第六章 二度とない刻のために



 サコンはなんと昼過ぎに穴から這い上がってきた。
 その間リンクは一睡もできなかった。起き出したカーフェイが見張りを交代すると申し出ても断った。もしこの場にゼロがいたら別だったのだろうが――うつらうつらした時間がいくらかあっただけでもマシだと思いたい。
 とにかく起きてきたサコンは、アジトがあるであろう東――谷の方角を目指す。その後ろを子ども二人がこっそり追いかけた。
 道中、カーフェイは「自分は婚約者との結婚に必要なお面を盗まれてしまったため、サコンを追っている」と話した。リンクはそういう事情には特に興味もわかず、ほとんど相槌も打たなかったのだが、カーフェイがべらべら喋るので自然と耳に入ったのだ。
「町ではアンジュが待っている。絶対にカーニバルまでに帰るんだ」
 カーフェイは瞳を燃やしてこぶしを握る。今までの三日間、もしかすると彼は一人でサコンに挑み、そして――失敗していたのだろうか。
 リンクは純粋な疑問をぶつけた。
「婚約者とはもう一ヶ月も会っていないんだろう。どうして手紙のやり取りだけで『待っている』と言い切れるんだ」
「離れていたのはたった一ヶ月だ。ボクらはその何十倍もの付き合いがあって、二人で積み上げてきたものがある。その時間は絶対に裏切らないさ」
 要するに婚約者を信じ切っているからだ。自分には帰りを待つ人がいる、という気持ちをリンクは想像してみる。
 もちろんリンクにだってそんな存在がいないわけではない。ハイラルで拾いそこねたものをタルミナで見つけた。当たり前のように帰りを待ってくれる人々を――彼は、かけがえのないものだと思っている。
 そう自らに置き換えれば、カーフェイの言うこともなんとなく理解できるのだった。
 いよいよ谷に入る。ポウマスターのいた崖のあたりに、以前はなかった上り坂が出現していた。亡霊たちがいなくなったからだろうか、誰でも入ることができるようになっているようだ。そして、「前回」サコンと出会った川の手前で、イカーナ村へ向かう道から脇にそれる。
「あった。あの岩陰の奥だ」
 カーフェイは慎重にあたりを伺う。その頃になると、リンクは歩きながら眠気を振り払うのに必死だった。月に挑む前にこの体たらくでは情けない。
(くそ、眠気に負けたらゼロみたいになるぞ)
 そう仲間を引き合いに出して、無理やり己を奮い立たせた。
 サコンが向かう先は寂しい岩場だ。アジトの入口なんてどこにも見当たらない。
 だが、サコンが前に立つと、どういうわけか大きな岩がスライドし、隙間に人ひとりが通れるくらいの入口が出現した。どうやら岩はカムフラージュだったらしい。
 サコンが中に消えていくのを見て、リンクは鋭くカーフェイに声をかける。
「乗り込むぞ」
「ああ!」
 重そうな岩戸はすぐに元に戻ろうと動きはじめる。二人は慌てて中に滑り込んだ。
 ごとりと音がして入口がしまった。閉じ込められたのだろうか。息を整え、中の様子を確認する。洞窟の中は意外にも広く、壁も天井もしっかりしたつくりをしている。サコンの気配はない。
 二人がいるのは玄関と呼べる場所だった。そして、目の前にガラスケースがある。その中にはたてがみの生えた金色のお面が安置されていた。
「太陽のお面だ!」
 カーフェイは顔色を変えて一直線に駆け寄る。「あ、おい!」リンクが止める暇もなく足元にあったスイッチを踏んでしまった。
 途端に警報が鳴り響いた。リンクは警戒を強め剣の柄に手をかける。
 二人が見守る前で、ガラスケースの後ろがぱかりと開き、お面は動く床に乗ってアジトの奥へと運ばれていってしまう。
「しまった……奥で回収して逃げるつもりだ!」
 カーフェイは焦って何度もガラスを叩くが、破れそうにない。リンクは部屋を見回し、床の一部に怪しげな出っ張りを見つけた。踏むと、ガラスケースの右側の壁にあった扉が開く。スイッチを押している間だけ開く仕組みのようだ。
「先に行け」
「で、でも……」とカーフェイは尻込みする。
「後から追いかける。お面を取り戻して婚約者のもとに帰るんだろう」
「……すまないっ」
 カーフェイは扉をくぐり抜けた。しばらくして、今度はガラスケースの左側の扉が開いた。進んだ先でカーフェイが仕掛けを作動させたらしい。リンクはすばやく部屋を移動する。
 入口からは想像もできないほど広い部屋があった。それが真ん中の動く床によって区切られている。間はガラスがはまっていて行き来できない。サコンは一体どういう考えでこんなアジトをつくったんだ、と頭が痛くなる。
 太陽のお面の位置を確認すれば、ずいぶん遠くに運ばれていた。サコンはお面を奥で回収する――ならば、とにかく急ぐべきだった。
 リンクの側の扉は閉まっていた。よく調べようと近寄ると、足元から花の魔物デクババが飛び出す。
「邪魔だ!」
 鍛え直したフェザーソードはとびきりの冴えを見せた。デクババは花弁ごと真っ二つになる。すると今度はカーフェイの側の扉が開いたらしく、勇んで進む靴音だけが聞こえてきた。
 よく耳を澄ませてみる。どうもあちら側に魔物はいないらしい。それだけは不幸中の幸いだった。
 それから二人は協力してアジトを攻略していった。カーフェイは大きなブロックを押して道を切り開き、リンクは立ちふさがる魔物を倒していく。彼は最後の魔物・ウルフォスの尾を叩き斬り、奥の部屋に足を踏み入れた。ほぼ同時にカーフェイが横の扉から顔を出す。そこが動く床の終点だった。
「しまった!」
 終点には暗い穴がぽっかり空いていて、動く床に乗った太陽のお面は今にもそこに落ちようとしていた。
 カーフェイが手を伸ばす。だが間に合わない――! 
 リンクは反射的に床を蹴り、穴の上に身を投げ出していた。
「リンク!?」
 体ごとぶつかることで、かろうじて太陽のお面を穴の上から弾き飛ばすことに成功した。しかし代わりに自分の体が重力に引かれ、穴の中に吸い込まれる。
 中は真っ暗だった。四角い白い穴と、そこから必死に手を差し伸べるカーフェイが急速に離れていく。ツインモルド戦の時とは違い、この下にリンクを受け止めてくれる人はいないのだ。
 こうして光が遠ざかっていく景色には見覚えがあった。
(手を伸ばしても届かなかったのは――俺の方が、離れていったからなのか)
 落ちながら、リンクは奇妙な納得感を覚えていた。



 いつもの白昼夢だろうか? いやにはっきりした景色が目の前に広がっていた。
 例の喪服の少女が、白い紙をぺたぺたと折りこんでいる。鬼神はその様子をそばで見つめていた。夜半、二人はイカーナ古城の屋上に立っている。
 やがて出来上がった紙の作品を、死神は城壁の外に向かって飛ばした。黒い夜闇に紙の白色はよく映える、とゼロは場違いな感想を抱いた。いつか見た覚えがある空飛ぶ船だった。
「この船、私の故郷では果報を運んでくると言い伝えられているんですよ」
 死神は自慢げに話す。紙の船はすうっと飛んで、城の外へと流れていった。
 月明かりが眩しいくらいの夜だった。視界の端で、鬼神の銀糸が光っている。
 不意に突風が吹いた。否――目の前に現れたのは例のフクロウだ。
「予言の大翼……」
 夢見るような足取りで「ムジュラ」が近寄る。
「死神よ。太陽と月は同じ空には昇らぬ……それは分かっておろう」
 フクロウは諭すような口調で語りかけた。
「それも予言ですか?」
 首をかしげる鬼神。一方で、死神は肩を丸めて震えていた。すっかり顔色を失っている。
「だ、大丈夫?」
「ええ」
 首を振って立ち直った時には、もう彼女の瞳は赤々と燃えていた。ゼロはぞくりとした。
 そうよ、分かってたわよ。どっちも選ぼうだなんて、虫の良すぎる考えよね。
 本来聞こえないはずの独白だが、何故かゼロは聞き取ることができた。
 もしかすると、死神はこの瞬間にイカーナを見限ったのだろうか。でもどうして? フクロウの言葉がきっかけだったのか? 
 混乱するゼロを置いてフクロウが飛び去った後、ムジュラは再び紙の船を折って、城の外に投げた。船は風に乗って遠くまで運ばれていく。
「敵は外から攻めてきますよ。もう明日にでも」
 妙に確信に満ちた物言いだった。鬼神はそれを、ムジュラがフクロウから受け取ったメッセージだと解釈したようだ。
 ああ、とゼロは腑に落ちる。あの空飛ぶ船は、スパイとして王国に散ったガロたちに、決起を知らせるものだったのだ。
 硬い表情を浮かべる白い横顔を見つめ、ゼロは存在しない唇を動かす。
 ムジュラさん、あなたは何を選び取ったの……?


 
 まぶたの裏に光が宿る。
 あたたかい白色は、リンクを迎えるようにゆっくりと下りてきた。
 自然と左手が動いた。光に向かって手を伸ばす。白い光は、手首に巻かれた紐の上にちょこんと止まった。
 リンクは目を見開く。夢見るような心地がそこで途切れた。
「……チャット?」
『あのねえ、寝ぼけてる場合じゃないわよ』
 聞き慣れた呆れ声で一気に現実に引き戻された。突然体のあちこちが痛みを発し、悲鳴を飲み込む。だが、生きている。
 見上げると、リンクが落ちてきた穴はずいぶん高い位置にあった。
『ここ、サコンのアジトのゴミ捨て場みたいね』
 なるほど、ゴミがクッションになって衝撃を吸収したのだ。幸い、痛みはあっても全く動けないほどではない。
「それなら――」
 ここに時のオカリナがあるはずだ。チャットの明かりを頼りに、リンクはがらくたを漁りはじめた。
『ねえ、アンタもカーフェイみたいに何か盗まれたのよね』
「まあ、な」
 ぎくしゃくと返事をする。それが時のオカリナだとばれたら最後、ドジだなんだとさんざんに言われるに決まっている。
「チャットは、どうして来てくれたんだ」
 やや強引に話題を転換した。チャットは一瞬押し黙る。
『……ルミナにね、頼まれたのよ。アンジュさんの伝言を、カーフェイに届けてほしいって』
 そうだ、カーフェイはどうなったのだろう。リンクがはっとした気配を察したのか、チャットが先回りする。
『安心しなさい、伝言はばっちり届けたわ。今頃は、アタシが連れてきたエポナで町に帰ってるところよ』
 ずいぶん用意がいいものだ。チャットがそこまで気が回るとは正直思っていなかった。リンクよりよほど冷静だった。
「そうか……ありがとう」
 正直に感謝すれば、チャットはくすぐったそうに光を強くする。
 一日目にゼロに言われたことが蘇った。「先に謝った方がいい」――それは今しかない、とリンクは息を吸う。
「それと、一日目のことは俺が悪かった」
 チャットはぱちぱちと何度か瞬いた。
『びっくりしたあ。いやに素直じゃない!』
 その返答の空気とは逆に、リンクは真剣な表情になる。
「俺はこのままタルミナにとどまることはないだろう。だが、タルミナはただの通過点ではありえない。旅の途中でいつか戻ってくると思う。ゼロたちや、お前がいるからな」
 普段これだけ率直に心情を吐くことはない。暗闇で助かった。明るかったらほおが熱くなっていることを知られてしまう。
 チャットはしばらくそこに漂っていた。リンクががらくたをかき分ける音だけが響く。
『そっか……アタシこそごめん。あの時は言い過ぎたわ。それに、アンタは会った時とずいぶん変わったと思う』
「俺が?」
『だいぶとっつきやすくなったもの。多分、ゼロのおかげね』
 リンクはどう反応していいか分からず、眉をひそめた。
 ルミナにも似たようなことを言われたが、あの青年がそれほど自分に影響を及ぼしているのだろうか? だが、隣に立つ仲間になってほしいと初めて心から願ったのは、ゼロだった。
 こつりとつま先に何かが当たる。拾い上げると、時のオカリナだった。埃を払う。
『アンタ、それって――』
 リンクはびくりと肩を震わせた。
『良かったわね。傷一つないわよ』
 チャットはそれ以上何も言わなかった。リンクは拍子抜けした。「そうだな、助かった」とだけ答える。
『で、どうやって上に戻るの?』
「こうするんだ」
 リンクは取り戻したオカリナで大翼の歌を吹いた。



 もう深夜だった。顔のある月は刻一刻と近づいてきて、地響きがナベかま亭を揺らしていた。
(こればっかりは何度経験しても慣れないなあ)
 ルミナはロビーの椅子に座り、じっとカーフェイの帰りを待っていた。アンジュは一人、従業員室にいる。
 結局大妖精の言っていた楽器は見つからなかった。正直冷や汗が出て仕方ないが、「だってそんなもの分かんないよ」と言うしかない。今はカーニバルまでに帰ってくると約束したカーフェイの方に集中したい気分だった。
 玄関の扉が開く。カーフェイが来た! と腰を浮かした。
「ルミナ!」
 しかし、入ってきたのはゼロだった。何故か汗みずくになっていて、大股で迫ってくる。
「ど、どしたの? わたしに何か用?」
「あー、うん。オレのお面のことなんだけど」
 その時、ぐらりと地面が揺れる。ゼロすらよろめくほどの強い揺れだ。一緒になってふらつきながら、ルミナの耳は地響きとは異なる音を拾っていた。
 石畳を蹴る軽やかな足音――馬蹄の音だ。まさか、町の中に馬が? 
 開きっぱなしだった玄関に、小さな影が立った。
「カーフェイっ!」
 婚約者の片割れは、小さな肩を上下させて必死に息をしている。よほど急いで来たに違いない。そして、その手には太陽のお面がしっかりと握りしめられていた。
(取り戻したんだ……!)
 しかし、リンクとチャットが一緒にいないことが気になる。
 カーフェイは黙ってルミナを見上げた。
「アンジュなら、上の従業員室だよ」
 そう告げるとカーフェイはうなずいて、機敏に階段を駆け上がっていく。
 ゼロはその背中をぽかんとして見送っていた。そもそも、あの子どもがカーフェイ本人だということに驚いているのかもしれない。
「ごめん。で、何の用だった?」
 水を向けると、ゼロは首を振る。「後でいいよ」と言ってくれた。
 二人はそろってロビーの椅子に腰掛けた。
 今頃二人はどんな会話をしているのだろう、と想像をはたらかせるが、さすがのルミナも従業員室に突入する気はない。今のカーフェイたちには二人だけの時間が必要なのだ。
「アンジュとカーフェイはさ、ずーっと昔から将来を誓い合ってたんだ。そういうカップルもいるんだねえ」
 などとルミナはうっとりするが、ゼロは顔を曇らせた。
「それじゃ、クリミアさんは……」
 彼はこの歪んだ三角のことを知っていたのだ。そういえば、いつぞや彼がミルクバーの前でクリミアたちの間に入ろうとして失敗していたことを思い出す。
「クリミアだって、アンジュの気持ちはもちろん知ってたよ。でもさ、だからってどうにかなるものじゃないでしょ。好きになっちゃったんだから、しょうがないよ」
 ルミナは所詮よそ者であり、輪の外から複雑な関係を眺めるだけだった。だからクリミアの抱えた痛みは想像に余る。
 多分、クリミアもカーフェイ本人に会った方がいいのだろう。そうして話し合い、ゆっくりと自分の気持ちに整理をつけていくしかないのだ。
 ゼロも同じく部外者なので、それ以上は何も言わなかった。
「それにしても、最期の瞬間にも一緒にいたい人かあ……」
 この非常にこんがらがった大恋愛の過程に思いを馳せ、ルミナは思わず嘆息した。ゼロはほほえむ。
「ルミナにはそういう人、いる?」
「うーん、思いつかない。ていうかまだ人生終わりにしたくないよ。だからこうしてリンクを手伝ってるんだし! わたし、絶対カーニバルでダル・ブルー見るんだから」
「そうだね」
 ゼロにもそういう思いを抱く人はいないのだろうか。彼がそのまま黙ってしまったので、聞き返すことははばかられた。
 今の彼は静かで落ち着いていて、まったくゼロらしくないと思う。
 階段を降りる二人分の足音が聞こえた。アンジュとカーフェイは手をつなぎ、もう片方の手にそれぞれお面を持っている。
 夫となるカーフェイはアンジュの胸元までしか背丈がないのに、二人は不思議と釣り合って見えた。ルミナたちは立ち上がり、二人を迎える。
「ありがとう、ルミナ。ボクらは誓いを交わし、夫婦になった」
「アナタは証人よ。このお面を受け取ってください」
 二人は太陽と月のお面を重ね合わせる。その瞬間、光が放たれた。
 分かたれたお面はひとつになった。白くつるりとした表面に、抱擁する男女を図案化したような模様が描かれたお面だ。
「これがめおとのお面……!」
 ルミナは受け取ったお面を大切に胸に抱いた。
 夫婦の二人は寄り添い合い、ルミナとゼロに視線を向ける。
「アナタたちは逃げてください。私たちはもう大丈夫です。明日を……二人一緒で迎えられるんですもの」
 夫婦の未来はこれからだっていうのに、なんでもう終わりみたいなこと言ってるの! 
 憤ったルミナは胸を叩いた。
「残念だけどわたしは逃げないよ。絶対絶対、二人の明日を掴んでくるから!」
 夫婦は呆気にとられていた。カーフェイが「何言ってるんだ」と目をすがめると、いつもの彼らしい表情になる。
「そうだ、リンクはどうしたの?」
「ああ……先に伝えるべきだった。ルミナが妖精に伝言を頼んでくれたんだよな。リンクは……サコンのアジトで、太陽のお面の代わりに穴に落ちてしまったんだ」
「え」「リンクは無事なんですか?」
 ゼロも血相を変えて身を乗り出す。カーフェイは眉間にしわを寄せてうなずいた。
「ああ。妖精が、絶対助けるから安心しろって言ってた。ボクは馬まで貸してもらって町に戻ってきたんだ」
 その答えを聞いてもゼロの顔色はすぐれない。ルミナが背中をぽんぽん叩いた。
「チャットがついてるんだから、きっと平気だよ。だってあのリンクなんだよ?」
「……うん」
 剣を持っているゼロはルミナよりはるかに強いはずなのに、こうしていると妙に頼りなく見える。
「でも、こうなるとしばらくリンクを待たないといけないかもね。もうすぐ花火が上がって時計塔の扉が開くはずだけど……」
「ルミナ。ちょっといいかな。外で話したいんだ」
 口を挟んだゼロは、まるで何かの覚悟を決めたように真面目な顔になっている。
 最初に「用事がある」と言っていた話だろう。ルミナはどきりとする。
 二人はナベかま亭の二階からベランダに出た。
「うわ、月がもうあんなに近いね」
 家々の屋根に月の鼻息がかかりそうな距離だ。月はまっすぐに時計塔を目指しているらしい。あんまりにも恐ろしくて直視できない。圧に耐えきれず、ルミナはすぐに目をそらした。
 人気のない町は異様に静かだった。ごうごうと風が渦巻いていて、時折地響きが鳴っている。
 視線を戻すと、ゼロは静かに立っていた。
「あ、ごめん。それで、わたしに用って?」
「ルミナの持ってるお面を、全部オレにくれないかな」
 思わずぴくりと肩が震える。
 リンクには「まだ渡すな」と言われていた。ゼロの記憶だというのだからどんどん集めて渡していくべきだとルミナは思ったのだが、リンクはまるで本人に悪影響が出るのを恐れているようだった。確かに「前回」の三日目でブレー面に触れたゼロはしばらくぼうっとしていた。顔色だって悪かったかもしれない。
 だが、本格的に月に挑むとなると、これ以上ルミナはついていけない。もうここまで来たらゼロに渡してしまうしかないのだ。
 決断するタイミングは今しかない。
「うん……分かったよ」
 ルミナは震える手でお面を取り出す。今回だけでも、カーフェイのお面とキータンのお面、それにめおとのお面が増えていた。
「ありがとう」
 ゼロが差し出した手のひらにお面を載せていく。苦労して集めたお面たちはきらきらと光の粉を散らし、あっさりと消えていった。
 ルミナはこのタイミングで、昔アンジュの祖母から聞いた話を思い出した。「この世には他の全てのお面を飲み込むお面がある」――おかしな昔話だと気にもとめていなかったが、何故か今になってまざまざと記憶が蘇る。そのお面の名は鬼神の仮面と言った。
 ルミナが消えゆくお面に目を奪われていると、ゼロの手に模様のようなものが浮かび上がる。
「ん……? ゼロ、その手どうしたの」
 ゼロは答えず、手をさっと背中に隠した。
「それじゃオレ、先に行ってるから。そうリンクに伝えて」
「先にって――まさか、時計塔に!?」
 ここでリンクを待つのではないのか。どうして一人で行くのだろう? 
 混乱するルミナの前で、ゼロはひらりとベランダから飛び降りた。そして軽やかに着地する。ゆうにゼロ三人分はある高さから飛び降りてもなんともない。彼はあれほど身体能力が高かったのか。
 ゼロは止める間もなく南広場に走っていった。
「ど、どうしよう。早くリンクに伝えないと」
 その時、ぼーんと時計塔の鐘がなった。きっかり十二回分だ。
 バクダン屋渾身の力作である花火が夜空を彩る。いよいよ刻のカーニバルの開幕だ。

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