エピローグ 新しい日



 この一ヶ月間、タルミナの人々を悩ませ続けていたあの月が、消えた。
 どこからともなくおとぎ話の四人の巨人がやってきて、未明に町に迫った月を受け止めた。巨人と月はしばらく攻防を続けていたが、やがて朝日を浴びる頃、月は活動を止めてすっかり消え失せた。その後には、雨も降っていないのに虹が出ていた。
 タルミナのあちこちで同時に歓声が上がった。平原や各地方に避難していた人々も、町の中でそれを見つめていた人々も、抱えた喜びは同じだった。そして避難していた人々は皆、そろって町へと足を向けた。
 今日は年に一度、刻のカーニバルの日だ。



『あっ! 気がついた』
 青い空にぽっかり浮かぶ光の玉が二つ。白と紫の妖精、チャットとトレイルだ。
 リンクは頭を振りながら起き上がる。どこかと思えばタルミナ平原だ。かたわらにはいつの間にかエポナまでいて、リンクのほおをぺろりと舐めた。
 ふと空を仰ぐと、山の彼方に大翼のフクロウが飛び去っていくのが見えた。
 そうだ。ムジュラの仮面を倒した後、彼は鬼神の仮面を外してオカリナでフクロウを呼び、月の中から帰還したのだ。
(……鬼神の仮面!)
 はっとしてふところを探った。が、どこにもない。眉を曇らせ静かに息を吐くリンクに、チャットが黙って寄り添う。
 そこにいるのは、リンクたちだけではなかった。まず、太陽を遮るほど大きな巨人たちが立っていた。彼らはリンクを――否、そばにいたスタルキッドを見下ろしていた。
 ムジュラの仮面を脱いだ小鬼は、真っ黒な肌にぽつんと二つの目玉を浮かべる素朴な顔立ちをしている。彼もまた、巨人を注視していた。
「オマエたち……オイラのこと、忘れてなかったのか。まだ、友だちだと思っていてくれたのか……」
 小鬼はうつむいてこぶしを握る。つばの広い帽子に隠れて表情は見えない。
 巨人は「友を許せ」、すなわち「過ちを犯した友人スタルキッドを許せ」と言っていた。彼らが誓いの号令に応じたのは、スタルキッドを助けるためだったとも言える。
 それ以上何も言えなくなった小鬼に、妖精たちが寄り添った。巨人は誓いの号令を歌いながら、百歩の距離を再び四界へと戻っていった。
 離れていても構わない。常に一緒にいることだけが友人ではない、と告げるように。
 スタルキッドは、やや呆然としているリンクを振り返った。
「オマエが助けてくれたのか……?」
『そうよ。コイツがいなかったらスタルキッド、危ないところだったんだから!』
 チャットがやや事実を強調して言うと、小鬼はうなずいた。
「アイツら、オイラを相手にしてくれないと思っていた……。だけど、オイラのこと忘れていなかった。友だちっていいよな、へへッ」
「そうだな」
 リンクは実感を込めてうなずく。すると、スタルキッドが近寄ってくる。
「なあ、オマエもオイラの友だちになってくれるか?」
 小鬼は顔を寄せ、リンクの匂いを嗅いだ。そして笑う。
「ウヒヒッ……オマエ、森でオイラに歌を教えてくれた妖精の子と、同じニオイがする」
 リンクは目を見開いた。それはどういう意味なのだろう? 
 だが彼が問いただす前に、小鬼は身をかがめて、
「じゃあじゃあ、何して遊ぶ!」
「……鬼ごっこはどうだ。俺は地元じゃ負けなしだ」
『スタルキッド、この生意気なやつをとっちめてやって』
 トレイルが耐えかねたように笑った。リンクも目を細めた。今、彼は奇妙に凪いだ心地だった。
 チャットがやってきて、リンクの眼前に浮かぶ。
『お互い目標は達成したわね』
「そうだな……今までありがとうチャット」
 彼女はくすぐったそうに羽根をすり合わせる。
『こっちこそ、まあまあ楽しかったわよ』
 チャットだって、やっと再会できた弟やスタルキッドと一緒にいたいだろう。そう思って、「元気でな」とエポナを促し背を向けた。
 妖精は慌てて追いかけてきた。
『ちょっと! もう行っちゃうつもり? 町に人が戻れば、すぐにでも刻のカーニバルがはじまるわよ』
「だろうな」
『普段なら、いーっぱい人が集まってくるのよ。今年はちょっと人が少ないから、きっと見物にはぴったりだわ。こんな時にめぐりあうなんてめったにないことなのよ。
 だから、ちょっとだけでも――』
 リンクはくるりと振り返る。
「お前がそこまで言うなら、見物するのも悪くない」
 チャットはぱっとリンクの耳元に体を寄せた。
『リンク。……ありがとう』
 あまり聞いてほしくない、というように声はしぼんでいく。だから、リンクも聞こえないふりをした。
 さすがに無反応というわけにはいかず、片側のほおだけわずかに持ち上がってしまったのだが。



 リンクは一度スタルキッドとトレイルと別れ、チャットとエポナを引き連れてクロックタウンに戻った。
 町の中には、見たこともないほど人がたくさんいた。そもそも、町に入るために門をくぐるだけでも列を作っているありさまだ。リンクはかなり長いこと待たされてしまった。
 戻ってきた人々は月や巨人によって荒れた自宅を片付けている。しかし、皆早くカーニバルの準備をはじめたくてうずうずしているようだ。
 町全体の浮き立った様子に、リンクは若干腰が引けた。森育ちで人混みが苦手なのだ。この調子できちんとカーニバルを楽しめるのだろうか、と途方に暮れかけていると、
「リンク!」
 ルミナのよく通る声が響いた。器用に人垣をかき分けてくる。
 リンクたちをじっくり眺めた彼女は、大げさに安堵の息を吐いた。
「良かった、チャットも一緒だ。もー心配したんだよ。月の中に入ってたんだよね? なのに月ごと消えちゃうし、アリスはなんにも答えてくれないし」
 堰を切ったように話し出す。よほど焦っていたようだ。おかげでアリスの無事も確認できた。
『そういえばいやしの歌はアンタの演奏だったのね。助かったわ』
「あ、わたしも役に立ったんだね! がんばった甲斐があったよ〜」
 ルミナは嬉しそうにほおをほころばせ、リンクたちを順繰りに見つめる。
「ねえ、ゼロは?」
 リンクの瞳は不透明に曇る。口を開くのを一瞬ためらった。
「あいつは……少し怪我をしたんだ。しばらく休ませている」
「え! そうなんだ。せっかくのカーニバルなのに……。それはアリスにも教えないとね。大妖精様に頼んだら治してもらえるかもしれないよ」
 幸せなことに、ルミナはまだ大妖精の正体に気づいていないらしい。ある意味非常に彼女らしかった。
「そうだな。アリスには俺から伝える」
 チャットの気遣わしげな視線が横顔に刺さる。だが、これだけはリンク自身が決着をつけなければならない。たとえゼロの不在とその理由をアリスが予想していたとしても、彼女に事実を突きつけるのは、リンク本人でなければいけなかった。
 それが、ゼロに全てを差し出させた時の勇者としての責務だ。
「アリスは大妖精の泉に戻るって言ってた。あっちの方も、普段より人が多いから気をつけてね」
「ああ。チャットはルミナと一緒にここで待っていてくれ」
『了解』
 リンクは一人で大妖精の泉に向かった。北地区ではボンバーズや犬が走り回り、にぎやかなことこの上ない。待ちに待ったカーニバルの開催を目前にして、大人から子どもまでわくわくしているようだ。
 一人その流れに逆らうように、リンクは暗い洞窟に入っていく。
 大妖精の泉はいつもと変わらず、澄んだ水をたたえていた。
「アリス。いるのか」
 呼びかけに応じて、泉の上に大きな半透明のつぼみが出現する。大妖精の剣にも描かれたバラの花だった。つぼみはふわりと開き、中から大妖精が姿を現す。花の香りがあたりに満ちた。
 アリスは伏し目がちに泉の上に浮かんでいる。
『リンクさん……月を止めてくださったのですね。ありがとうございました』
 リンクは呼吸を整えた。なるべく心を落ち着けて話す。
「俺は月の中でムジュラの仮面と戦った。その時ゼロは……鬼神の仮面になった。俺はその力を使ってあの仮面に勝った。だが……あいつは俺の前から消えたんだ」
 一息に言ってしまってから、深々と頭を下げる。
「……すまない」
 アリスは形の良い唇を開いた。
『リンクさんが謝る必要はありません。ムジュラの仮面に対抗するため、いやしの歌を使うと決めたのは、私です』
 その声に感情の色はない。表情も硬く、顔立ちが整っているだけにどこか人形のようだ。
『いやしの歌を使えば、ゼロさんが鬼神の仮面になることは分かっていました。鬼神の力は彼では扱いきれないと判断した上で、そうしたのです』
 リンクは弾かれたように顔を上げる。
 本当にこの大妖精はアリスなのだろうか。彼女は誰にも見せたことのない、冷徹とも言える一面をあらわにしていた。
「だから……あいつをいやしの歌で仮面にして、俺に使わせたのか。大妖精の剣を俺に授けたのもそれが理由だったのか」
 吐いた息が冷え切っていた。背筋が寒い。
『はい。ムジュラの仮面を倒すため、それが一番確実な方法でした』
「……お前はそれでいいのか」
 リンクはやっとのことでそれだけ問う。
『私の感情は……考慮していません』わずかに語尾が揺れた。アリスの秘めた心のかけらがこぼれおちる。『ですが、後悔もしていません。リンクさんに言えば確実に反対されると思いました。ですのでルミナさんにも詳細を話さず、独断で実行しました。責任は私が取ります』
 アリスは眩しいほどにまっすぐだった。ゼロが言っていたとおり、彼女は正しい。間違ったことは何もしていない。だがその道はリンクには受け入れがたく、だからムジュラもあれほど忌避していたのだろう。
 リンクはアリスの前に膝をつく。
「それでも、お前には力があるんじゃないのか。ゼロを……どうにかして取り戻せないのか」
 未練がましいとは分かっていた。だが、このまま諦めてしまったら、リンクは七年後の聖地で「ゼロ」にした仕打ちと、同じことを繰り返す羽目になる。
 もう二度と忘れてなるものか。その犠牲の上にのうのうと生きていくことなんて、リンクにはできない。
(お前が願ったとおり、ハイラルもタルミナも救ってやったぞ。俺のがんばりに少しは応えたらどうなんだ?)
 祈るように目をつむる彼に、アリスは静かに答える。
『そんな力があるとしたら……この聖地では、私ではなくリンクさんが持っているはずでしょう』
 リンクはうつむいたままだ。
『現に、あなたはそれを使ったではありませんか』
 アリスは少し目元を和らげた。リンクの左手を指差す。
『あの腕輪は、かつてイカーナ王国が滅びる間際、私が鬼神様に渡したものでした。回復の力を込めてこの髪を編んだものです』
 長く伸びた黒髪が、あるかなしかの風に揺れていた。
『そのままゼロさんが持っていたならば、七年後の聖地の消滅とともになくなっていたでしょう。ですが、その直前にあなたが受け取って、このタルミナへ運んできた。そして瀕死のゼロさんに手渡した。その時に紐が切れ、秘めた力が発動したはずです』
「それならゼロは――」
 リンクは大きく目を見開き、腰を浮かせる。
 アリスは安心させるようにほほえんだ。
『ゼロさんは、少しお寝坊さんですから……きっと時間がかかってしまったのでしょうね』
 イカーナ地方のとある丘の上にいるだろう、とアリスは告げる。
 リンクはとるものもとりあえず、駆け出そうとする――が、寸前で足を止めて振り返った。
「アリス、お前はどうする。一緒に来ないのか」
『私は……あの人に合わせる顔がありません』
 彼女は顔を歪めた。大妖精らしい毅然とした表情は崩れ、隠しきれない感情があふれ出ている。中でも一番大きな気持ちは、悲しみだろう。
 常人なら「かわいそうだ」と流されそうなところを、リンクは逆にかっとなって眉を吊り上げた。
「逃げるんじゃない。俺に罰してもらおうなんて甘いことも考えるな」
 アリスははっとしてうるんだ瞳をこする。一方リンクは、彼女とほとんど同じ色の目を燃え立たせた。
「俺は許しも罰も与えない。自分から全部あいつに話せ。その上でどうするかは、ゼロが決めることだ」
『はい……』
「必ずここにゼロを連れてくる。それまで首を洗って待っていろ」
 台詞を間違えたような気がするが、リンクはそのままアリスと別れた。
 鬼神の仮面をかぶっていた時よりもずっと軽い気持ちと足取りで、光に向かって走っていく。

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