第三章 光の交差



「……寝ちゃった」
 すうすう寝息を立てるリンクは、オバケを殲滅した「勇者くん」と同一人物とは思えない。普通の子どものようだった。
 ゼロは握った手のひらをそっと離す。
「それにしても、結構警戒してるんですね。魔物でも出るんですか」
 ゼロは御者台にいるクリミアを振り返る。彼女のそばにはナイフが置かれていた。
「うん。最近――けっこう前からかな。お父さまが亡くなってからブッソウになったんだ。牛にイタズラされたり、ミルクビンをこわされたり。犯人は……分からないけど」
 と言いつつ、彼女は正体をなんとなく把握しているようだとゼロは思った。
「妹のロマニーも気にしてて、弓矢の練習してる。オバケのしわざだってね」
 少なくとも牛へのイタズラは本当だった。そしてここにいるリンクが退治したのだ。ロマニーが姉に何も話していないため、部外者のゼロは黙っているしかないのだが。
「ねえ、町の人はあの月のことなんて言ってるの? 前より……大きくなってるよね」
「落ちると思ってる人が多いと思います。命令がなくても自主的に避難する人もいるんじゃないかな」
「そっか。私、町に友だちがいるんだ。アンジュっていうんだけど」
「アンジュさん? ナベかま亭のですか」
「そうそう。アンジュ……あさって、結婚式なんだよね」
 ゼロは目を見開く。そんなこと全く知らなかった。アンジュとの会話には、結婚前の浮かれた雰囲気などちっとも感じ取れなかった。
 その瞬間、彼の背筋を電撃が貫いた。昨日ロマニーが言っていたことを思い出したのだ。クリミアは町に好きな人がいる。その人はカーニバルの日に結婚してしまう。
 もしかして、クリミアはアンジュの婚約者のことを……? 
「落っこちるかな、あれ」
 月を見上げる牧場主の虚ろな瞳は、どこか破滅を願っているようでもあった。ゼロは何も言えず、うつむいてリンクの様子をうかがった。
 不意に、がたりと音がして馬車が止まった。
「あれ? 道が……」
 行く手を大きな柵が塞いでいた。ゼロは驚く。
「昼間はこんなのなかったはずです!」
「なら、こっちに行くしかないわね」
 クリミアは手綱を器用に操り、ロバの向きを変える。ミルクロードをまっすぐ抜けられないので、別の道に入るようだ。
「ミルクロードが岩でふさがれていたことといい、ミエミエのこの遠まわり……」
 ため息を吐いたクリミアは、きりりと眉を吊り上げた。
「ゼロくん、これから全速でここを抜けるわ! もし後ろから追っ手が来たら、なんとかして追い払ってちょうだい」
「え!? 追っ手なんて来るんですか」
 こんなに平和そうな地域なのに、実情は違ったらしい。クリミアは厳しい顔でうなずく。
「残念ながらね。相手の狙いはおそらく荷台のミルクビンよ。お願い!」
「わ、分かりました」
 ゼロは武器を確認する。早朝に使い果たしてしまった矢だが、オバケ退治のお礼としてロマニーから数本譲り受けていた。暗くて狙いがつけづらいが、これと剣でなんとかするしかない。
「ありがとう、頼りにしてるわ。無事ここを抜けたら、ビッグなお礼するからね!」
 クリミアはすばやく手綱を引き、馬車を全速力で走らせはじめた。
 ロバの足音と車輪の回転音に加えて、すぐに二頭分の馬蹄の響きが近づいてきた。
『後ろです!』
 ゼロは眠ったままのリンクを慎重に避け、馬車の後方に移動する。アリスの察知した気配の正体を肉眼でとらえた。馬に乗り、覆面をかぶった夜盗が馬車を追いかけてくる。そのスピードは明らかにロバよりも速い。
(追いつかれた!)
 夜盗の一人が雄叫びを上げて槍を振りかぶる。「わっ」ゼロは慌てて剣をかざして防いだ。
 今度はもう一人が前に出てきた。息をつかせぬ波状攻撃に、たちまち防ぐだけで手一杯になる。こちらから間合いを詰められない以上、剣で対処するのは限界があった。
 馬のスピードが乗った一撃は存外に重かった。こちらは早朝の戦いでたまった疲労が抜けきっておらず、リンクほどではないが万全とは言い難い体調だ。いつまで馬車に被害を出さずに防ぎきれるか分からない。
『ゼロさん、あの覆面から魔力を感じます!』アリスが叫んだ。
「魔力? 覆面が悪さをしてるってことなの」
『おそらくは』
 であれば、覆面さえ引き剥がせば無力化できるかもしれない。
「弓矢を使えばいいだろう」
 いつの間にか背後のリンクが起き出していた。まだ熱っぽさを残す青い瞳が、荷台に吊るされたランプを反射して鋭く光っている。
「リンク、起きて大丈夫なの?」
「こんな状況で寝ていられるか」
 それはそうだ。クリミアが目一杯急いでいるせいで、荷台はかなり揺れている。
「いいから弓を使え。持っていただろ」
「で、でも弓だなんて。暗いし揺れで狙いがブレるし、万が一相手にあたったら……」
 夜盗であろうと無闇に傷つけたくはない、というのがゼロの本心だった。リンクもそこは否定しなかった。
「なるほど、暗さか」
 リンクは相棒の妖精と目で会話した。
『アタシにまかせて』
 チャットが幌の中から飛び出した。夜盗の方に向かっていく。
「あの光を目印にするんだ。妖精なら矢は簡単に避けられる。打つタイミングは俺が指示する」
「うん……やってみる!」
 夜盗の片方がまわりを飛ぶチャットを鬱陶しそうに払おうとするが、妖精は軽やかに避ける。やが野盗は諦めてスピードを上げてきた。ゼロはぎりぎりまで弓を引き絞り、間合いを図る。
 リンクが声を張り上げた。
「今だ!」
 それはちょうど馬車の車輪がバウンドして地面から離れ、ジャンプの頂点に達した一瞬だった。
 放たれた矢が一直線に夜空を裂く。狙い過たず、覆面と顔をつなぐ紐を切り裂いた。
 直撃でないにしろ夜盗は衝撃を受け、馬から落ちて倒れ込んだ。もう一人は恐れをなしたのかその場から逃げていく。
「どう、やったの!?」運転にかかりきりで後ろを見られないクリミアが大声を出す。
「今確認しますっ」
 ゼロは走り続ける馬車からぱっと飛び降りた。
『ゼロさん!?』
 茂みに突っ込んで勢いを殺すと、倒れている男に近寄る。
 アリスいわく何らかの魔力を持つ覆面は、ねずみ色のフードのような形をしていた。紐が切れてもまだ夜盗の顔に張り付いている。
(これさえなければ、クリミアさんも無事にクロックタウンに戻れるんだ)
 ゼロは一気に覆面を剥ぎ取った。



「はじめまして、――さん」
 葉擦れの音に混じって、涼やかな声が「彼」の鼓膜を叩いた。
 ぼんやり霞んだ太陽の光が、声の主を照らしている。
 ゆるやかにウェーブする蜜色の髪を腰まで垂らした少女だ。年の頃はリンクと同じくらいだろうか。彼女は真っ黒なワンピースの裾を揺らし、緋色の瞳を細めてこちらに笑いかける。
 そこは丘の上にある大きな木の下だった。「彼」は木陰にいて、陽光の中に立つ彼女を見つめていた。
「これからどうぞよろしくお願いします。一緒にこの国を守りましょうね」
 幼さに似合わぬ紅を引いた唇が弧を描いた。



「あ、れ?」
 ゼロは一瞬自失状態にあったらしい。何度かまばたきする。彼は夕闇に沈むミルクロードに立っていた。
 両手を目の高さに持ってきて、どきりとする。あの覆面が消えていた。
 今見たものはなんだったのだろう。覆面を触った瞬間、いきなり景色が切り替わった。青空の下にある丘と大樹。それに黒い服を着た女の子だ。ゼロに向かって話しかけていたようだが、こちらをなんと呼んだのかは聞き取れなかった。
(寝不足のせいで、立ったまま夢でも見たのかな)
 眠気を追いやるように、ぽんぽん自分の頭を叩いた。
『ゼロさん、あの』
 そばに来ていたアリスに声をかけられ、彼はやっと己のやるべきことを思い出した。
 覆面を剥ぎ取られた夜盗は、ちょび髭を生やした普通の男だった。全く動かない。打ち所が悪かったのかしら、とゼロが肩を揺さぶってみると、突然がばりと起き上がる。
「あ」ゼロが止める間もなく逃走し、少し向こうで待機していたもう一人と合流した。
「くそ、覚えてろよ!」
 典型的な捨て台詞を吐いて闇に消える。結局取り逃がしてしまった。あの覆面さえなければ悪事を働くこともないだろう、と自分を納得させるしかない。
 すぐそこに馬車を停めたクリミアが、ゼロたちに駆け寄った。
「大丈夫だった? 怪我してない?」
「あ、はい。でもすみません、夜盗を逃してしまって」
「いいのよ。犯人は、分かってたから」
 クリミアは諦念に満ちた表情を浮かべていた。それは彼女の年齢で身につけるべきものではなかった。ゼロが何か言うよりも前に、彼女は唇を笑みの形に動かした。
「それより、ミルクを守ってくれてありがとう。さあ急ぎましょう。町についたら約束通りお礼をするわ」
「はい!」
 荷台に戻ると、リンクが目を開けて毛布の上に座っていた。
「甘い」
 ゼロを横目でにらむなりそう言った。夜盗を取り逃がしたことについてだろう。
「……うん」
『まー仕方ないわよね、誰かさんが遅れたおかげでゼロは寝不足だったわけだし』
 チャットはわざとゆっくり喋った。リンクが眉を吊り上げる。
 ゼロは慌てて身を乗り出し、
「リンク、さっきは弓のタイミングを教えてくれてありがとう。それと、チャットも目印になってくれて助かったよ」と模範的な気遣いの姿勢を示す。
「リンクは起きてて平気なの?」
「もう十分寝た」
『どうかしらねえ。あと一日くらい寝ててもきっとバチは当たらないわよ』
 からかうような口調のチャットに、リンクはもう取り合わなかった。
 ゼロは、今朝リンクが風邪だと診断されてから、ずっと考えていたことがあった。
「町についたらナベかま亭に行こう。オレが昨日まで泊まってた部屋が空いてるはずだから、そこに寝かせてもらったらいいよ。その間にオレが薬を探してくる」
「……何故俺にそこまでする?」
 リンクは眉をひそめた。
 確かにゼロは彼と初対面だった。しかし理由は単純なことだった。
「だって、放っておけないよ。熱が出てて今も苦しいんでしょ? オバケ退治のときにもお世話になったんだ、恩人を適当に扱ったらロマニーに叱られちゃう。
 ……あ、もしかして何か気に障るようなことした? 迷惑だったかな」
『そんなことないわ! ゼロたちがいてくれてとっても助かってる。こいつに代わってアタシからお礼を言わせて』
 チャットが羽根を広げて力説した。リンクは相変わらずむすっとして黙っている。否定しないということは、当たらずとも遠からずなのだろう。ゼロはくすりと笑った。
 まだ納得がいかない様子のリンクへ、アリスが囁いた。
『ゼロさんは、こういう方ですから』
 その一言でリンクは何故か目を見開き、諦めたように肩をすくめるのだった。



「バーテンさん、ひさしぶりのミルクだから喜んでいたわ!」
 クロックタウンについたクリミアは馬車ごと門を通って、ミルクビンを抱えたゼロとともにミルクバーに直行した。
 無事に搬入を終え、彼女は晴れやかな顔でリンクたちに向き合う。
「ありがとう……二人ともなかなかカッコよかったよ。これ、ビッグじゃないけれどお礼に受け取って! ロマーニのお面よ」
 二人に向かってそれぞれ差し出したのは、ウシの頭部を模したお面だった。カーニバルでかぶってくれ、ということだろう。
「ありがとうございます」
 ゼロは何気なくお面に手を触れた。その瞬間、視界に白い波が押し寄せてくる。
 あの覆面を触った時と同じ感覚だった。彼の意識は白昼夢に飲み込まれる。



「彼」は数時間前と同じ木の下にいた。隣にはまたもやあの少女がいて、黒い喪服のようなワンピースとは対照的に、真っ白い紙を空へ飛ばしている。
「これは空飛ぶ船なんです」
 船というものをゼロは知らなかった。四角い紙を何度か折って作った形は、翼を持った鳥に近い。
「――さんも折ってみますか?」
 紙を渡され、「彼」は見よう見まねで船を作った。少女は苦笑する。
「苦手そうですね。こうやるんですよ」
 少女の手により端まできれいに折り込まれた紙が、すうっと空を横切る。それは丘を下って集落の方に――いや、もっと遠くへ飛んでいく。
 丘の下には、実りをつける果樹や畑が見えた。そこは水と緑に満ちた土地だった。
「この国は本当に豊かですよね。いいなあ……」
 船を見つめる緋色の瞳は憧憬に満ちていた。



 気づけば、クリミアが胸を張って講釈を垂れている最中だった。
「――いいことを一つするごとに子どもはオトナになっていくわ。そのお面はかぎられたオトナのお客さまにお渡しする、ミルクバーの会員証なの。
 私はアナタたちをオトナとみとめます!」
 ゼロはどきっとした。覆面のときと同じように、ロマーニのお面が手元から消えている。せっかくオトナと認められたのにいきなりなくしてしまった、では話にならない。とっさに両手を背中に隠した。リンクの訝しげな視線を感じる。
 クリミアは幸いにも挙動不審なゼロには気づかず、
「それじゃあね、二人とも。また牧場で会いましょう」
 きびすを返そうとした時、かつん、と誰かの靴が石畳を高く鳴らした。
「クリミア?」
 柔らかそうな茶髪を肩の上で切りそろえた女性が目を丸くしている。そうだ、ミルクバーはナベかま亭のすぐ近くだった。
「アンジュ……」
 クリミアは沈んだ声色で幼なじみの名を呼んだ。
 ゼロは息を呑む。
 一人の男を巡って対立する、歪んだ三角の二つの頂点が再会してしまった。

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