第五章 亡国への鎮魂歌



 妖精たちの羽音も聞こえないような静寂の中にいた。
 これまでリンクが見た中で一番暗く、まるで苦いものを噛んだような表情で、ゼロは「一人で行かせてくれ」と告げた。
 その一瞬で、勝手に抱いていた怒りがすうっと冷えた。
 リンクはゆっくり息を吸う。
「理由を聞かせろ」
 当然の質問だった。さすがにゼロも無視しなかった。ただし、口調は果てしなく重い。
「それは……オレには、使命があるから」
「一体何の?」
 リンクは畳みかけるように問いを重ねた。ゼロは唇を噛む。
「自分の正体を知ったんだよ」
 語尾が震えている。
「オレは――オレは『鬼神』。昔、イカーナの守護神をしてたんだって」
 守護神、という単語にリンクは目を見開いた。ゼロはどこからどう見ても普通の人間で、神などという大層な存在には思えなかった。あのイカーナの亡霊たちが全員でゼロを騙しているとも考えにくいが……
 少なくとも、ゼロには何か心あたりがあるのだろう。例えば、お面にふれた時に見る「記憶」の光景で。
「あの紫の人、メグさんから聞いたんだ。オレの力が足りないから、イカーナは戦いに負けてこうなったんだって……。
 みんなが亡霊になってしまったのに、オレだけ生きているんだ。だから、ロックビルはオレが攻略する」
 ゼロはからからに乾いた声を絞り出す。アリスが何か言おうとして諦める気配がした。
「とにかく、イカーナもロックビルの神殿も、リンクには関係ないことなんだよ!」
 ゼロは吐き捨てるように叫んだ。すうっとリンクの目が細くなる。
「……今までもそうだ。月のことだって旅人のキミに全部押し付けてしまっていた。本当はタルミナの人がなんとかしなくちゃいけなかったのに! だから……もう遅いかもしれないけど、オレがこの先を引き受ける。そうしなくちゃいけないんだ」
「イカーナ王の呪いを解くこともできなかったお前が? 本当に、できるのか」
 リンクの視線は氷点下にまで冷え込んでいるようだ。ゼロは明らかにひるむ。
(……やはりな)
 思いつめた顔などして、まるで正論のように言葉を羅列しているが、要するにゼロは面倒な思い込みによって妙な方向に突き進もうとしている。
 あいにく、リンクとしては彼に勝手な行動をさせるわけにはいかなかった。
「イカーナ古城で俺を手助けしたのはそういうことだろう。自分ではどうにもならなかったから、俺に託したんだ」
「それは……」
 ゼロは顔色を失っている。リンクは一歩前に出た。頭一つ分ほど上にあるゼロの顔を、鋭く見上げる。
「俺たちと別れてから、今まで何があったか全部話せ。少なくともアリスは聞きたがっているはずだ」
 ゼロはきつくこぶしを握る。青色の光が心配そうに瞬いた。
「……分かったよ」
 そして、噛みしめるようにゆっくりと話しはじめた。



 ポウマスターに崖上に運んでもらってすぐ、ゼロは幽霊のメグという女性に迎えられた。彼はメグの案内によってイカーナ古城にたどり着き、そこで王の呪いを解いてほしいと頼まれた。
 玉座の間は薄暗かった。メグは手前で姿を消してしまったので、ゼロは一人きりでイカーナ王と対面することになった。
「鬼神どのではないか! 無事でおられたのだな」
 イゴース・ド・イカーナ王は開口一番そう言った。
 いつ誰に正体を告げられるかとびくびくしていたゼロは、とっさに反応できなかった。
「きしん……オレが、そうなんですか?」
 王はうなずいた。
「鬼神どのは我がイカーナの守護神ではないか」
 まさか自分がそんな大層な存在だったなんて想像もしていなかったので、ゼロは絶句した。
(オレが神様? ど、どのあたりが……?)
 思わず手のひらを見るが、ただの人間と何も変わらない体がそこにある。
 イカーナ王はうつむいて声を低くする。
「そうだ。あなたがいながら、どうして我らは負けてしまったのだ」
「あっ……」
 一気に室温が下がったようだった。ゼロは棒立ちになる。イカーナ王は全身に黒い影をまとったようだった。
 不意に高窓のカーテンが降りた。一気に視界が閉ざされる。
 なんだか喉が苦しい。息を吸った途端に肺が焼け付くように傷んで、彼はむせた。
「ゼロ様!」
 誰かが叫ぶ声がして、崩れそうになった体が止まった。うっすら目を開けると、赤と青の幽霊が両側から彼を支えている。
「あ、あなたたちは……」
「呪いが毒の作用をもたらしたのです。一度退避しましょう」
 幽霊に連れられ、よろけながら出口を目指した。ちらりと見えたイカーナ王の口からは紫の煙が出ていた。あれが毒だったのか。
 それ以上の追手がかからなかったおかげでなんとか城の外まで脱出すると、ゼロはぐったりと膝をついた。
 二人の幽霊はメグとよく似た顔立ちをしていた。赤い服を着た方が心配そうに覗き込む。
「もう姉には会われましたよね。私は次女のジョオです。私たちは四人姉妹で、王妃であった姉を補佐していました」
「三女のベスです」と青い方が一礼した。
 まだ体がぼんやりと熱を持っているが、新鮮な空気によってある程度回復したゼロは、喉のあたりをさすりながら二人を見る。
「メグさんが王妃様……そうなんですか。もしかして、あなたたちも昔のオレに会ったことがあるんですか」
「ええ……」
 赤のジョオは目をそらす。青のベスが首を振った。
「でも今、ゼロ様が記憶をなくしていることは知っています! ポウマスター様がお話していましたから」
 崖で門番をしていた男だ。この姉妹は彼の差金のようだった。
「あのポウマスターって人は何なんですか?」
「もともとイカーナの者ではありません。国が滅びてからやってきて、亡霊となった私たちを呪いから遠ざけてくださいました。王や音楽家たちは間に合わず、ああなってしまったのですが……」
 ベスが唇を噛みしめる。
 ゼロはひしひしと事の重大さを感じていた。皆呪いに苦しみ実体すら失っているのに、自分はどうして五体満足でここにいるのだろう。脳天気に旅なんかしていたのだろう――
 申し訳なさと後悔がこみ上げる。ゼロは覚悟を決めて尋ねた。
「鬼神について、知っていることを教えてくれませんか」
 できるだけ生の情報が欲しかった。ジョオが遠くを見るような目になり、
「鬼神様は、天界からやってきたイカーナの守護神であると昔聞きました。大きな戦いがはじまる予兆があったため、この地を守るために下りてきたのだ……と姉が言っていたのを覚えています」
「でもあの死神が裏切ったせいで、イカーナは……」
 死神。ぴくりとゼロの肩が動く。
 それはきっと、お面で取り戻した記憶の中にいつも出てきたあの女の子のことだ。大鎌に喪服のような黒いスカート。死神というイメージにぴったりである。何より彼女は鬼神に武器を向けていた――
 考え込んでいるうちに、げほ、と咳き込んだ。完全に毒が抜けきっていないのだ。
「ごめんなさい、一度大妖精の泉に案内してもらえませんか」
「承知いたしました」
 姉妹は顔を見合わせてうなずいた。
 イカーナ村の中、岩陰に隠れた目立たぬ場所にその洞窟はあった。
 たとえ大妖精が不在でも泉の力で回復できるかもしれない、と見込んでの行動だった。幽霊姉妹は入口で待つと言い、ゼロは一人重い足を引きずりながら洞窟に入る。
 呪いにまみれた地でも変わらず清浄な輝きを持つ泉の中心に、黄色の妖精がぽつりと浮かんでいる。例のほのぼのした顔立ちの大妖精だった。
「うわっ。だ、誰?」
 泉のほとりにやってきたゼロを見て、彼女は身を引く。
「突然すみません、大妖精様……」くらりと意識が遠のきそうになり、なんとか踏みとどまる。「見てのとおりです。解毒してもらえませんか」
「わ、分かったよ。それくらいならできそうだ」
 大妖精はすぐに真剣な表情になった。力を失った大妖精独特ののほほんとした顔も、まとう雰囲気によってずいぶん印象が変わる。
 泉から黄色の魔力が湧き上がった。その光が全身にまとわりつき、ゼロの体を隅々まで癒やしていく。
「……ありがとうございます」
 大きく息をついた。嫌な熱っぽさは抜けていた。
「それにしても珍しいね、こんなところに人が来るなんて――あ、もしかしてキミがゼロ? アリスと一緒に大妖精を復活させて回ってるっていう。お姉さんたちから聞いたよ」
「はい、そうです」
 アリス――その名を聞くだけで懐かしい気分になった。このイカーナの地で彼をまともに「ゼロ」として扱う者は、今のところ大妖精しかいなかった。
 谷の大妖精はびゅんと宙を駆けてゼロに肉薄する。
「じゃあ、ぼくのことも助けてくれるの!?」
「も、もちろん」
 大妖精は大げさに安堵した。
「あー良かった。例によって、妖精珠がロックビルの神殿の中に入っちゃったんだよね。しかもあのガロっていう奴らに光の矢まで盗まれちゃってさ……。あれがないと裏の神殿に入れないのに」
「裏の?」
 神殿に裏口でもあるのだろうか。
「まあ、とにかく光の矢もついでに取り返してもらえると嬉しいな。見つけたら好きに使ってもらっていいからさ。頼んでばっかりで申し訳ないけど、お願い!」
「いえ。解毒までしてもらいましたし、元からそのつもりです」
「そっかそっか。じゃあよろしく〜」
 大妖精は「これで問題が片付いた」と言わんばかりに怠惰に空中を漂う。
 久々に苦笑しながら、ゼロはふと質問を思いついた。
「大妖精様は、オレに見覚えがありませんか」
「なにそれナンパ?」と素っ頓狂な返事をされ、逆にゼロがうろたえてしまった。
「いや、いいんです。イカーナ王国の時代にも大妖精はいたのかな、と思って」
 大妖精は首をかしげた。
「ああ、多分それはぼくじゃなくて――あれっ、そういえばなんでアリスはいないの?」
 唐突な話題の転換だった。ゼロは凍りつく。
 もともと彼はアリスに請われて大妖精の復活に協力していた。主体となる妖精がいなくて不審に思われるのも仕方ない。
「あの、えっと……」
 どう誤魔化せばいいのか分からず、ただ口ごもった。そんな彼を大妖精はどう思ったのだろう。
「別行動ってことね。そういう時もあるって。何はともあれ、光の矢と妖精珠のことは頼んだよ!」
「はいっ」
 大妖精の手助けは、この繰り返す三日間の中でゼロがずっと続けてきたことだ。必ず成し遂げてみせる、と決意を新たにする。
 洞窟から出ると、そこには緑色の服を着た幽霊姉妹の末妹エイミーが待っていた。姉たちの姿は見えない。どうしたのかと尋ねるが、彼女は無口でほとんど何も答えてくれなかった。その日はもう遅かったのでどこかで休みたいと告げたら、黙ってイカーナ村の廃屋を見つけてきた。ゼロはそこでありがたく休ませてもらった。
 翌日、また幽霊姉妹の長女メグがやってきた。
「妹さんたちは一緒じゃないんですか?」
「ええ、あまりこの地で長く行動すると呪いの影響を受ける、とポウマスター様に言われております」
 だから交代で案内していたのだ。それでは、もしかして姉妹全員がまともに顔を合わせることはないのだろうか……と、ゼロの表情が暗くなる。
 メグは人形のように無機質な顔で、
「ゼロ様のお連れの方が、こちらに来るそうです」と告げる。
 リンクだ。ポウマスターに掛け合ってあの崖を越えてきたのだろう。知らず知らずのうちにゼロの体に緊張が走る。
「どうされますか」
「もう一度、お城に連れて行ってもらえませんか」
 何か策があるわけではない。しかしこのまま引き下がるわけにもいかなかった。
 道中、メグが突然「ありがとうございます」と言った。
「あなたが来てくださって、妹たちも喜んでいます。どうか王を――いえ、この国を救っていただけませんか」
 ゼロは唾を飲む。
「できる限りのことはします」
 今はそれだけしか言えなかった。
(本当にそんなことできるのかな……)
 事実、鬼神には成し遂げられなかったのだ。そして彼だけがどういうわけか記憶を失い、今も生きている。多少戦闘能力に優れている以外は、例えばリンクのように特別な力を持っているわけでもないのに。
 玉座の間の前で、ゼロは躊躇した。無為無策のまま突入しても昨日の二の舞だ。あの状態の王に話が通じるとは思えない。立ち尽くす彼に何も言わず、メグは姿を消した。
 しばらくして次女のベスが姿を現し、気遣わしげに進言する。
「そろそろ姉がお連れの方を呼んでくる頃です」
 リンクなら、この状況を打開できるかもしれない。
 でも、このまま彼に頼っていいのだろうか? グレートベイの神殿でもそうだった。ゼロはリンクのことを手伝いたいなどと言っておきながら、ほとんど何もできていない。
(リンクに合わせる顔がない……)
 今の自分は中途半端で釣り合わなくて、だからリンクの隣にはいられない。
 だからリンクがやってきた時、ゼロは部屋の闇に紛れて身を隠したのだ。
 そこで巻き起こった戦いを、息を殺して観察していた。リンクは鮮やかな手並みで兵士たちを退けていく。だが、イカーナ王と戦う段になって苦戦を強いられた。ゼロは遠くからその様子を見て、はたと気づいた。
(もしかして、王は太陽が苦手なのかな)
 イカーナ王はカーテンの隙間から漏れる光に当たりそうになると、すかさずバックステップをした。リンクも妖精たちもまだそれに気づいていない。
 息を整え、弓を引いて炎の矢をつがえる。狙うは窓を覆うカーテンだ。
 赤い光を尾のように引いた矢はまっすぐ飛び、分厚い布を燃やしていく。その結果をろくに見届けることなく、彼は控えていた幽霊に声をかけた。
「ごめんなさい、ここから出してもらえますか」
「……分かりました」
 次女のジョオは何も言わずにうなずいた。
 そのままゼロは逃げるようにロックビルの神殿に向かって――今に至る。



 口を閉ざしたゼロは、長いことうつむいたままだった。
 話を聞き終え、リンクは眉間にしわを寄せる。
「だから、お前は鬼神として一人で神殿を攻略すべきだと?」
「そうだよ。オレのせいでイカーナはこうなったんだ。オレには責任がある」
 責任、役割、使命。その概念は、リンクにとっても馴染み深いものだった。
 だが、このままゼロを一人で行かせても良い結果が得られるとは思えなかった。もちろん、彼を止める理由はそれだけではない。
「確かにお前ならイカーナを救えるかもしれない。だが、タルミナの状況を打開できるのは俺だけだ」
 リンクは己の言葉を証明するように、時のオカリナを取り出した。
 そう、どうやってもゼロは時を巻き戻すことができない。たとえ最初から己の正体に気づいていたとしても、その点だけはどうすることもできなかった。
 ゼロの顔が泣きそうにゆがむ。無力感に苛まれる様子が手に取るように分かる。
「どうして……」
 悲痛な独白がロックビルの谷間を落ちていった。
「どうして、リンクはそこまでできるの。旅の途中でタルミナに来ただけなのに、なんで!?」
 それはきっと、ゼロだけでなくチャットやアリス、ルミナすら抱いていた疑問だろう。
 ゼロは混乱し、焦っている。だからこそ、時間をかけてきちんと答える必要があると思った。
(一度、話しておくべきか)
 乾いた風が吹き抜ける。ゼロの瞳は普段より深い赤色に染まり、いっぱいに見開かれていた。
「俺の故郷、ハイラルという国には、ある伝説があった」
 長話には慣れていない。考え考え言葉を選んでいく。
「い、今はそんな話をしてる場合じゃ――」
 リンクはゼロの足元にギブドのお面を投げつけた。それだけで、青年は動けなくなる。
「なら、そのお面を拾って神殿に進むといい。だいたい、お前が寝坊したせいで時間がなくなったんだ。少しくらい昔話に付き合っていけ」
 リンクは足場の端に腰掛けて、隣をとんとん叩く。ゼロは渋々そこに座った。終始リンクと目を合わせようとしない。
 左手首に巻いた腕輪を無意識になでながら、リンクは話しはじめた。



 リンクの故郷には、時の勇者の伝説というものがある。時を越えてやってきた勇者が悪を討ち姫を助けて国を救う、典型的なおとぎ話だ。
 勇者ははじめからその使命を知っていたわけではなかった。彼は深い森の奥で生まれ、妖精をパートナーとする不思議な種族に囲まれて暮らしていた。
 ある時、森を守る大樹に異変が起きた。外部からやってきた侵入者が呪いをかけたのだ。彼は大樹に請われ、相棒の妖精とともに呪いの元を断った。その時、「魔王」という存在が外の世界――ハイラルの国を闇に包もうとしていると、瀕死の大樹から知らされた。
 そのまま命を落とした大樹に別れを告げ、まだ幼い彼は広い世界に足を踏み出した。故郷の仲間たちには「自分たちの種族は森の外に出ると死んでしまうんだ」と言われたが、彼の身には何も起きなかった。彼は森の外からやってきた別の種族であり、その出立は運命とも呼べるものによって定められていたことだった。
 ハイラル王国の中心である王城を訪れた彼は、予言をもたらす姫と出会った。彼女は魔王の存在を危惧し、彼に三つの精霊石を集めるように指示した。魔王はハイラルのどこかにある「聖地」という場所と、そこに隠された「秘宝」を求めていた。姫は秘宝を守るため、魔王に先んじて聖地への扉を開こうと考えたのだ。そして、精霊石こそが聖地の鍵であった。
 幼き勇者は森を出る際、大樹から精霊石の一つを授かっていた。彼は残りの精霊石を集めるため、高き山を登り、深き水源を訪れた。魔王の放った刺客に妨害を受けつつも、行く先々で出会った人々の力を借りながら、見事に石を集めきった。
 彼は王家に伝わる楽器――時のオカリナを姫から貰い受け、ある特別な歌と三つの精霊石によって、聖地への扉を開いた。
 扉を抜けた先には、秘宝へ至るための鍵となる「退魔の剣」があった。その瞬間まで剣の存在を知らなかった彼は、まるで何かに導かれるように台座から刀身を抜いた。
 しかし、剣の主として彼はあまりにも幼すぎた。剣を振るうにふさわしい年齢に育つまで、彼の体は聖地に封印された。
 ――次に気がついた時には、七年の歳月が過ぎていた。そして彼は、自分こそがハイラルを救うべき「時の勇者」であると知らされた。あろうことか彼が聖地に封印された隙をついて、何よりも守るべきだった秘宝に魔王がふれてしまったのだ。七年の月日は、豊かな光の国ハイラルを魔王の支配する暗黒の国へと変えていた。聖地で彼を待っていた賢者は「神に選ばれた時の勇者として退魔の剣を使い、魔王を倒せ」と命じた。
 今まで彼は、「ハイラルが魔王に蹂躙されるのは我慢ならない」という気持ちに突き動かされてきた。だが、いくら大層な称号といえど、勇者などという存在になじみはない。もしかして、自分には神に与えられた使命とやらがあったから、精霊石を集めていたのだろうか。あの時衝動的に剣を抜いたのだろうか。彼は自分のことが分からなくなった。
 それでも立ち止まっている暇はなかった。七年の間に行方不明になってしまった姫に代わり、聖地にいる賢者が勇者を導いた。彼は心の整理がつかないままそれに従い、魔軍に支配された各地の神殿を解放していった。
 退魔の剣を振るううちに、彼の精神はどんどん麻痺していった。このまま導きに従い敵を倒せば誰も文句は言わない――そう思い込むようになった。彼に望まれているのはただ魔王を討ち取ることだけだ。平和を取り戻したハイラルに、きっと自分の居場所はない。
 そう思うと急に楽になった。要するに何も考えず手を動かせばいいのだ。戦いの果てに、彼は姫と再会し、魔の巣窟と化したかつての城を落とした。秘宝の力を得た魔王も、退魔の剣のはたらきと賢者たちの力によって封印することができた。
 戦いが終わってすぐのことだった。姫は「勇者から奪ってしまった七年の時を返す」と告げた。彼の想像は正しかった――やはり、平和な時代に勇者は必要とされていないのだ。賢者たちの長となった姫は時のオカリナを吹いて、彼をはるかな過去へと送り返した。
 時をさかのぼっていく感覚に身を委ねながら、勇者は考えていた。
 自分は果たして己の意志で戦っていたのか、と。ただ言われたことに従って動いていただけではないか――否、最初は確かに自分の内側から生まれた動機があった。いつからかそれが消え失せ、心の真ん中がぽっかり抜けてしまったのだ。
 だからこそ姫は彼を勇者という役割から解放し、七年の時を戻したのかも知れない。彼女は「大切な記憶と時間を、どうかその手に掴んでください」と最後に言い残していた。
 だが、その取り戻すべきものが何なのか、もはや勇者ですらなくなった彼には分からないのだった。



 長い長い話を終えて、リンクは小さな唇をつぐんだ。
 ゼロは抱えた膝に額を押しつける。つい先ほどまで自分のことで頭がいっぱいだったのに、今はリンクの語った内容が思考のほとんどを占めている。
 話の途中でゼロは悟った。時の勇者とは、リンク本人なのだ。
 時のオカリナを持ち、七年の時を超え、大人の体で冒険を終えて再び子どもに戻った。リンクの底知れない落ち着きようは、七年分の重みを背負っているからこそだ。勇者という称号だって、ゼロの鬼神よりもずっと似合っている。
 皆無言だった。それぞれ今の話を咀嚼していた。
 リンクはただ昔話を聞いてほしかったわけではないはずだ。時の勇者としての経験と照らし合わせて、悩むゼロに何かヒントを与えようとしている。
 自分の関与しないところで定められた使命に、人はどう向き合うべきなのだろう。思考停止してただ従うのか、知らないふりをして逃げてしまうのか、それとも――納得して選んだ道でなければ、最後に後悔するのは自分だ。
「ゼロ、お前は鬼神に戻りたいのか。滅んだイカーナ王国を復活させたいのか?」
 リンクは穏やかに尋ねる。
「もちろん、使命とやらを受け入れて生きていく道もあるだろう。だが、お前は亡霊たちと違って生きている。いつもあれだけぐっすり眠れるくらいだからな。他に選べる道もたくさんあるはずだ」
 わずかに細めた瞳にいたずらっぽい色を浮かべ、リンクはゼロの手をとった。皮膚の下、血が流れる音すら聞こえるような静けさだ。リンクの声だけがゼロの耳を通り、胸に染み込んでくる。
「タルミナを救えるのはきっと俺だけだろう。グヨーグを倒した時、巨人に導かれたのは俺とチャットだけだったから。
 だが……それは俺一人では成し遂げられないことだと思っている」
 リンクはまっすぐにゼロを見上げた。今のイカーナでは決して見られない、青空を思わせるような瞳だ。
「ゼロ、俺の仲間になってくれないか。鬼神としてすべきことを、今は少しだけ後回しにしてほしい。スタルキッドとムジュラの仮面を止めるために、お前の力が必要なんだ」
 リンクははっきりと言い切った。
 ロマニー牧場で出会い、グレートベイの途中から一緒に行動するようになった。しかし、今まで明確にこうした誘いを受けたことはなかった。そもそもリンクは自分の思いをストレートに他人に告げることがほとんどない。
 そんな彼が今、他でもないゼロを頼っているのだ。
「オレでいいの……?」
 弱々しい問いかけに、リンクは早口で付け加えた。
「いや、お前だけじゃなくて、チャットやアリス……ルミナにも手伝ってもらうことがある。まあ、そういうことだ」
 今さら少し照れくさくなったようだ。ほおが赤く染まっている。その顔には、彼が語った「ただ使命を果たすために剣を振るっていた」時の勇者の面影はどこにもない。
 ゼロは握られたままになっていた手に、もう片方の手のひらを重ねた。
「オレ、自分が鬼神だって聞いてから、どうすればいいか分からなくて……。お面を触った時に見る記憶も、なんだか全然自分のものと思えないんだよ。
 イカーナの人たちは、オレに鬼神として生きてほしいんだろうと思う。でもオレは――ゼロとしてリンクについていきたい!」
 迷いのない返答に、リンクは力強い首肯を返した。
 今やっと自分はリンクの仲間になれたんだ。視界が明るく澄み渡ったような気がした。
 妖精の羽が空を切る音して、青い光がゼロの網膜を照らす。
『ゼロさん、私、あの』
 あの聡明なアリスが言葉に迷っていた。
『あなたにまた会えて……良かったです』
 それだけ言うと、まるで涙のようにぽろぽろと光の粒がこぼれた。ゼロは焦りながら両手を差し伸べる。
「ごめんね、心配かけたよね」
『そうよ、間違いなくアリスが一番心配してたんだから』
 チャットの声に反応して、アリスは何度か白く光った。はにかんだのかもしれない。
 リンクは唇を閉ざし、いつもの仏頂面に戻っている。だが、どこか満足気な様子で腕を組んでいた。
 この仲間たちのためにも、自分はずっと「ゼロ」のままでいたい、と心から思った。

inserted by FC2 system