第二章 後ろ姿

Side Moon 3

 気づけば、明るい朝日の差し込むナイフの間に戻ってきていた。
 ゼロはやはりベッドの上で眠りこけている。今回もアリスは動かず、ずっとその寝顔を眺めていた。
 彼は十二時の鐘が鳴るのと同時に身じろぎする。
「……おはよう、アリス」
『おはようございます、ゼロさん』
 ぼんやりとまぶたを開けた彼は、いきなり上体を起こしたかと思うと、慌てて荷物を探った。アリスも確認済みだったが、例の忘れ物はそこにあった。ゼロは大げさにほっとしている。
「ああ良かった。早く牧場に行かないと!」
 さっそく身支度を整える。ゼロは驚くアンジュに軽く挨拶を済ませ、宿に備え付けの地図でしっかり方角を確認してから、牧場があるというミルクロード方面に向かった。ちょうど、沼の西側だ。
 大股で歩いたおかげで日が高く上っているうちにたどり着いた。牧場の入口には何故か岩の破片が散乱していて、そのそばで大工がツルハシを立てかけて休憩していた。
「あのー、何してるんですか」
「いや、親方の命令でここにあった岩を壊そうとしていたんだけどね。いきなりやってきたゴロンの旦那が、おっきなバクダンでふっとばしてくれたんだ。おかげで仕事なくなっちゃったよ。もう少ししたら町に戻るつもりさ」
「へえ」
 ゼロはゴロン族を見たことがないはずだ。興味津々の様子だった。
 大岩をバクダンで壊したというゴロンは、果たして毎回ここに来ているのだろうか――とアリスは考える。
 少し歩いた先にあった木のアーチには「ロマニー牧場へようこそ」と書かれていた。
「もう来てるのかな、忘れ物の人」
 アーチを抜けると一面の牧草地帯が広がっている。十分な敷地面積を持つ立派な牧場だった。なだらかな坂道が一本伸びていて、その先にぽつんと家が建っているのが見える。
 ふらふらとそちらに吸い寄せられたゼロは、途中で横合いから声をかけられた。
「あら? あんた、町の方からきたの?」
「あ、はい」
 放牧された牛の影になっていて分からなかった。牛たちを世話をしている女性がいたのだ。
 太陽の光を集めたようなオレンジ色の髪をたっぷりと揺らして、首にスカーフをかけている。大妖精の持つ別次元の美しさとは違うが、健康的な美人だった。
「じゃあお客さんなのね。岩がどいてくれたおかげかしら。『シャトー・ロマーニ』の里、ロマニー牧場へようこそ。ゆっくりしていってね」
「よろしくお願いします。オレはゼロで、こちらの妖精はアリスです」
 素直に名乗るゼロに、女性はにこりと笑う。牛たちを示して、
「このコたちがロマーニ種よ。先代が私たちに残してくれた神々の遺産……禁断にして至高のミルク『シャトー・ロマーニ』の源! 飲むと体の中から魔法の力がわいてくるフシギなミルク……。幻のミルク『シャトー・ロマーニ』をお求めの方は、クロックタウン東口、バー『ラッテ』にぜひお立ちより下さい」
 ミルクバーは「前々回」に例のマフラーの少女と出会った場所だ。まだ見ぬ高級ミルクの噂に、彼は身を乗り出した。
「私の営業トークどうでした? ちゃんとマニュアルどおりにできたかな」
「とても分かりやすかったです。オレも飲みたくなってきました!」
「でもラッテは会員制なのよね。会員証は……ないことはないんだけど」
「そうなんですか?」
 詳細をゼロが聞き出そうとした時、
「おねえさま!」
 小さな女の子が女性の腰に抱きついた。頬を膨らまして、どこか不満そうだ。
「何よロマニー。あ、私は牧場の当主クリミアです。彼女は妹のロマニー。よろしく」
 ふん、と鼻から息を吹いてロマニーはそっぽを向いた。クリミアをそのまま子どもにしたような容姿だが、性格はずいぶん異なるらしい。
「こらロマニー! お客さまに失礼でしょ」
「はあーい」
「まったくもう……。私に何か用があったんじゃないの」
 ロマニーはちらちらゼロを見ている。どうも部外者の前では話したくないらしい。ゼロもそれを察したが、このまま立ち去っては牧場に来た目的を果たせない。彼はあの紐を取り出した。
「すみません、これに見覚えがありませんか? これを探している人が、この牧場にいるって聞いたんです」
「え? きれいな飾りだけど、私は知らないわ」
「そうですか……。大妖精様は確かにここにいるっておっしゃっていたのに」
 その時、「あ!」とロマニーが叫んで口元をおさえる。
「まさかロマニー、あんたが?」
「ち、違うよ。私じゃないもん」
 ぶんぶん首を横に振った。これ以上追及しても仕方ないだろう。
『もしかすると、その人はまだここに来ていないのかもしれませんね』
 ゼロはうなずいた。
「それなら待ってみようかな。すみませんクリミアさん、お邪魔でなければ夜まで牧場にいさせてもらえませんか。その間に、オレで良ければ何かお手伝いしますよ」
「いいの!?」「えー!」
 顔を輝かせたクリミアとは対照的に、ロマニーは明らかに不満げである。だが姉のひとにらみで黙り込んだ。
 アリスはぼんやりとしか思い出せない姉たちのことを思う。彼女らもこんなふうに自分に接していたのだろうか。
「助かるわ、ゼロくん。ちょうど牛小屋に雨漏りがあってね、直したくても私じゃ背が届かないのよ」
「分かりました、案内してください」
 クリミアはこの牧場の当主と名乗っていた。つまり、彼女より年長の者はここにいないのだ。ゼロは知ってか知らずか(おそらく九割以上の確率で気づいていない)、姉妹二人きりの暮らしにあっさりと入り込んでしまった。この人あたりのよさは、彼の持つ強力な長所だろう。
 取り残されたアリスは、もうひとりの少女に尋ねる。
『ロマニーさん。何か心配事があるようですが、どうされたんですか?』
 それまであまり会話に入ってこなかった妖精に話しかけられ、ロマニーはびっくりしたように肩を揺らした。
「今夜はオバケが――いや、なんでもない!」
 ぱたぱた走っていく。しばらく見守っていると、母屋の近くに置いてある木箱から何かを取り出していた。
『弓……?』
 なぜ子どもが武器など持ち出しているのだろう。



 クリミアに請われるがまま、ゼロは牧場内をあちこち走り回って大工仕事をこなした。得意不得意の差が激しい彼をアリスは若干心配していたのだが、存外に丁寧な仕事をしてクリミアに喜ばれた。
 牧場はすっかり日が落ちて闇に沈んだ。クリミアはアリスの光を頼りにしつつ母屋に戻りながら、
「本当にありがとうゼロくん! 気になるところ全部直してもらっちゃったわ」
「いえいえ。でも、忘れ物の人はまだ来ないみたいですね」
 ゼロが首をかしげると、クリミアが笑みを深める。
「私が預かってその人に渡してもいいけど、きっとゼロくんから直接渡したいのよね? なら、今日はうち泊まっていく?」
「え……!?」
 ゼロは目を白黒させた。仕事の合間にクリミアと会話し、さすがにこの牧場が女性二人きりで成り立っていることに気づいたらしい。そんな家に泊まるのはなかなか勇気のいることだろう。
「そんな。悪いですよっ」
 目に見えて焦るゼロだが、クリミアは取り合わなかった。
「恩人にお礼もせずそのまま帰すほうがバチが当たるわよ。大丈夫、うちには使ってない部屋があるの。今日はそこで寝ていって。
 よおし、そうと決まればさっそく三人分の夕飯を作るわね!」
 クリミアはなんだかすっかり張り切ってしまい、ゼロを置いて駆け足で母屋に向かった。ぱたぱた足音を鳴らすような走り方はロマニーそっくりだった。
 ゼロは伸ばしかけた手をおろし、そのまま胸元に持っていって息を吐く。どうも、彼は女性に対する耐性があまりないのではないか――と、大妖精と会話する時の様子を思い出し、アリスは推測していた。
「お、お邪魔します」
 慎重にノックして母屋に入る。昼間に窓の立付けを直した時とは別種の緊張感を漂わせていた。ゼロが視線を下向けると、ロマニーがじいっと見上げてきた。
「ごめんねロマニー。オレがいると嫌だよね……?」
 理由に心当たりがなくとも、自分の存在が彼女の気を損ねていると悟ったのだろう。
 ロマニーはぷいと横を向いた。
「もう、いいよ。おねえさまの楽しそうな顔、久々に見たから」
 ゼロは怒られなかったことで大げさに安堵していた。アリスは内心、疑問を浮かべる。クリミアは出会った時から上機嫌で明るく振る舞っていた。しかし妹にこう言われるということは、最近何かあったのだろうか。
 やがて台所からいい香りが流れてきた。
「さ、食卓について。今日はちょっと豪華なお料理よ」
 クリミアがお盆から卓に並べるのは、牧場のミルクをたっぷりつかったシチュー、朝採れたばかりの野菜を使ったサラダなどだ。
 ゼロはどんな食事にも文句を言ったことはないけれど、今回舌鼓を打つ姿はとりわけ幸せそうだった。
 ハムステーキを切り分けながら、クリミアは質問する。
「ゼロさんは、刻のカーニバルのためにクロックタウンに来たの?」
「はい」と彼は答えた。嘘をついているわけではなく、心底カーニバルを楽しみにしているからこその返事だった。
「クリミアさんたちは、カーニバルには行かないんですか。大岩もなくなったことですし」
「え? ええ、そうね……」
 クリミアが唐突に暗い顔になったので、何かまずいことを言ったのかとゼロは慌てた。
「あの、えっと、お仕事の都合もありますよね!」
「わたしは町に行きたいんだけどなー」
「ダメよロマニー。あの月があるもの、危険よ」
 最もな意見だった。三日目になると、町から牧場に避難する人もいると聞いたことがある。
「そうそう、仕事といえば、明日はクロックタウンまでミルクを届けに行かないといけないの。新鮮なシャトー・ロマーニを、ラッテのマスターが待ちくたびれているからね」
「おねえさま、町に行っても大丈夫なの」
 ロマニーは姉を心配そうに見つめた。
 不意をつかれ、クリミアの顔から表情が抜け落ちる。
「うん……」
 食卓に沈黙が下りた。ゼロは気まずそうにうつむく。それでも食事のおいしさは変わらなかったようで、デザートの果物に至るまで、口に入れる度にほおをほころばせていた。
 食べ終わっても、クリミアはじいっと食卓の一点を見つめて考え込んでいる。
「オレが片付けしておきましょうか?」とゼロが申し出た。
「ごめんなさい、助かるわ。少し疲れちゃって。先に休むわね。ゼロくんの寝る部屋は片付けして、扉を開けておくから」
「ありがとうございます。おやすみなさい、クリミアさん」
 彼女はどこか重い足取りで二階に上っていった。
 ゼロは流しに食器を運び、汲み置かれていた水を使って皿を洗うことにした。記憶がなくても、そのような生活動作はきちんと身についていた。
 ロマニーが眠そうな目をこすりながらやってきた。
「もう寝てていいよ」
 ゼロはしゃがんで目線を合わせた。しかし、少女は切羽詰まったような視線を返す。
「ロマニー、知ってるんだ。クリミアおねえさま、町に好きな人がいるの」
「え」
「その人、カーニバルの日に結婚しちゃうんだ。おねえさま、ホントは町に行くのつらいんだよ……」
 ゼロはごくりと喉を動かす。
 だからといって、クリミアを止めるわけにもいかない。ミルク運びのような重要な仕事は、ゼロが代わりに行くわけにもいかないだろう。それは本人が向き合わなければいけない問題だ。
「そっか」
 彼はそう答えることしかできなかった。
 ロマニーはまだもじもじしている。どうやら、もう一つ別のことを伝えたいらしい。
「おにいちゃん。あのう――」
「どうしたの」
 ゼロは目を細め、穏やかに問うた。
 ロマニーはすがるように瞳をうるませていたが、首を振る。
「やっぱり、いい。おやすみなさい」
「おやすみロマニー」
 ゼロはそれ以上何も聞かなかった。彼はただの旅人で、できることには限りがあった。
 片付けを済ませると二階に上がった。扉の開いた暗い部屋に入り、上着を脱いですぐに寝入ってしまった。
 結局忘れ物の主は訪れなかった。明日以降出会える可能性はあるのだろうか。
 アリスはゼロの閉じたまぶたの上を光を弱めてそっと飛ぶ。
(どうしてゼロさんは一日目だけあんなに遅く起きるのでしょう……)
 二日目と三日目は比較的まともな時間に目を覚ますのに。一日目だけ夢でも見ているのだろうか。
 暗い部屋の中でゼロの寝息を聞きながら、アリスもそっと羽根を休めた。



 ぴりぴりと空気が騒いでいる。何か違和感のある高音が小さく鳴っていた。
 アリスは意識を覚醒させた。夜中の二時だ。一体何が自分の感覚にひっかかったのだろう、と窓の外を覗く。
(――これは!)
 彼女はすぐにベッドの上に飛んだ。
『ゼロさん、起きてください!』
 耳元で叫んでみると、寝坊助の彼も今回ばかりは飛び起きた。
「うひゃっ!? な、何、どうしたのアリス」
『外に、何かいます』
 ゼロは息を潜めてカーテンを開ける。時間帯からして真っ暗になっているはずの牧場は、異様に明るかった。上空には月とも違う巨大な光があって、そこからちぎれたような光点が牧場にいくつも散らばっている。顔色を変えたゼロは、すぐに上着を着て武器を身に着けた。
 足音を立てないようにそっと階下に降りて、母屋の玄関を開け放つ。
「これは一体……」
 光が一斉にこちらを向いた気がした。光源は全て頭でっかちの化物だった。両目がランプよりも遥かに強い光量を持ち、牧場全体を照らし出している。今まで遭遇してきたどんな魔物とも違う、異様な雰囲気を持っている。この光すべてが魔物だとしたらとんでもない数だ。
 牛小屋の前で牧羊犬がうるさく吠えていた。そのそばに、一人の少女が立っている。
「おにいちゃん!」
 手製の弓を構えたロマニーが振り返った。
「あいつら、牛を狙ってるの! だから助っ人も頼んだんだけど……まだ来てなくて」
 顔が泣きそうに歪んでいる。ゼロはすぐさま彼女の前に立った。
「ここはオレが引き受けるよ。ロマニーは牛小屋に入って、中から牛を守ってあげて」
「あのオバケには弓矢しか効かないの。矢がなくなったら木箱に隠してるからそれを使って! あいつらは日の光で帰っていくから、朝まで追い払うしかないわ」
「分かった。さあ、早く!」
 がたがた震えながら後退するロマニーに笑いかけ、ゼロは臨戦態勢に入る。
 ロマニーの手前ああ言ったが、彼の額には汗がにじんでいた。無理もない、これはとても一人で相手すべき数ではない。幸いなことにオバケの歩みは妙にのろく、これなら終局はまだ遠そうだった。
「アリスはオレの死角から来るオバケを教えて」
『分かりました』
 ゼロの隣を離れ、牛小屋の裏手を見回ることに専念した。牧羊犬にも手伝ってもらい、それぞれ小屋に近づくオバケを見つけて警報を上げる。すると間近のオバケを片付けたゼロがやってきて対処する。そうしてじわりじわりと相手の数を減らしていった。
 彼はウッドフォールの神殿の戦いを経て、すっかり勘を取り戻したらしい。今晩の弓の腕は冴え渡っていた。やはり昔は一流の戦士だったに違いない。その実力を存分に発揮して、長い夜の戦いを冷静に進めていく。
 だが、オバケの数は増える一方だった。オバケが上空にある光から生み出されているのは分かっていたが、あんな位置に矢など届くはずがない。ロマニーの言う通り、朝日を待つ方がまだ勝機があった。
 休みなく矢を打ち続け、ついに木箱にあった最後の矢束に手が伸びる。ゼロのほおに冷や汗が流れていた。
 一方で、数時間粘り続けた結果、朝日が山の端から上ろうとしていた。矢が切れるのが先か、朝になるのが先か、際どいところだった。
 とうとう一本残らず矢を使い切ったゼロは、剣を抜いた。
『ゼロさん!』まさか生身で戦う気では――アリスは体の光を弱くする。
「ロマニーは弓矢じゃないとダメって言ってたけど、やってみるしかないよね」
 アリスが止める間もなくゼロがオバケに向かって駆け出そうとした、その時だった。
 軽やかな蹄鉄の音がした。柔らかい草を踏みしめ、こちらに近づいてくる。
 それは騎馬だった。と言ってもまだ子馬で、馬上にいるのも子どもだ。どこかの民族衣装のような緑衣をまとった騎手は、かたわらに白い妖精を連れていた。
 驚いたゼロが棒立ちになって見守る中、騎手は馬上からオバケに矢を放つ。それは騎射という非常に高度な弓術だった。おまけに狙いも正確だ。とてもあの年齢で習得できるとは思えない。
 牧場に散らばった光点は次々と消えていく。
「か、かっこいい……!」
 ゼロが小さくつぶやくのが聞こえた。その双眸は、まだ見ぬ朝日よりもなおきらきらと輝いている。
 結局昨日会えなかった忘れ物の主。時間どおりに来なかったというロマニーの助っ人。アリスの中で何かがつながっていく。
(まさか、あの人は)
 いよいよ朝日が本格的に顔を出した。太陽から繰り出された重い一撃を受けたオバケたちは、くぐもった悲鳴を上げて消滅していく。
 太陽を背にした子どもと馬、それに白い妖精はゆっくりとこちらに近寄ってきた。
 子どもの金髪は日の光を浴びて神々しく輝く。冬の空のような色の瞳は、何故かまっすぐにアリスを見つめている。
 そして彼は唇を開いた。
「……ナビィ?」

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