第三章 光の交差



「……ナビィ?」
 リンクの視線はただその青い光だけに注がれていた。
 あの時離れていった光が今、そこにいる。彼は思わず手を伸ばそうとした。
 かたわらのチャットも、妖精のそばに立つ白銀の髪の青年も、今は視界に入らない。
 リンクは自分の手を見てはっとした。
(あの腕輪……ないんだった)
 ささやかなことなのに妙に気になってしまい、思わず手が止まる。
 かつてないほどの動揺にさらされるリンクの前で、その青い妖精は息を吐いた。
『申し訳ありませんが、私の名前はアリスです』
 聞いたこともない声だった。突きつけられた事実がリンクを揺さぶった。
「……そう、か」
 かろうじて絞り出した返事には、明らかに落胆がにじんでいた。
 黎明を迎えるロマニー牧場で、リンクとチャットは約束の時間から大幅に遅れつつもオバケ退治を果たした。二人は同じく弓を持ちオバケと戦っていたであろう青年と、その相棒アリスに向かい合う。
 二組はお互いを「ただ者ではない」と認識していた。リンクは先ほどの醜態を取り返すためにも、先に口を開こうとした。
 その間に小さな影が割り込んだ。
「やった……勝ったんだね!」
 ロマニーが牛小屋から飛び出てきたのだ。彼女は弓を放り出し、ぱたぱた走ってリンクの両手を取る。
「ありがとう! キミのおかげで牛たちもお礼を言ってるわ」
 リンクが困惑するほどの熱視線を注いでくる。青年が肩をすくめて苦笑しているのがちらりと見えた。
(他人事だと思ってるな……)
 ロマニーは乳白色の液体の入ったビンを取り出す。とっておきのものだと言わんばかりにリンクに握らせた。
「そうだ、これ、ロマニーからのお礼。腰に手を当ててグイっといってね!」
 牧場でとれたミルクだった。何故遅れてやってきたリンクにばかり感謝するのか不思議だったが、青年はまるで気にしていないらしい。「良かったね」なんて言っている。
『ねえロマニー、お姉さんがそろそろ起きる頃じゃないの?』
 チャットが指摘すれば、少女ははっとして口元に手を当てた。
「そうね、早くベッドに戻らなきゃ。じゃあね……勇者くん」
 ロマニーはリンクにだけウインクを飛ばして母屋に戻って行った。
『勇者くんだって。バッタくんよりはましね』
「うるさい」
 チャットの軽口に即座に言い返してから、リンクははっとして青年を見上げる。見知らぬ他人の前で少し気を緩めすぎた。
 だが、青年はロマニーの後ろ姿を見つめ、自分が無視されたにもかかわらず朗らかに笑っていた。そのままリンクに視線を戻す。
「キミ、もしかしてこれの持ち主じゃない?」
 青年が取り出したのは、黒っぽい細い糸で編まれた紐だった。
 こんな場所にあったのか! リンクは反射的に手を伸ばそうとして、すんでのところで止まる。
 なぜならそれをなくしたのは、時の彼方――すなわち「前回の三日間」だからだ。
「違う」
 とっさに否定すると、チャットが物言いたげな視線を投げてくる。
 青年は首をかしげた。
「本当に? 沼の大妖精様が、これの持ち主は確かにこの牧場に来るはずだって言ってたんだけど」
『へえ、沼の大妖精様に会ったんだ』
 チャットがぴくりと反応する。大妖精レベルの存在が嘘をつくとも思えない。要するに、リンクは話の裏をとられたということらしい。
 アリスと名乗った妖精が、気遣わしげに青年に話しかける。
『ゼロさん、私たちも一度戻った方がいいのでは。母屋にいないとクリミアさんに心配されます』
 その提案にリンクも乗じることにした。
「なら、後で話をしよう。用意ができたら牧場の外に来い」
「わ、分かったよ」
 青年の姿が母屋の中に消えてから、リンクは互いに名乗らなかったことに気づいた。しかし青年の名前がゼロということは判明した。
 チャットは低く羽根を鳴らす。
『ねえ。さっきの二人、もしかして時間の繰り返しに気づいてるんじゃないの?』
 リンクは苦い顔になる。先ほどの短い会話から、その可能性は非常に高いと思われた。
 チャットは畳みかけた。
『事情を話して協力してもらわない?』
「……信用できない」
『妖精を連れて、大妖精様と会話までしてるのよ。まず大丈夫だと思うけど。それに、アンタが遅れた分も牧場を守ってくれたんだから、お礼くらい言わないといけないでしょ』
 まるで保護者のようなチャットの言葉に、リンクはため息をついた。
 ルミナの存在を知った時点で、他にも繰り返しの記憶を保持する者がいる可能性を考えなかったわけではない。だが、いざ目の前に現れてみると――しかも自分と同じように妖精を持つ旅人なのだ――なかなか素直に飲み込めなかった。あの青年は弓だけでなく、長剣まで背負っていた。弓を放つところをきちんと確認したわけではないが、ほぼ単独でロマニー牧場を何時間も守り抜いたことで、実力は証明されたようなものだ。
(こういう時は、どうするべきなんだ)
 対処を間違えると面倒なことになりかねない。慎重に対応すべきだった。
『ねえ、時の逆さ歌吹いておいた方がいいんじゃない?』
 チャットがいきなりそう言うまで、正直忘れかけていた。オカリナを取り出す。もしかすると、この歌のせいで牧場防衛戦が余計に長引いたのかもしれない。なおさら礼を言う必要が出てきてリンクは嫌になる。
 牧場を出て、すぐそばにあった木の根本に座り込み、今後について熟考する。そのうちうつらうつらしていたらしい。がくりと頭が落ちた拍子に目を覚ます。
 チャットがどこか心配そうに光を弱めた。
『あーあ、また寝てた。やっぱりアンタ、一回ちゃんと睡眠とったほうがいいわよ』
 確かに時の繰り返しがはじまってから、一度もまともな休息をとっていない。だが、リンクにはかつて四六時中気を抜けない生活をした経験があった。
(あの時だってそうだった。時を繰り返すのは多くてもあと数回だ。その程度、俺なら耐えられる)
 だが、タルミナの四方を巡るハードな旅に、子どもの体が追いついていないことは確かだ。特に、真冬から春という季節の変化があった山里で受けたダメージが大きかった。リンクは己の小さくふっくらした手を握りしめる。
 かたわらで草を食んでいたエポナが不意に首を持ち上げ、鼻を鳴らした。どうやら例の青年が近づいてきたらしい。気配を殺すことなど微塵も考えていないような無遠慮な足音だ。リンクは立ち上がり、背筋を伸ばした。
「おまたせ」
 青年は握手を求めるように手を差し出した。その手のひらが妙に血色がいいのが気に食わない。今日も牧場に泊まっていたということは、さぞよく寝てたっぷり食べているのだろう。
「まだ名乗ってなかったよね。オレ、ゼロっていうんだ。こっちは妖精のアリス。オレたち二人とも記憶喪失でさ、記憶の手がかりを探すためにタルミナをあちこち回ってるんだ」
 リンクは手をとらなかった。代わりに疑いの視線を突き刺す。
「記憶喪失……本当なのか?」
「うん。オレなんか名前すら分からなくて、アリスに名前をつけてもらったんだ」
 自分を形作るものが何もないというのは大変な事態のはずだが、ゼロはへらへら笑っている。
 リンクはそこでやっと名乗る気になった。
「俺はリンクだ」
『アタシはチャットよ。お互い人間と一緒にいるなんて面白いわね、アリス』
『そうかもしれませんね』
 妖精同士、どこか通じ合う部分があったらしい。二人の間に和やかな空気が流れた。アリスは誰にでも敬語を使う控えめな性格らしい。対するゼロは「能天気」と形容していいだろう。何が面白いのか、ずっとにこにこしている。
「ところで、さっきの忘れ物だけど……やっぱりキミのものだよね? 返すよ」
「あ、ああ……」
 差し出された紐を、自然に受け取ろうとしてしまった。ゼロのふわふわした笑顔につられてしまったのかもしれない。
 もう何でもいい。せっかく届けてくれたのだから、受け取るのが礼儀だ。
 そう自分に言い聞かせた。思考が錯綜気味なことは分かっていた。だからこそ早く終わらせたい。
 だが、今にも紐を取り戻そうとした時、がくりとリンクの膝から力が抜けた。
(なんだ?)
 コントロールを失った彼の体は、差し出されたゼロの手をすり抜けて、地面に落ちる。
「リンク!?」
 急速に薄れゆく意識の中、ゼロの焦った声が最後まで耳に残った。



 ひんやりした感触を額に感じる。冷たくて気持ちいい。リンクは薄く目を開けた。
『あ、やっと起きたわね』
 いつの間に寝ていたのだろう。体を起こそうとして、全身に痛みが走った。息を吐いておとなしく横たわる。彼はベッドに寝かされているようだった。
 かすむ視界の中央に、白い光がふわりと浮かんでいた。
『もう、風邪ひいたならそう言ってよね。いきなり倒れるくらい熱が出てたなんて、アタシたち妖精じゃあ分からないんだから。
 あの後ね、ゼロってやつがアンタを背負って、ここまで運んでくれたのよ』
 ここはロマニー牧場の母屋だと妖精が教えてくれた。目だけで部屋の中を確認するが、ゼロたちはいないらしい。
 ふと、左手首に慣れ親しんだ感触が戻っていることに気づく。おそらくあの青年が巻いてくれたのだろう。チャットの話を聞きながら、リンクは腕をさすった。
『間が悪いことにこの家、風邪薬を切らしてたのよ。それで、もともと今夜馬車で町に行く用事があったから、アンタも一緒に乗せていってもらえることになったわ。ここまでぜーんぶゼロが交渉してたわよ』
 出会ったばかりの相手に何故そこまでするのか、全く分からない。ぼんやりする頭が余計に過熱しそうな問題だ。
「馬車の手配はいらない……。フクロウを呼べば済む話だ」沼地で大翼の歌というものを教わった。あれを吹けば、きっと大翼のフクロウがやってくる。
『その体調で町まで飛べるわけ? いいじゃないの、この際思いっきり甘えれば。エポナもしばらく牧場で預かってくれるみたいだし』
 そういうわけにはいかない。甘えるだなんて……そんな方法、知らないんだ。
 反論する体力もなく、リンクは熱い息を吐いてベッドに横たわった。
『あらアリス』とチャットが言ったので、青い妖精が入ってきたに違いない。なんとなく顔を合わせづらく、頭まで布団をかぶる。
『リンクさん、目が覚めたのですね。これから少し長い移動になりますが、よろしいですか』
『こいつ今ろくに返事できないわよ。いいから連れてっちゃって』
 アリスに続いて「お邪魔しまーす」とゼロが入ってきた。彼は「ごめんね」と前置きしてからリンクを背負った。ほとんど意識の飛びかけていたリンクはおとなしく従う。
 全体重を預けてもびくともしない背中は妙に広く見えた。
(俺だって……昔は……)
 混濁した意識の中で、小声の会話が聞こえてくる。
「リンクはどうして風邪引いちゃったのかな」
『簡単よ。ろくに眠らないくせに、ちょっと前まで雪山に行ってたからね』
「え、そうなんだ。それは仕方ないよね」
 いつの間にかゼロとチャットは歯切れのよいやりとりを交わす仲になっていた。
「下ろすよ」と声をかけられ、敷かれた毛布の上に横たえられた。どうやら馬車の中のようだ。ミルクの大ビンがいくつも並んでいるのが見えた。
「クリミアさん、お願いします」
「気をつけてね、おねえさま。それと勇者くんも……!」
 ロマニーに見送られ、荷台を引く一頭のロバはゆっくりと牧場を出発した。
 リンクは暑さを感じて毛布から手を出した。それに気づいたゼロがそっと握った。
 発熱した手のひらが心地よい冷たさを感じた。何故だかひどく安堵してリンクは眠りについた。

inserted by FC2 system