第六章 二度とない刻のために



 まぶたを開け、視界に入ったのが見慣れたナイフの間ではなかったので、ゼロは飛び起きた。
(ど、どこだろうここ)
 頭がずきりと痛み、額に手をあてた。
 部屋はナイフの間の半分くらいの広さしかない。倉庫のようにごちゃついているが、ベッドと机だけは整っている。時計を確認すると、すでに三日目の朝だった。
(リンクはどこまで行ったんだろう)
 きい、とドアが開く音がして、ゼロは身をかたくした。
 部屋に入ってきたのはマニ屋の店主だった。いつもの黒メガネを外しているのでほとんど別人のようだ。店にいる時の危険な雰囲気はなく、ごく普通の丸顔のおじさんに見えた。
「おお、起きとったんか。いやー驚いたで、ウチの店の前で倒れるとか、やめてくれや」
 そうだ、ゼロはサコンを追いかけるリンクを見送り、そのまま西地区で意識を手放したのだった。
「あ、ありがとうございます。なんだか眠くて仕方なくて……うっかり倒れちゃったみたいです」
 あまり上等な言い訳ではなかったが、店主は「ほお」と納得した様子だ。
「ま、怪我も病気もないみたいやし、外でも眠れるなんて健康でええんとちゃうか」
「これでも一応困ってるんですよ」
 旅人としては得難い特性かもしれないが、のべつ幕なし眠気に襲われてはたまらない。
「なら、夜更かしのお面でもかぶったらどうや」
「お面……」
 ぱちりと頭の回路が切り替わる。お面、すなわち記憶の手がかりだ。
「もういつの品物かも忘れてしもたんやけど、ウチの商品やで。ケッタイなお面でなあ、顔につけたなら最後、どない眠うても眠うても眠られへんのや。コワイやろ〜」
 以前沼の薬屋で聞いた話が蘇る。こんなところに本物があったなんて。
 ゼロは身を乗り出す。
「それください!」
「いや、実は拷問道具でしたっていうオチなんやけど」
 それでも、二重の意味で今の自分に必要なものだ。ゼロは意見を曲げなかった。
「ホンマにええの?」と訝りつつも、店主は部屋を出て、すぐにそのお面を持ってきた。どうもここはマニ屋の裏部屋らしい。
 夜更かしのお面は、黒っぽい表面に血走った目が描かれている。なるほど、拷問道具にふさわしい見た目だ。
 五百ルピーを即金で支払い、お面を受け取った。商品の消える瞬間が店主から見えないように、ふところにしまい込む素振りをする。
 ゼロはぎゅっと目をつむった。
(……あれ?)
 しかし、覚悟していた感覚は訪れなかった。今こそあの白昼夢を見たいのに、つくづく思い通りにならない力だ。
 のちにまとめて反動が来るのか、もしくは「ゼロ」自身の記憶と境界がなくなるほど、鬼神の記憶が溶け込んでしまったのか。後者だった場合が怖いが、もうゼロは止まることはできなかった。
 眠りが不安定になったのは、お面から得た力の副作用だろう。それを新たな力で抑えるわけだ。あまり健全な方法ではないが、あと一日だけ持てばいい。
 物騒な方向に偏る思考を顧みて、ゼロはマニ屋の前で思わず苦笑する。
(アリスなら、止めたのかもな)
 そう、ちらりと考えた。



 ルミナに会って、お面を全部渡してもらおう。
 ゼロはそう決心した。リンクはゼロの体に及ぶ危険性を考慮して記憶の回収を後回しにしてくれたが、もうなりふり構っていられる場合ではない。
 マニ屋に礼を言って洗濯場から出た。ナベかま亭を訪れ、そのまま階段を上がっていこうとした時、視界の隅に開いた扉が見えて立ち止まる。普段は閉まっていたはずだ。
(あそこって何の部屋だっけ)
 これだけ長く滞在していても、まだ知らない部屋があったなんて。好奇心に駆られて、つい顔を出してしまう。
「こんにちはー……?」
 落ち着いた色の壁紙と絨毯が目を引いた。部屋の一角には暖炉があって、あたたかい火が焚かれている。
 その前で、ロッキングチェアに座る人物がいた。
「おや、トータス。父ちゃんの手伝いはすんだのかい?」
 老婆だ。きっちり肩掛けをして、手には本を持っている。「トータス」といいつつゼロを注視しているので、どうやらこちらに呼びかけているらしかった。
「いやその、オレはトータスさんじゃなくて」
 確かアンジュには祖母がいると聞いていた。いつも一緒に牧場へ避難しているはずだ。
「じゃあ、今日もかあちゃんがお話を読んであげよう」
「え?」
 目の前に「刻のカーニバル」「四人の巨人」という二冊の絵本を広げられた。選べと言われると断りづらく、ゼロは反射的に後者を指さしてしまう。
「おお、『四人の巨人』だね? これはかなり長いけど、タメになるお話だから力いっぱい読むからね」
 今更やめてほしいとも言えず、ゼロはおとなしくクッションの上に座った。
 巨人といえば各地の神殿でリンクが解放したタルミナの神様である。これから読まれるのはおとぎ話のようだが、何かヒントが得られるかもしれない。
 アンジュの祖母は穏やかに、そして流麗な口調で読み上げた。
「え……『四人の巨人』。民が今のように四界に分かれず、ともに暮らしていた昔の話。
 そのころは、四人の巨人たちも民とともに暮らしていた。
 ある収穫を祝う祭の日、巨人たちは民に言った。我らは眠りながら民を守ることにした。東に百歩、西に百歩、北に百歩、南に百歩――ことあれば、大きな声で呼べ。たとえ山の雪に閉ざされようと、たとえ海原に飲みこまれようと、叫びは届くだろう……」
 リンクから聞いたことがある。月を止めるためには時計塔の上でメロディを奏で、解放した四人の巨人を呼ぶのだと。それは、このおとぎ話に則っていたのだ。
「さて……これを聞きおどろき悲しんだモノがいた。
 小鬼だった。小鬼は、巨人たちが大地を創る前からの友であった」
 小鬼? 間違いなくスタルキッドのことだ。同じ種族の別人だろうか、もしくは……。
「なぜ、去りゆくのか! なぜ、とどまらぬのか! 
 幼なじみにおざなりにされたその怒りは四界におよんだ。
 小鬼は民に悪さをくりかえした。民はほとほと困り果て、四方に眠る巨人たちに祈りの歌をうたった。
 それを聞いた巨人たちは怒号をあげた。
 小鬼よ小鬼よ、我らは、民を守護するモノなり。お前は民を苦しめた。小鬼よ四界から去れ! さもなくば民に代わり、我らがお前を引き裂こう! 
 小鬼はおびえ悲しんだ。幼き頃の友を失ったのだ。小鬼は天界に帰っていった。
 こうして、四界に和が戻った。民は喜び、四界の巨人を神としてまつったとさ。
 めでたしめでたし……」
 老婆は話を結ぶ。いつしか真剣に聞いていたゼロは、「それは本当におめでたいことなのだろうか」と考えてしまった。
 小鬼が友を失い、悲しむ気持ちは理解できる。きっと、駄々をこねる手段を間違えただけだ。
(もしかして……死神もそうだったのかな)
 彼女が抱いた何らかの悲しみに、対処する方法が間違っていただけだとしたら。説得する方法は必ずあるはずだ。
 老婆はぱたんと本を閉じる。
「これでおしまいだよ。がんばったねトータス! どうだい、面白かっただろう」
「ええ、まあ……」
 ゼロには興味深い話だったが、絵があるといえど子どもには少し退屈かもしれない。夜更かしのお面の効力のおかげか、眠らずに済んで良かった。
「それじゃあクイズだよ。巨人を呼ぶにはどうするんだい?」
「えっと……歌をうたう、ですか」
「そうだね、でもその歌はどこで歌ってもいいわけじゃないんだよ。そう、巨人たちが別れた場所――このクロックタウンの真ん中さ」
 時計塔だ。そこにスタルキッドがいて、ムジュラの仮面がある。
(あの子が待っているんだ)
 ゼロはその存在を強く意識した。



 二日目の夜、ゼロと別れてサコンを追いかけはじめてすぐ、リンクは自分のものとは別の足音に気づいた。
 相手は素人だ。足音を忍ばせるということを知らない。これでサコンに見つかっていないのは、ひとえに十分に距離をとっているからだろう。そして、相手はリンクの存在に気づいていないようだ。サコンを見失わないように気をつけながら、平原をぐるりと回り込む。
 草むらで身をかがめる小さな影に、声をかけた。
「おい」
「うわ!」
 叫びそうになる口を、リンクはとっさに手でふさぐ。子どもだった。こちらとそう年齢は変わらないだろう。暗い色の髪の毛が、肩のあたりで外に跳ねている。
「お前もあのスリを追ってきたのか」
 子どもはこっくりうなずいた。丸腰でここまで来た度胸は褒めるべきか、無謀というべきか。
「ボクはカーフェイだ」
 小声で名乗る。リンクは思わずじっくり顔を眺めてしまう。確かルミナが探していた人物だったはずだ。彼女と同じくらいの年なのだろうと勝手に思いこんでいたのだが。
 二人が見つめる先で、サコンは平原に空いた穴の中に入っていった。そこで一晩を明かすつもりのようだ。
 リンクはその場を離れ、穴を見張ることができる位置に腰を下ろす。するとカーフェイもついてきた。
「ルミナにはもう会ったのか」
 そう問うと、カーフェイは驚いていた。
「ああ、何時間か前に。キミは旅人……だよな。そうか、キミがリンクか。ルミナから聞いたよ」
 一体どういう話をしたのだろう。カーフェイはやや改まって膝を揃える。
「リンク。昨日、キミがマニ屋に来たのを裏から見たんだ。キミも何か大切なものを盗まれたんだろう? 
 ボクもそうなんだ。サコンから取り返すために、どうか協力してくれないか」
 リンクは黙って視線を返す。
「協力して俺に何の得がある。お前が何か役に立つのか?」
 カーフェイはむっとして唇を引き結んだ。
「キミみたいに剣は持ってないけど、やる気ならあるさ」
 絶対に譲る気はないという態度を見て、リンクはため息をつく。
「そうか。ならその気持ちを少しでも長続きさせるために、今は休んだ方がいい」
「……いいのか?」
 それは事実上の了承だった。リンクは渋々うなずく。
「お前が見張っていても、何かあった時に対処できないだろう」
「助かる。ありがとう」
 リンクはそっぽを向いた。さすがにルミナの知り合いを放置するわけにもいかない。だいいちリンクがいてもいなくても、カーフェイは丸腰のまま平原を渡ろうとしていただろう。やる気があるのはいいが、一直線に行動して破滅するタイプに違いない。
 許可をもらったとはいえ、カーフェイはまだ寝転ぶつもりはないらしい。じっとリンクの横顔に目線を合わせている。
「昨日マニ屋で一緒にいた彼は、キミの仲間なのか」
「……そうだが」
「今は別のところにいるのか?」
 リンクは唇を噛む。
「あいつには関係ない。これは俺の失敗だからな」
「その気持ち、分かるよ……」
 それきり何も言わないと思えば、カーフェイはすっかり草の上に体を丸めて眠りに落ちていた。かなり疲れていたようだ。
 リンクは膝を抱え、まんじりともせず夜空を眺めた。仄白く光る月は、町をまるごと食べようとしているかのように大口を開けている。その脇にはひっそりと星々が輝いていた。
 明日、あの月に乗り込む。前回はスタルキッド相手に手も足も出なかったが、今度こそは打ち倒せるという確信があった。
 なぜなら、今の彼にはたくさんの仲間がいるのだから。



「あれ、カーフェイは?」
 三日目の朝。洗濯場からマニ屋の裏部屋を訪れたルミナを待っていたのは、マニ屋の店主――ではなく、そのお隣の雑貨屋の店主だった。彼らが同一人物であるというのは町では有名な話である。カーフェイはいなかった。
「ああ、オマエがルミナか。ワシな、カーフェイからことづかっとんのや」
「えっ?」
 店主は腕組みをし、うんうんとうなずく。
「カーフェイな……ワシ、ちっちゃいころから知ってんねんけど、ガキの姿であらわれた時はビックリしたで〜。
 けどな、持ってたキータンのお面で一発で分かったんや。大昔にまだちっこいカーフェイにワシがあげたお面やねん。まだ、大事に持っててくれたんやな……。
 なんやよう分かれへんけど、これ、オマエにやるわ」
 昨日カーフェイがかぶっていた黄色いキツネのお面だ。ありがたく受け取るが、ルミナはカーフェイ本人がいないため気が気でない。
「はあ。ありがとうございます。それでカーフェイは……?」
 店主はうーんと首をかしげる。
「カーフェイな、ゆうべ店に客が来てんけど、それ見て血相変えて追いかけて行きよったんや。そいつ、常連客でな。サコンゆうケチなスリや。確かイカーナの村出身ちゃうかな?」
 思わずあっと声を上げる。サコンは太陽のお面を盗んだ泥棒だ。カーフェイは自らお面を取り戻しに行ったのだ。
「もしかして、リンクに――金髪で緑の服を着た子どもに会いました?」
「おお。会った会った。白い兄ちゃんに連れられて、おととい店に来たわ。その兄ちゃんは今朝までここにおったけどな」
 ゼロがこの部屋にいた? 思わずチャットに目線をやる。妖精はふるふる震えて「心当たりはない」と伝えた。
「夜、店の前に倒れとって、びっくりして運んだんやけど。朝起きたらなんかえらい急いでどっかに行ってしもた」
 カーフェイの話からすると、リンクたちもサコンを追いかけていたはずだ。二手に分かれてリンクだけがサコンを追ったのかもしれない。
「頼み事ばっかりで申し訳ないんやけど……カーフェイな、コレをカーフェイのオカンに届けてほしい言うてたで」
 最後にマニ屋から手渡されたのは封筒だった。速達という指定がされている。
 これからアンジュと一緒に町長公邸に向かう予定だ。ちょうどいい、その時に渡そう。
(それにしてもゼロはどこに行っちゃったんだろう?)
 疑問を抱きつつ、ルミナはチャットと一緒に部屋を飛び出した。



 町長公邸の受付嬢は、大儀そうに身をよじった。
「なんかあ、カイギ終わったみたい。オトコくさ〜いヒトタチ、部屋からたくさん出てきたよ」
 左を向くと、廊下に男たちがひしめいていた。むわっとした空気が溜まっている。チャットが嫌そうに羽根をぶぶぶと鳴らした。
「よし、このことを全員に周知するんだ」
 町兵団のリーダーであるバイセンは、やる気に満ちあふれた様子で指示を飛ばしていた。一方、青い法被が目印のカーニバル実行委員会は、どす黒い気配を垂れ流している。
「こうなったら、町長命令に逆らってでもカーニバルを実行するしか……」
 そのつぶやきを、耳ざとくバイセンが聞きつけた。
「おい! 何をするつもりだムトー」
 まさに一触即発の雰囲気だ。「まずいことになっちゃった」と焦るルミナの横をすり抜け、アンジュが大股で町長の部屋に入る。
「失礼します」
 あの控えめなアンジュとは思えないほど大胆な行動だ。慌ててルミナも後に続いた。
「はーいどうぞ……うわっ!」
 げんなりした様子で椅子に腰掛けていた町長が、アンジュを見て大げさにのけぞった。
「ええと、ナベかま亭のアンジュさん……それに、ゴーマン一座の人? ワシに何の用かなあ」
 町長はへらへらと愛想笑いを浮かべる。本当に意見を押し通して会議を終わらせたのか疑わしくなる態度だ。
 アンジュは毅然として尋ねる。
「避難命令が出されたというのは、本当ですか」
「えーまあ、うん……そうだね」
 町長はいじいじと指を突き合わせる。そしてあろうことか「だってヨメさんが、そうしろって言うから」などとのたまった。
 彼は恐妻家として有名だった。相手があの実力者アロマ夫人なのだから無理もないことだ。
 しかし本当に夫人がそのような発言をしたのだろうか? 昨日ルミナにカーフェイの捜索を依頼したばかりなのに、息子を置いて自分だけ避難などするものだろうか。
 アンジュは、すっと銀色のお面を取り出した。つるつるした表面のシンプルなつくりのそれは、めおとのお面の片割れである。
「あ! それは……」町長が目を丸くする。
「お願いです。避難を待っていただけませんか。私はカーフェイをここで待ちたいんです」
 アンジュが思った以上に強硬な態度だったので、ルミナが急いでフォローに入る。
「えーっと、全員町から避難した方がいいっていうのは分かりますけど、中には残りたい人もいると思うんです。ほら、無理やりカーニバルを中止にすると、ムトーさんあたりが暴動起こしそうな雰囲気でしたよ」
 本当は「月は絶対に落ちない」と言い切りたかった。だが、このタルミナでそんな確信を持てるのは、時の繰り返しに堪えて記憶を蓄積し、さらにリンクのことを知っているごく限られた者だけだ。
「アロマ夫人もきっと、絶対避難しなきゃいけないって言ったわけじゃないんですよね?」
「ああ……実はそうなんだよ」
 ドトール町長は肩の力を抜いた。当人だって、延々続く会議に嫌気が差していたのだろう。避難だろうがカーニバル実行だろうが、どちらでも良かった。とにかく背中を押してほしかった。だからきっと、アロマ夫人の何気ないつぶやきに飛びついたのだ。「そろそろ避難した方がいいのかもね」といったような、曖昧な言い回しの言葉に。
「それならアンジュが残ることも、カーニバルの準備を続けることも認めてください!」
 町長はあっさりとうなずいた。
「……うん、分かったよ」
 こうして小娘二人であっさり説得できたのは、おそらく町長自身がその言葉を待ち望んでいたからだろう。
 ありがとうございますとほおを上気させ、アンジュは浮き立った足取りで退出する。それに従おうとして、ルミナだけが呼び止められた。
「カーフェイについて、何かヨメさんから聞いた?」
「はい。見つけてほしいと頼まれました」
 カーフェイのお面を取り出してみせる。町長は身を乗り出し、
「もしかして、マニ屋とももう会ったのかな」
「え? まあ……」
「アイツ、実はワシの悪友なの」
 その発言で何かがつながった気がした。小さくなったカーフェイは、マニ屋を頼る前に父親に相談しに行ったのではないか? もしくはマニ屋を通して町長にも情報が筒抜けだったのかも知れない。とにかく彼は、息子の居場所を知っていたのだ。
 それを妻や未来の娘に話さなかったのは――男同士の連帯感がなせるものなのだろう、となんとなく想像がつく。
「もしカーフェイが見つかって、何か困ってることがあるみたいだったら手伝ってやってよ」
「……はい!」
 ルミナは大きく首肯した。
 町長は立ち上がって廊下に出ると、男たちに再び会議室に入るように呼びかけた。扉が閉まり、中から驚きの声が聞こえてくる。ルミナはくすりと笑いつつ、屋敷の反対側にある部屋を目指した。
 アロマ夫人にカーフェイの速達を渡そうとしたのだが、留守にしていた。こうなればポストマンに直接渡す方が早いかもしれない。
 町長公邸の外で待っていたアンジュに、ルミナは「良かったね」と声をかける。
「にしても驚いちゃった。あんなにハキハキしてるアンジュ、初めて見たよ」
「そ、そうかしら」
 とはにかむ。本人は今更緊張に襲われたように胸元を押さえていた。これはきっとカーフェイの存在が与えた力なのだ。
 アンジュと並んで帰路についた。町が不穏さを増す三日目だということが気にならないほど、穏やかな気分だった。
 ルミナが大部屋に帰ってきたのを見計らって、ゴーマン座長が発表する。
「ワシらはゴーマントラックに避難するぞ」
 避難命令は強制ではなくなったが、座長の方針が撤回されることはなかった。
 今のルミナなら、それも一つの道だと理解できる。ひたすらわがままを言って座員たちを振り回してきたことに対し、今になって罪悪感を覚えた。
 だから彼女は心の底から申し訳ない気持ちで、
「ごめん、みんな。わたしは町に残りたいの」
 大部屋がしんとした。
「……分かった」
 静かに返事をするゴーマン座長に、皆の視線が集まる。
「でもな、ルミナ。不安になったら、いつでもゴーマントラックに来るんだぞ」
「うん。ありがとう座長!」
 本当に、ここまで来るのにどれだけかかったのだろう。ルミナはほんの少しだけ独り立ちできたような気分になった。
 リンクたちや大妖精を手伝うことによって、皆のカーニバル公演を守る。そのためにルミナは町に残るのだ。
 支度をはじめる一座の仲間を置いて大部屋を出ると、ちょうど同じように従業員室から出てきたアンジュと出くわした。
「ルミナ……ひとつ、カーフェイに伝言を頼めないかしら」
 アンジュは思いつめたように胸元のペンダントを握る。ルミナは焦った。
「え! い、今はちょっと厳しいかも」
 肝心のカーフェイが、サコンを追いかけて町の外に行ってしまったのだ。そうなるともはやルミナがどうこうできる範疇ではなくなる。
 アンジュは表情を沈ませた。
「そう……。カーフェイは顔を出せない理由があって、それをなんとかしようとしてるのよね? だから、もしかして今ごろ無茶してるんじゃないかと考えちゃったのよ。私はずっとここで待ってるから……あんまり急いで、無理なんかしてほしくないの」
 なるほど、確かにカーフェイは「タイムリミットまでに」と気が逸っているのかもしれない。だがあの猪突猛進なカーフェイが、今更話を聞いてくれるだろうか。
 アンジュの不安を解消して、なおかつカーフェイにその言葉を届ける方法はないのか。しばし考えを巡らせ、ルミナは閃いた。
「そうだ、チャットならカーフェイに会えるんじゃない?」
『アタシが?』
 白い光が数度瞬く。妖精ならカーフェイの気配をたどっていけるのではないか、とルミナは主張した。
「うんうん、この上なく大事な役割だよ! だからお願いっ」
 チャットも気づいているだろう。カーフェイに伝言を届ける際、必然的にリンクと顔を合わせる羽目になることに。
 二人はまだけんか中のはずだった。ルミナはじっと返事を待つ。
『……分かったわよ、行けばいいんでしょ!』
 もう三日目だ。時間がない。リンクと話し合う必要があることは、チャットも重々承知しているのだ。
「妖精さんが行ってくださるんですね。恐れ入ります」
 丁寧にアンジュが頭を下げる。
 チャットは無言で窓から出ていく。ふわりと浮かび上がり、気配をたどっているようだ。そちらは任せておけば問題ないだろう。
 ルミナは手の中に残った速達を届けるためポストハウスに出かけようとして、
「そうだアンジュ、大きな音の出る楽器って知らない?」
 と振り返る。友人はきょとんとした。
「楽器? 剣道場の銅鑼とか……?」
「それがあったかー。できれば、音階があるタイプだといいんだけど」
「ごめんなさい、思いつかないわ。その楽器をカーニバルの公演で使うの?」
「いやーちょっとね」と笑って誤魔化し、ルミナはナベかま亭を後にした。
 避難命令を受け取った町兵が走り回ったおかげか、町の中はがらんとしていた。いつも三日目の夜まで残っているボンバーズまでいなくなっている。一方で、大工たちは一層張り切って手を動かしていた。
 ある意味でとてもクロックタウンらしい光景だった。人々が好き勝手に動いているようで、本当はみんな、カーニバルを楽しみにしている。
 ルミナは時計塔を見上げた。カーニバルの開幕まで、残り半日もない。カーフェイやリンクはいつ帰ってくるのだろう――とこみ上げる不安を振り切り、ポストハウスを目指した。

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