第四章 同じ空のもとで



 まぶたを開けると、すぐ目の前にひどく整った顔があった。
 紫色のつややかな髪を額にかけた美女だ。同じ色の瞳がゼロを見つめている。
「だ、大妖精様!? うわっ」
 のけぞってバランスを崩し、仰向けに倒れると、水しぶきが上がった。
『ゼロさん!』
 すぐさま視界にアリスの柔らかい光が入ってきてほっとする。
 そこは海の大妖精の泉だった。いつの間に移動してきたのだろう。
(そうだ、足の怪我!)
 切り裂かれたズボンには赤色がにじんでいた。恐る恐るさわってみるが、痛くない。傷はふさがっていた。大妖精の持つ治癒の力のおかげだろう。
「オレ……気絶してたの?」
『ほんの少しの間です。グヨーグを倒した後、リンクさんとチャットさんが突然消えてしまって、しばらくして私たちはここに転移してきました』
「リンクが連れてきてくれたってこと?」
『ええ。リンクさんは、怪我をしたゼロさんのことをずいぶん気にかけていて、大妖精様にかけあってくれたのです』
 二人は外で待っているのだという。
 ゼロは泉から上がり、かかとをそろえて大妖精にお辞儀した。
「怪我のこと、どうもありがとうございます」
『いえ。私が与えた力が役立っているようで良かった。妹たちのこと、頼みましたよ』
 大妖精はゼロとアリスに等しく視線を与えた。大妖精は五人姉妹で、海が長女だったはずだ。彼女も記憶を保持し、ゼロたちの他地方での活躍も把握しているようだった。
 濡れた服の裾を絞りながら洞窟を出た。外では小さくも頼もしいシルエットが腕組みして待ち構えていた。
「リンク!」
「遅い」
 すっぱり言い切られてしまう。リンクの返事も無理はない。太陽の位置からすると、いつの間にか三日目に突入しているようだ。
「ごめん。でもここまで連れてきてくれてありがとう。もう怪我も治ったよ」
『それは良かった。ねえアリス、ゼロが大怪我したからってこいつ真っ青になってたわよね』
『え、ええ……』
 リンクは相棒を強くにらみつけた。同じ視線がそのままゼロに向けられたので、思わず「ひっ」と息を呑む。幼い顔立ちなのにリンクのそういう表情には妙に迫力があるのだ。
「今後、ああいうことはするな。薬の類も二人分用意しろ」
 それは、これからもゼロと一緒に行動するつもりだ、と宣言しているようなものだった。
「……うん、そうする!」
 ゼロは満面に笑みを浮かべた。リンクは若干居心地悪そうにそっぽを向いていた。
『で、これからどうするの? もう三日目だけど、町に帰る?』
「いや。約束した以上、一度ルルに顔を見せる必要がある」
 その時、ゼロがすっと片手を挙げた。
「それなんだけど――一つ、リンクに頼みたいことがあるんだ」
 彼には、一昨日からずっとあたためていた考えがあった。



「ワン、トゥー、スリー!」
 ディジョのドラムがリズムを刻む。巨大な二枚貝を彷彿とさせる形のステージには、ダル・ブルーのメンバーが勢揃いしていた。
 キーボードはリーダーのエバン、ドラムのディジョ、ベースのジャパス。中心に立つのはボーカルのルル、そしてミカウだ。
 待望のリハーサルを聴きにきたゾーラたちは、客席からステージへ熱視線を送っている。この公開リハーサルで、いよいよカーニバルに向けての新曲が披露されるのだ。
 その客席にはゼロもいた。そして、隣にはフードをかぶった人物が座っている。
 キーボードの複雑な和音とともに流れ出したのは、しっとりとしたメロディだった。ルルは、少し前まで声を失っていたとは思えないほど伸びのある声を出した。その主旋律をミカウのギターが見事に支えている。
 曲の最後の余韻が消えた瞬間、ゾーラホールは拍手に包まれた。
「……これをアタイに見せて、アンタは何がしたかったんだい?」
 フードとマントで身を隠した女性は、海賊の頭領アベールだった。ゾーラに知られれば大騒動間違いなしの危険人物である。だがゼロは、どうしても彼女にこの曲を聴かせたかった。
 海賊の砦で体を休めていた彼女――幸いにも大した怪我はなかったらしい――に接触し、お宝探索の首尾について話したいからと無理やりここに連れてきた。アベールはミカウがいることに驚きつつ、異様に興奮しているゾーラたちの雰囲気に飲まれたように、案外おとなしく客席に座っていた。
 だから少し安心していたのだが……今、鋭い目線がフードの影からゼロを刺している。
「まさか、龍神雲のお宝がこれだって言うんじゃないだろうね」
 その通りだったのでゼロはうつむいた。
「あの雲の中にお宝はありませんでした。でもタマゴが孵ったおかげで、ダル・ブルーはリハーサルができたんです」
 アベールは呆れたように肩をすくめた。
「アタイらがほしいものはそういうものじゃないんだよ。この歌に、金銀財宝にまさる価値があるっていうのかい」
「ルルさんは――」ゼロは一度区切り、唾を飲み込む。「ボーカルのルルさんはあのタマゴを産んで声をなくして、ギターのミカウさんは傷ついて倒れて……それでも今、こうしてダル・ブルーとして演奏しています。だから……」
 うまく言葉にできず、詰まってしまう。アベールはため息をついた。
「目に見えないものがお宝だって? そんな考え方は海賊がするもんじゃないだろ」
 リハーサルなのになかなか拍手がやまず、ダル・ブルーはアンコールに応えるかどうか迷っているらしい。ルルがわくわくした様子でメンバーと相談している。
「だが……今の曲は悪くなかったんだよね」
 ゼロは顔を上げた。
「考えてみりゃあ、身銭を切ってゾーラバンドを聴きに行くやつは大勢いるんだ。それがあの曲の価値ってことか……」
 アベールの口調は苦い。
「まあ、海に眠るお宝があるなんて、あの小鬼の言うことをホイホイ信じたアタイらにも落ち度があった」
 彼女は唇を三日月型にして、ゼロを誘うようなまなざしを向ける。
「アンタ、なかなかいい男だね。ポストマンにはもったいないよ」
「そんなことないです。オレは自分よりずっといい男を知ってますから」
 それだけは自信を持って答えられた。
 アベールは軽く手を上げ、アンコールの気配にざわめく客席から去っていった。
 代わりに、離れて様子を見守っていた青い光が戻ってくる。
『ゼロさん……』
 心配そうな視線を感じた。ゼロは安心させるように笑った。
「大丈夫だよアリス、あの人も分かってくれたから」
 だが、ゼロがその言葉によってアベールを納得させられたわけではない。あれはダル・ブルーの演奏自体に説得力があったおかげだ。
 二人はアンコールの曲をたっぷり楽しんだ。人気のある楽曲らしく、皆が体を揺らしている。いつかカーニバルの本番でも聴きたいものだ、と心から思えた。
 やがて演奏が終わり、三々五々客席からゾーラがいなくなりはじめても、ゼロはずっと目を閉じて曲を反芻していた。
 目の前に影がさした。緑の服を着た子どもが立っている。どこかでゾーラの仮面を外してきたらしい。
「お疲れ様。リンク、ギター上手いんだね」
「あれはミカウの演奏だ。俺じゃない」
「ミカウさんがキミと一緒にいるの……?」
 ゼロは目を丸くした。リンクは手に持ったゾーラの仮面を軽く叩く。
「仮面の中にな。その気になれば会話もできる」
「じゃあミカウさん、ルルさんと一緒にリハーサルできて喜んでたかな」
「だろうな」
 リンクは口の端を持ち上げた。いつもは動かない表情がわずかに崩れた瞬間、ゼロは心の中に日が差したようなあたたかさを感じた。
 アリスがすうっと前に出る。
『リンクさんは、ゴロンやデクナッツにも変身できるとおっしゃっていましたね。その仮面を見せていただけませんか』
「ああ」
 リンクは荷物袋の口を開く。脇からその中を覗き込み、ゼロは声を弾ませた。
「いっぱいお面があるね!」
「ほとんどもらいものだ。これはカマロのお面、まことのお面……」
『カーニバルが近いからか、みんな渡してくれるのよね』
 リンクが荷物から取り出した中でも、豚のような顔をしたお面が気になった。
「へえ……面白い形だね」
 ゼロは何気なくお面に向かって手を伸ばした。
『それはブーさんのお面よ。デクナッツの王国で手に入れた――』
 指先がほんの少し触れただけで、視界が白く塗りつぶされていく。「しまった」と気づくがもう遅い。
 意識が遠のく一瞬、お面が薄らいでいくのが見えた。



 突然目の前に灰色のローブをかぶった魔物が襲いかかってきた。「彼」は金色の剣を横薙ぎにし、走りながら斬り捨てた。そのまま道中に同じ魔物が何度も現れ、その度に足を止めずに対処した。
 今までの白昼夢と違って緊迫感があった。ちらりと横目に見える石造りの建物からは煙が出ており、火災が発生しているらしい。もしや、あれが前に廊下を歩いていたお城だろうか。
 何かを目指して「彼」は走り続ける。視界の隅には例の大樹がある丘が見えたが、目的地はそちらではないようだ。
 物騒な雰囲気、遠くから聞こえる剣戟の音。ついに、敵国とやらを相手取った戦いがはじまってしまったのだろうか。
「待ってましたよ」
 崖の上から声が降ってきた。そこにいたのは、大鎌を持った喪服の少女だ。楽しげに高笑いして、こちらに武器を向ける。
「彼」はひらめきとともに理解した。紛れもなく、彼女がこの状況を作り出したのだと。
「このイカーナ王国は私たちのものです!」
 薄い唇が妖艶に弧を描いた。



「イカーナ王国……?」
 ゼロは自分でも知らぬ間につぶやいていた。
 白昼夢から覚めると、ブーさんのお面は忽然と消え失せていた。
(ま、まずい)
 こちらを見るリンクの目は据わっている。
「もう言い逃れできないぞ。ロマーニのお面の時もそうだった。何故、お前がさわるとお面が消えるんだ」
「うっ」
 そんなこと、こちらが教えてもらいたいくらいだった。
『お面に触れてからしばらくぼうっとしていましたよね。声をかけても反応がありませんでした。一体どうされたんですか』
 アリスの助け舟はいつも的確だった。ゼロは少しだけ気分を落ち着けて、頭の中を整理するように話しはじめる。
「オレがお面にさわると……どこか知らない場所の景色を見るんだ。白昼夢っていうのかな? 金髪の女の子が出てきて、その子がオレのことを名前で呼んでるけど、いつも聞き取れないんだ。……別に、ただそれだけだよ」
 とりとめもない話になってしまう。先ほど見た緊迫した状況について話すべきだろうか迷い、言葉が途切れる。
 リンクはぽつりと言った。
「それが、自分の記憶なんじゃないか」
「え?」
「大妖精によると、お前の記憶は外部にあるんだろう。理屈は不明だが、記憶がお面の中に封じられていて、接触することで回収しているんじゃないのか」
 心臓の音がうるさい。リンクと目線を合わせられない。筋が通っていることは分かるのに、理解のための思考が働かなかった。
「そんな――だって、あの時見る景色なんて、どこも全然覚えがないんだよ。
 そうだアリスは? 何か思い出した時、どこか懐かしい感じがしたの?」
『えっ、はい……』
 声が震えるのをごまかそうとして、ゼロは無理に笑った。
「ほら。オレはアリスと違って、あの景色が全然しっくりこない。記憶を取り戻した感じなんて全くない。あれば全部、オレの知らないことなんだ」
 チャットはそんなゼロの退路を塞ぐように、静かに言った。
『いい加減認めたら? それが昔のアンタなのよ』
 ゼロは呆然としていた。
 この繰り返される三日間に、彼は自覚していた以上に愛着を抱いていた。名前すらなかった自分が、「ゼロ」になってひとつひとつ積み重ねてきた思い出たちはどれも大切なものだ。
 だが、自分には本当の名前があり、正しい記憶がある。ゼロとして生きてきた時間が、見知らぬ色で塗りつぶされてしまうように感じた。
 黙り込むゼロを見て、アリスは小さな声を絞り出す。
『お面にふれた時、記憶を得るとともにそのお面が持つ能力を得る……ということでしょうか。一日目、ゼロさんはポストハットに触っていましたから』
『ああ、ポストマンと勘違いされたのってそのせいだったんだ』
 リンクはお面をしまった。ショックで表情の抜け落ちたゼロと違い、彼はあくまで平静だった。
「残りのお面は俺が預かっておく。このお面が全てお前の記憶かどうかは分からないが、少なくともデクナッツ、ゴロン、ゾーラの仮面はこれからも使う可能性が高い。今消えるのはまずいだろう」
 ゼロは「ありがとう」を言う気力もなくうなだれる。
 アリスが何かを覚悟したように、そっとつぶやいた。
『先ほどの白昼夢の後、ゼロさんは「イカーナ王国」……と言っていましたね』
『イカーナって、確か谷の方の地名よね?』
『はい。つまり、ゼロさんはその場所に縁のある方かもしれません』
 ゼロはほとんど反応を返さなかった。己に関する情報が一気に頭に流れ込み、全く処理しきれていないのだ。
「イカーナ王国は、どういう場所なんだ」
 アリスは言いづらそうに、
『谷――ロックビル地方にある由緒正しい王国です。なんでも巨人族がいる土地だとか。ですが、あの国は……数百年も前に滅びたはずです』
 三人の視線がゼロに集まる。その中心で、彼は瞳を暗く沈ませていた。
 オレは、一体誰なの――?



「あのね、わたしはリンクのことは手伝えないかもしれないけど、それでも絶対何かやってみせるから。せっかくいっぱい時間があるなら、わたしにできることをしたい。そうやって成し遂げたことは、時が繰り返しても無駄にはならないはずだよ」
 前回、リンクに胸を張って宣言したことを果たすため、ルミナは次の「一日目」からさっそく行動を起こすことにした。まずはごく身近なところから――行方不明のカーフェイを見つけて、アンジュを安心させてあげるつもりだった。
 しかし、その決意は早くも挫折しかけていた。
「ここにカーフェイがいるんでしょう?」
 アンジュがクリミアに強い視線を送っている。ルミナはそれを黙って見つめるしかなかった。
 今回、ルミナは初めてゴーマン一座の仲間とともにゴーマントラックまで避難してきた。全ては「ロマニー牧場にカーフェイがいるかもしれない」という噂の真実を探るためである。
 この三日間ではローザ姉妹の悩みを聞き、グル・グルの過去を教えてもらってブレー面というお面を譲ってもらった。ブレー面は、かぶると動物をあっという間に成長させることができるという不思議なお面だ。ルミナはそれを活用し、ロマニー牧場に併設されたコッコ小屋で「月が落ちるまでに雛が大人になるところを見たい」と嘆く管理者ナデクロの願いを聞き入れ、コッコを成鳥にした。お礼としてナデクロからはウサギずきんを貰い受けた。
 一度行動をはじめると、同じ三日間でもこれだけ充実した時間を過ごせるのだ。ルミナは病みつきになりそうだった。
 だが――三日目の夕方、ルミナたちに遅れてロマニー牧場にやってきたアンジュとその母親は、婚約者カーフェイがここにいると疑ってかかり、真正面からクリミアを問い詰めたのだ。車椅子に座る祖母だけが、ぽかんとしてそれを見守っていた。
 クリミアは肩を怒らせて対抗する。
「カーフェイはいないわ。どうしても気になるっていうのなら、家探しでもしたらいいじゃないの」
 この場にロマニーがいないのは幸いだった。見ているだけのルミナすら足がすくむほど、険悪そのものの雰囲気だった。これでは前回よりも悪化している。こんな場面を見たくて、はるばる牧場まで来たわけではないのに。
(わたし、あきらめたくないよ……でもどうしたらいいの、リンク!)
 こんな時、真っ先に頼りたくなるのは何故かあの子どもだった。
 彼女の訴えを聞き入れたように、どこからともなく時の歌が聞こえてくる。ルミナはこのときばかりは無慈悲な時の流れに感謝した。
(次は絶対もっとうまくやるから。待っててねアンジュ、クリミア……それとカーフェイ!)

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