戻るみたいなんです」
『へえ、そっかあ。早く戻るといいね!』
 大妖精は思いっきり含みのある言い方をした。アリスはなんだかそわそわする。
 ゼロは桃色の大妖精をじっと見つめ、ずっと気になっていたらしいことを尋ねた。
「あの、大妖精様って妖精珠がないとそんな姿なんですか?」
『そうだよ。海の大妖精はきっとこんな顔見せなかったでしょ。あの人プライドが高いから見せたくなかったんだよ、きっと』
 今の沼の大妖精は本来の美しい姿とは大違いの、ほのぼのした見た目をしていた。海の大妖精の気持ちもなんとなく分かる気がする。
「海の大妖精様とお知り合いなんですね」
『姉妹だもの。海が長女、あたしが次女、山が三女で、谷が四女、町にいるのが末妹』
「五人姉妹なんですか。アリスもお姉さんがいるって話してたし、妖精ってきょうだいが多いのが普通なんですね。それじゃあ町の大妖精様のこと、心配ですよね」
『あの子のことだから大丈夫だと思うけど。あたしたちの中でも一番力が強かったし』
 ゼロは「へえ」とうなずく。アリスは何故かどんどん落ち着かなくなってくる。
 一行は廊下を渡り、目についた扉に向かう。大妖精がぽつりとつぶやいた。
『ところで妖精珠、残り一個なんだけど……どうも最後のは厄介なやつが持ってるみたいでね』
「厄介なやつ? あっ」
 開いたばかりの扉が背後で勝手に閉まった。閉じ込められた、とゼロは青くなる。
 広い部屋だった。ゼロの背丈の半分もある巨大なカエルがそこで待っていた。体表はオレンジ色で、大きな口の中にぎざぎざの歯が生え揃っていた。おまけにカエルは大亀のスナッパーまで引き連れている。
「もしかして、こいつが最後の妖精珠を持ってるんですか……?」
『そうよ。ほら、がんばってー!』
 大妖精の無責任な応援を受け、ゼロが剣を抜く。
『ゲッコーとスナッパーです!』
 カエルのゲッコーに亀のスナッパーだ。フシギの森で遭遇した時のように、スナッパーがその場で回転して力をためていく。その上にゲッコーが飛び乗った。
『連携が面倒ね。先に足を潰すのよっ』
 猛スピードで突っ込んでくるところまでは同じだが、ゲッコーがいる分余計に避けづらくなっている。スナッパーの上から手を伸ばして引っ掻こうとしてくるのだ。牙と同じく爪も凶悪で、あの速度ならかするだけでも出血は避けられない。
 先にスナッパーを倒すべき、という大妖精の言葉に従いたくても、今のゼロはデクの実を持ってなかった。
 魔物が交互に繰り出す攻撃をひたすら避ける。防戦一方のようだが、ゼロは必死に突破口を探しているに違いない。
 なんとか彼に力を貸したい。アリスは声を張り上げる。
『ゼロさん、弓矢は使えませんか!?』
「そっか!」
 大きく飛び退いてスナッパーと距離を離し、弓を引いた。狙うは刹那――相手が方向転換のために止まった瞬間だ。硬い甲羅から飛び出した首をターゲットにする。
 必殺の気合とともに放たれた矢だが、狙いがぶれて甲羅に弾かれた。敵はまっすぐ突撃してくる。慌てて身を引いたが間に合わず、ゲッコーが伸ばした爪でゼロの腕が切り裂かれる。
「ぐっ」
 アリスは悲鳴を飲み込んだ。ゼロはよろめいたがぐっと足を踏ん張った。腕には血がにじんでいる。スナッパーはそのまま駆け抜けていった。
『来るわよ!』
 ゼロは袖で汗を拭った。
 剣に比べて弓の扱いはそこまで得意ではなかったのかもしれない。余計な口出しをしてしまったのでは、とアリスは不安になる。だが、全て彼に任せているのに外野が勝手に落ち込むのは一番良くないことだと考え直した。今できるのはゼロを信じ抜くことだけだ。
 もう一度、同じチャンスがくる。腕の痛みに顔をしかめつつも、彼は諦めず矢を射った。
『やったっ』
 完璧なタイミングで飛んだ矢が、見事にスナッパーの首を貫いていた。足場が急停止したことで、上のゲッコーはつんのめって前に弾き飛ばされる。そこに剣を両手で握ったゼロが待ち構えていた。
 左から右へ斬撃が走る。ゲッコーは一撃で頭と胴体を切り離された。二つに分かれた体がべしゃりと地面に落ちる。
 ゼロは肩で息をして、怪我した左腕をきつく掴んでいた。
『ゼロさん、腕が……』
「大丈夫だよ。ちょっと切れちゃっただけだから」
 彼は笑みを見せるが、顔色が悪い。アリスは助けを求めて大妖精を振り返った。
 沼の大妖精は、どこからともなく姿を現した桃色の妖精珠を迎えに行っているところだった。
『これで全部だよ! ありがとうゼロ、アリス!』
 その歓声を聞きながら、アリスの心はどこか遠い場所へと運ばれていく。
 記憶が戻ってくる。その感覚は、二回目にしてすでに馴染みのあるものになっていた。



 丘の向こうに石造りの城が見える。頂きには一本だけ大きな木が生えていて、その根本に青年がよりかかっていた。
 あるかなしかの風に銀の髪がなびいている。瞳は燃える夕日を映したような赤だ。
(ゼロさん……?)
 表情によっては冷たく見えてしまう容貌だが、それは穏やかなまなざしによって軽減されていた。青年は「こちら」に気づくと、立ち上がった。
「アリスさん」
 何故か彼女をさん付けで呼ぶ。
「ごめんなさい、また迎えに来てもらって」
 いつもの彼と態度が違った。どうも、アリスに敬意を持って接しているらしい。
「今回はお昼寝していないようでしたね」
 自分が発したと思しきその声に驚いてしまう。らしくもなく、少し不機嫌がにじんだ調子だった。
「それよりも、あの、私の名前……」
「いやあ、せっかくアリスさんにはお名前があるんだから、呼んだ方がいいのかと思って。迷惑でしたか」
 さみしげに笑う彼に、どういうわけかアリスの胸は苦しくなる。
「いいえ……あなたには、お名前がないのでしたね」
「うん。そもそも必要ないからなんだけど」
 隣を歩いて丘を下りながら、アリスは励ますように言った。
「いつか必要になりますよ」
「それはこの戦いが終わった後だろうね。
 そうだ。その時は、アリスさんがオレに名前をつけてくれないかな?」
 彼は月のように淡い笑顔を浮かべた。
 それになんと答えたのか――アリスはどうしても思い出せなかった。



「アリス? どうしたの」
 はっとした。思わぬ間近にゼロの顔があった。
『いえ……失礼しました。なんでもありません』
 そこは沼の大妖精の泉のようだった。一体いつからぼんやりしていたのだろう? 
「なら良かった。沼の大妖精様がいよいよお披露目だよ」
 見れば、まわりにはデクナッツの姫たちも控えていた。神殿攻略には間に合わなかったが、ここまでやってきたらしい。
 沼の大妖精は桃色の光とともに泉の真ん中に姿を現した。海の大妖精よりも活発そうな顔立ちだが、類まれなる美貌であることに違いはない。何よりも、その場にあふれる魔力の大きさに、ただの妖精であるアリスは圧倒されてしまう。
「やっほー、もとに戻してくれてありがとう。約束通りお礼をするよ」
 見た目がこうなっても性格まで変わるわけではないので、大妖精が口を開くと同時にゼロは脱力する。
 その腕の傷はすでにふさがっていた。アリスがぼうっとしている間に治療していたに違いない。
「海のお姉さんが弓矢だったから……よし、あたしも矢にしよう。ほら、炎の矢だよ!」
 ゼロは赤い矢じりのついた矢を授かった。先端に刺激を与えると炎が吹き出す魔法矢だった。「ありがとうございます」と彼は顔をほころばせる。
 そこで、ふと紐のようなものを大妖精に差し出した。
「そういえば、この忘れ物の持ち主って分かりますか?」
 フクロウからの預かりものだった。無理やり押し付けられたようなものなのに、案外気にしていたらしい。
「仕方ないなあ、サービスで教えてあげるよ。それはねえ……」
 沼の大妖精はそっとまぶたを閉じた。長いまつげを強調するように。とたんにゼロは頬を紅潮させ、肩のあたりに緊張をみなぎらせた。アリスは何故か気もそぞろになる。
 やがて大妖精はそっと答えを告げた。
「その持ち主は、明日――いや、おとといの牧場にいるよ」
 あまりにも確信的な物言いだった。ゼロとアリスははっとして目線を交わす。
「大妖精様、それはもしかして――」
 沼の大妖精は面倒くさそうにひらひら手を振る。
「さあ、行った行った。こんなところで油売ってないで、早くあたしの姉妹を助けてあげてよねっ」
 デクナッツたちもいる手前、話しづらかったのかもしれない。ゼロたちは追い立てられるように洞窟の外に出た。
 そこはウッドフォールの神殿がある大きな沼のほとりだった。これだけ近くに神殿があるため、大妖精も自ら妖精珠を探しに行こうと思ったのかも知れない。
 デク姫とサルはそろって頭を下げた。
「おかげで沼の異変は全部元通りになりました。ありがとうございました」
 ゼロは相変わらず謙遜し、「たまたまオレの目的と同じだっただけです」と笑っている。
「そうだ。ちょっと前まで、このあたりの沼には毒が流れてたって聞いたんですけど……」
 探りを入れるつもりのようだ。デク姫は急に不透明な表情を浮かべる。
「はい。ですが――あるデクナッツが神殿に取り憑いた魔物を倒して、沼を浄化してくれたんです」
「へえ!」
 顔を輝かせるゼロとは対照的に、アリスの内心は疑問でいっぱいだった。
 神殿の魔物を倒したのは、時を巻き戻した張本人である可能性が高い。それが本当にデクナッツなのだろうか? 
「もしかしてそのデクナッツは姫のお知り合いですか」
「ええ……ずっと顔を見なかったのに、いきなり帰ってきたかと思えば、またいなくなってしまって。もしどこかで彼と会ったら、よろしく言っておいていただけますか」
「あ、はい」
 話の流れにゼロはいまいちピンときていないらしい。あとで説明すべきかアリスは迷った。
「どうぞ、お気をつけて」「またなー!」
 二人はデク姫とサルに送り出され、神殿を横目に見ながら沼のほとりを歩いた。穏やかに目を細めるゼロは、じんわりと充足感を覚えているらしい。
「デクナッツたちの心配ごとはもうなくなったんだよね。いつか、ルルさんたちもこうなればいいなあ……」
 しかし大妖精の復活を優先している以上、しばらく海を訪れる予定はない。ミカウを見つけるという約束を果たせるのは、まだ先の話になりそうだ。
 その晩、二人はまたもや薬屋にお世話になった。押しかけたゼロたちを双子の魔女は快く受け入れてくれた。相変わらず奇妙な噂話で翻弄してきたが。
 翌日は時の繰り返し初日から数えて、三日目だ。ゼロは思いっきり沼の観光を満喫した。写し絵コンテストに応募する構図を探すためにほうぼうを歩き回り、あらゆる角度で沼を撮り、いよいよ写し絵を提出した。結果が分かるのは刻のカーニバルの日だそうだ。すなわち、現段階では永遠にやってこない日である。
 それが無駄な行動だとは、アリスは思わない。ゼロが心健やかに旅を楽しむことは、彼女にとっての喜びだった。
 夕刻になって空を見上げる。沈む太陽が作り出すものとは違う赤色が天球を染め上げていた。今回、ゼロは町に戻るという選択をしなかった。次の周回があることを信じているのだ。
「いつ時を戻すのかな? いつも決まった時間なのかな」
『前回は夕方よりも前でしたから、おそらく違いますね』
 そうアリスが告げると、ゼロはうなずいた。
「やっぱり、誰かが自分の都合のいい時に笛を吹いているんだ」
 空から視線を外して歩き出そうとした瞬間、か細い笛の音が町の方角から聞こえてきた。
 ゼロは落ち着いて目を閉じる。
「次は牧場ってところに行って、忘れ物を届けないと」
 そこにはこの笛を吹いている本人がいるはずだ、とアリスは半ば確信を持っていた。フクロウの思惑と大妖精の発言を総合して妖精の勘を足すと、その答えが導かれる。
 そう、ゼロとその人物はきっと出会うべくして出会うのだ。

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