第七章 月と星



 いやしの歌の旋律が低く流れ続けている。
 わずかに持ち上げられたゼロの手のひらに、リンクはお面をのせる。集めたお面が消えていき、彼の左手は重力に引かれてそのままゼロの手と重なった。
 リンクの腕に巻かれた紐がぷつりと切れた。ゼロの手の中に落ちる。
(持ち主のもとに戻ったんだな)
 両腕でゼロの上体を支えながら、リンクはささやいた。
「何故、お前はそこまでできる? どうして誰かのために自分の命をかけられるんだ」
 ずっと前からその答えが聞きたかった。ゼロは小さく笑った。
「他の誰かじゃない……リンクのためだからだよ」
 ほとんど聞き取れないような小さな声が答える。
「イカーナが滅んだ時……オレは何もできなかった。それなのに、オレは女神に生かされて、聖地とキミを守れと使命を与えられた……。しかも、ハイラルを救えるのはキミだけだってことを知ってしまったんだ。
 どうしてオレじゃだめなんだろう、こんな小さい子どもに託すしかないんだろうって思ったよ。オレはあんまりにも無力で、キミの使命をほんの少し手伝うことしかできないなんて。悔しかった……」
 力なく開いたゼロの手が、小刻みに震えていた。
「ハイラルのことも聖地のことも、全部キミ一人に任せるしかなかった。勇者にしかできないことがあった……それなら、オレは自分の全部をかけてキミを守りたい。つらくて孤独な使命を押し付ける代わりに、自分の命でもなんでも捧げる……キミを一人にしないためにそうしようって、あの時誓ったんだ」
 勇者の抱えた孤独とは、誰かの犠牲を差し出さないと埋められないものなのだろうか。
 ゼロの覚悟は重かった。まともにぶつけられて、常人ならつぶされかねないものだった。しかし、リンクには受け止めることができた。
「お前の気持ちは分かった。だが……俺はお前からもらったものを、全部お前一人に返すことはできない」
 リンクは決然として言い切る。
「お前のように『ただ一人』を選ぶことができたのなら、もっと前に悩みを捨てられただろう。でも、不可能だとしても、俺は誰か一人ではなく『皆』を選びたい。タルミナも、ハイラルも……全て諦めたくないんだ」
 めおとの二人やルルとミカウ、他にもたくさんの人々が「ただ一人」を選んで生きていた。リンクも、失った七年後やかつての相棒ナビィ、ただそれだけのために生きるべきだと考えたこともあった。
 だが、それは自分には無理なのだと、タルミナの冒険で知ってしまった。チャットが言ってくれたように人助けが好きだから、どれだけゼロからもらったものが大きくても、出会う人皆に気持ちを分け与えてしまう。
 望んだもの全てを掴むことができる、それだけの力があるのが勇者なのだ。ゼロ一人だけでなく、リンクは皆のための勇者でありたいと願った。
 リンクは欲張りでわがままな子どもだ。人助けは自分のためにやっていると言っても、本当は少し褒められたい。口に出す言葉と反対のことを考えているし、ちょっとでも気に障ることがあるとすぐにすねる。
 彼の根っこにある願いはほんのささやかなものだった。できることなら旅立ちの時は気持ちよく送り出し、帰りはあたたかく迎えてもらいたい。それだけだ。
「ありがとう。キミはそう言ってくれるって、信じてた。リンクになら、オレの力を託せる……」
 ゼロは眠りに誘われるようにすうっとまぶたを閉じた。紅茶色の輝きが見えなくなる。
 いやしの歌に聞き入るその体を、光の粒子が包んだ。ダルマーニやミカウの時と同じ現象だった。
 リンクの手元には、ゼロの顔をかたどった仮面が落ちている。
『鬼神の仮面……』
 チャットが静かにつぶやく。
 いやしの歌は止まらない。失うことへの悲しみを宿すメロディは今、リンクを勇気づける音色に変わっていた。
「よくも……よくもやってくれたわね大妖精。あんたも同罪よ時の勇者。今すぐ消してやるわ!」
 少女は呪詛を吐きながら立ち上がった。緋色の瞳を鋭く細め、ムジュラの仮面をかぶる。
 リンクは挑発的に唇の端を持ち上げ、鬼神の仮面をかぶった。
 瞬間、見知らぬ景色が脳裏に流れ込んだ。
 
 *
 
 布にくるまれた小さな赤子が、空からゆっくり降ってくる。その下にいたのは、体のいたるところに傷を負った青年だった。彼は支えにしていた剣を放り出し、おっかなびっくり赤子を腕に抱く。
 赤子が一声泣くと、どこもかしこも白かった世界にぽつんと塔が現れた。
 その塔には、いつか来るべき日を――時の勇者がハイラルに帰る日を知らせるための、大きな時計がついていた。
 ――定められた時が来るまで、その子を大切に育てなさい。
 全てを失った青年に、女神の声が新たな使命を下した。
 赤子は己の使命も知らず、すやすやと眠っている。その顔を覗き込んだ青年は、膝から崩れ落ちて――泣き笑いをしていた。



 目を閉じているのに背中側の景色まで見通せるようだ。この体にはそれほど優れた知覚が備わっていた。ほとんど万能感とも呼べる気持ちがリンクの胸に湧き上がってくる。
(そうか。だからゼロは記憶を――力を取り戻すことを嫌がっていたのか)
 途方もない力だった。時の勇者として完成されていたかつての自分をも上回るだろう。少し使い方を間違えば、無用な破壊をもたらすレベルである。あの性格のゼロが恐れるわけだ。
(だが、俺なら自在に操れる)
 鬼神となったリンクは紅蓮の瞳を開く。髪は白銀に染まり、白っぽい服装をしていた。胸当ての左には三角、右には月を模した文様がついている。肌には力の流れを示す隈取が刻まれていた。背の高さは「七年後」の自分のようだ。
 血塗れた金剛の剣を拾い上げる。そして己の持っていた大妖精の剣をその上に重ねた。二つの剣が一つに溶け合い、彼の手には二つの屈曲した刃が交わる大剣が現れた。
 リンクはゼロがやっていたように剣を両手で構え、まぶたを閉じた。
 ――ゼロ、いないのか。
 呼びかけに応える声はない。仮面の内側はごく静かだった。
 だが、湧き上がる力はどこまでもリンクに味方していた。それがゼロの示す意思だ。
 ムジュラは少女の姿を脱ぎ捨てようとしていた。壁に張り付いていた亡骸たちを取り込み、ムジュラの仮面がどんどん肥大化していく。
『来るわよ!』
 かたわらでチャットが叫ぶ。彼女はこの状況でも自分を見失わず、言葉によってリンクを導き続けた。
 仮面の裏側にツタのようなものを何本も垂らした化物が出現する。ツタは不気味にうごめいていた。
『悪趣味ねえ』
 ムジュラの仮面は体を水平に傾けると、高速で回転しながらリンクに突っ込んできた。まともに受けたら胴が裂かれそうだ。床を蹴ってかわす。
 仮面はブーメランのように舞い戻り、幾度もリンクを襲った。すれ違いざまに渾身の力を込めた一撃を叩き込むが、回転の力によって弾かれてしまった。
『今までの戦いを思い出しなさい! 硬くて武器をはね返すモノの裏側は、必ずその逆のことが言えたじゃない』
 チャットの激励がリンクの背を押す。イカーナの墓地で戦ったアイアンナックも、背中が弱点だった。リンクはまっすぐ突進してくる仮面に向かってジャンプする。
 一度攻撃を加えることで相手の勢いを削ぎ、仮面の裏側に回った。兜割り――今のリンクには分かる、これは鬼神から習った技だったのだ。
 鬼神の大剣は裏側にあったツタをまとめて切り飛ばした。そのまま剣を仮面に突き立てる。割ることはできなかったが、確かに手応えはあった。
 ダメージを受けたムジュラの仮面は、バックステップするようにこちらと距離を取った。
『あいつ、まだ変身するみたいよ!』
 仮面そのものを胴体として、そこから細い手足と一つ目玉を持った頭が生えた。鬼神であるこちらよりもよほど鬼に近い醜悪な見た目で、ムジュラの化身と呼べる姿だった。
 化身はその長い脚を生かして空間内を駆け回る。
(速い!)
 目で追うので精一杯だった。おそらく残像のように走った軌跡に分身を出し、こちらを惑わせているに違いない。リンクが攻めあぐねていると、立ち止まった化身は奇声を上げながら手からいくつもの光弾を放つ。ステップでかわせば床に焼け焦げがついた。
『自分の戦いを思い出しなさい! 逃げ回る敵を、自分の体を使って食い止めたじゃない!』
 仮面機械獣ゴートの時は、逃げる敵をゴロンの仮面を使って追いかけた。今この鬼神の力があれば、別の方法が使える。
 ムジュラの化身はぐるぐる逃げ回っているようで、着実にリンクと距離を詰めていた。その方向が転換するタイミングを見計らう。
(突っ込んできた!)
 リンクは大剣を水平に構える。化身の足に轢き潰されそうになる寸前、長いリーチを生かした回転斬りを放った。
 足を横薙ぎにされ、化身は悲鳴とともに倒れ込む。じたばたする化身の目を、リンクは容赦なく潰した。
 化身は半分なくなった頭を抱え、それでも立ち上がった。
『まだ終わらないみたいね……』
 チャットが心底うんざりしたようにつぶやく。化身の手足には太い筋肉がつき、鋭い角と三つの目を持つ頭部が生えてきた。
 ムジュラの魔神だ。リンクは軽く息を呑む。気迫で分かる、今までの形態は前座だったのだと。
 魔神は両手に長いムチを持っていた。あれは厄介だとリンクが身構えた瞬間、予想に反してムジュラの魔神が天井すれすれまで飛び上がった。距離を一気に詰めて後ろに回り込まれる。
「しまったっ」
 リンクは背中に一撃を受けて床に投げ出されてしまう。すぐに立ち直れず、そのままムチの攻撃が連続して浴びせられた。
 防具のおかげで多少軽減されたが、引き攣れるような痛みが背中に残った。攻撃の合間を見て立ち上がる。
『自分の武器と全ての戦いを思い出して。敵が攻撃する前にできる一瞬の隙を見ぬき、射抜いて来たじゃない!』
 チャットの助言にリンクはうなずいた。ムジュラの魔神がムチを振りかぶる瞬間に間合いを詰める。今の自分にならできる。そう考え、相手の動作を見極めて「今だ」というタイミングで前進した。しかしムジュラはムチで攻撃せず、手元からコマのようなものを打ち出した。予想外の行動に身をひねると、すぐそばでコマが爆発する。直撃は避けられたが体勢が崩れた。
 その隙に放たれたムチがリンクの胴にからみついた。
「ぐっ」
 容赦なく締め上げられる。さらにはムチに電流を流され、リンクは悲鳴を飲み込んだ。鼻の奥が焦げくさくなる。
『リンク!』
 苦痛を無理に押し込めながら、リンクは心の内側に向かって叱咤する。
 ゼロ――お前の力はこんなものではないはずだろ! 
 胴を締めつけるムチを掴み、腕にぐっと力を込める。手のひらが燃えるように熱くなり、ムチが一本ちぎれた。急いで脱出したリンクは落ちていた剣を拾った。
『大丈夫!?』
「ああ、なんとか」
 心配するチャットを下がらせる。リンクは手にこもった熱が大剣に伝わっていくのを感じた。刀身が光り輝く。何かを察した彼は、相手のリーチのはるか外で大剣を振った。
 斬撃の軌跡がそのまま光の剣となった。光はムチを切り飛ばし、その奥にいた魔神の肩を焼いた。
(行ける!)
 リンクは魔神が体勢を立て直す前に、一気に部屋を駆け抜けた。途中で踏み切り、ジャンプする。
 彼が一番得意とするジャンプ斬りだった。大上段から大剣を振りかぶり、ムジュラの魔神を股下まで切り下ろす。仮面はすぱりと二つに割れて、床に落ちた。
「どうして……どうして、私じゃダメだったの……?」
 仮面と魔神が消え失せ、そこには肩を震わせ顔を覆う少女がいた。
 リンクは鬼神の仮面を通じて、今やある程度「ムジュラ」のことを知っている。だから答えてやった。
「今、ここに俺が立っているのは、たまたま仲間が多かったからだ。別にお前の考えが全部間違っていたとは思わない。俺も同じ立場なら、似たようなことをしたかもしれない。
 ただ……お前がイカーナやタルミナの人々を傷つけたことは、決して許せない。それだけだ」
 うなだれる少女は小さなムジュラの仮面に戻っていく。
 ぴしりと空間に割れ目が走る。激しい振動があって、天井や壁が剥がれ落ちてくる。リンクは空間の隙間から差し込む光に目を細めながら、そっと唇を動かした。
「ここには帰りを待ってくれる人がいる。タルミナは、俺の故郷だ」



 これ、いつまで鳴らしていたらいいんだろう……? 
 いい加減、ルミナがいやしの歌を演奏するのにも疲れてきた頃、「おい」と座長が声をかけた。彼女はへろへろと顔を上げ、腕を止めた。
 鐘の余韻が聞こえなくなると、あたりは静寂に包まれた。
(あれ……こんなに静かだったっけ)
 思わず機械室の窓から身を乗り出す。空に浮かぶ月は、ぴたりと止まっていた。
「や……やった!」「助かったんだわ!」
 カーフェイとアンジュは人目もはばからず抱き合っている。
 ルミナが固唾をのんで見守る先で、月は砂粒でできていたかのようにさらさらと溶けていく。きらめく粒が陽光を反射し、まるで虹のような七色の橋を朝焼けの空に描き出した。
 そんな幻想的な光景に目を奪われつつも、ルミナはかたわらのアリスに問いかけずにはいられない。
「ねえ、アリス。リンクはどうなったの? チャットもゼロも、あの月の中にいたんだよね? みんな……どうしちゃったの」
 アリスは押し黙ったままだ。なんでも知っているはずの妖精が、言葉をなくして佇んでいる。今のアリスは頼るべき相手どころか、力のない少女のように見えた。ルミナは焦りがこみ上げてきた。
「か、勘弁してよ。みんながいないと刻のカーニバルははじまらないんだから……!」
 月さえなくなれば、何もかもハッピーになるはずだと信じていたのに。ルミナは戸惑いながら空を見上げ、きつく胸元をおさえた。

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